hptitle01

「思うがまゝに言うがまゝに」(第6回)遠藤武彦

「姉夫婦が父と養子縁組に
    私の為に父が相生町に別住宅を建設」

 大東亜戦争に敗れた昭和20年、わが家は現在の米沢市立病院前にある仁天堂薬局の場所にあった。その頃に耕作していた田圃は4町8反である。4町8反というと、当時としてはかなりの大百姓ということになる。したがって、身内の者だけでは到底仕事はできない。わが家族と同居はしなかったが奉公人のような男が2、3人いて、ほかにも女中が1人働いていたのを覚えている。
 わが家の南隣には人家が2、3軒あるのみで、今、米沢市立病院が建っている北側はわが家の田圃だった。そして東側には松川が流れていた。そのようなところで私は生まれ育った。自宅からは南に吾妻山がくっきりと眼前に聳えたって見えた。愛宕山方面を見ても遮るものがなく、景色が良かったことは既に述べた。現福田町2丁目にある三島神社に行くまでに、鰐淵さんというお金持ちの家の雑木林があり、私たち子供はそこでよく遊んだものだった。その雑木林は、結構深くて日中でも薄暗い感じの場所だったから、町内の子供会育成部が主催して、夏の夜に肝試しを行った。こんにゃくを吊るしたものをぶつけられたりした。
 私が小学校に入った昭和20年、父は満47歳だったが、間もなく一番上の姉園が婿を迎えることになった。姉夫婦は父と養子縁組をおこなったから、遠藤家の跡を継ぐのは姉夫婦となる。

06endouta
父清海が建てた旧母屋を解体し、現住居を建てた。

 父は私が一丁前の大人になるまで生きていられないかも知れないと、私の為に米沢市相生町に家を建ててくれた。私が小学校2年生になる前の昭和21年から22年の話である。この家に、母と私、妹の康子、直ぐ上の姉和子が住むことになる。
 柴田という名工によって本宅が造られたが、どうゆう訳か、台所がなかった。母の志んは表口の水場で炊事をしていたのである。厠は外にあった。後年のことになるが、私はこれでは不便と、台所と食堂、風呂場、二階を自分と姉と妹の部屋用に建て増している。
 この地区は昔、福田遊郭というのがあり、新地といわれていた場所である。一時、進駐軍がこの地域を宿舎にしたこともあった。その後に市営住宅が建設されかなりの世帯が入ってきて、町も相当に大きくなった。現在も遊郭があった当時の面影をやや残している。わが家のある場所は、昔、武蔵樓という建物が建っていた。
 子供の頃、わが家から現在の米沢市立病院がある南の方へは桜並木が続き、行き止まりとなっていたからこの場所で三角ベースの野球をして友達とあそんだ。
 以前の家は南部小学校の学区エリアだが、相生町は中部地域に属し興譲小学校の学区エリアだった。しかし、私は2年生から小学校卒業まで5年間、転校しないで南部小学校に通い続けた。
 当時は道路が無く、私は日朝寺、高岩寺の墓地を抜けて南部小に通った。今で言えば越境入学である。敗戦後の食糧難、東寺町の寺の墓前には供物の食べ物が捧げられた。それがしばしば盗られるのである。
 或る日、日朝寺の大和尚に捕まった。「お前か供物をくすねたのはっ」大音声であった。ところが私が清海の伜であることを知ると、「おめえの家にはコメはあっからな」と言うや、釈放してもらった。(元農林水産大臣、米沢市在住)

       123|4567891011121314