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『郷土誌葉山』第12号 古文書にC・H・ダラスの名


hayama-1 神奈川県三浦郡葉山町で郷土史研究を行っている葉山郷土史研究会(矢嶋道文会長)が発行する研究誌。同号は平成27年1月、葉山町町制施行90周年を記念して刊行された『葉山町の歴史とくらし』(葉山町刊行)で収録できなかった部分について掲載したもので、ほぼ1年間の編集作業を経て平成30年4月に発行した。
 巻頭から14ページに亘るグラビアには、谷文晁(たにぶんちょう、1763〜1840)が描いた「公余探勝(こうよたんしょう)図巻」(東京国立博物館蔵)が掲載されている。この画は寛政5年(1793)春、幕命を受けた老中松平定信(1758〜1829)が海防警備のため、相模・伊豆の沿岸を巡視した際に、同行した谷文晁に各地の風景を描かせたもので、合計79図あって逗子や葉山の風景が見事に描かれている。当時の地理や人々のくらしを知る上で貴重な史料である。
 本号では、葉山町とっておきの歴史が満載である。例えば、明治時代の洋行事情ー「外国渡航人名簿」、明治10年の徴兵免除に関わる届け、西南の役に葉山から出征して熊本で戦死した人、明治期三浦半島の行政機構と葉山町保有古文書の整理、「東海道中膝栗毛」を読み解き、三浦半島からの一行の足跡を重ねた旅日記など、20を超える研究成果が掲載されている。そのいずれもが十分に時間をかけて綿密に調べ上げられたものばかりで、「基本的立場はアマチュア精神」という会長の巻頭言は謙遜であろう。
hayama-2 米沢市に住む者からの視点で見ると、加畑千鶴子氏の「明治十二年に堀内村に滞在した外国人」という研究内容が特に興味を引く。 というのも、この中で「米沢牛の恩人」といわれ、日本四大牛の一つ、米沢牛の礎を作った英国人チャールズ・ヘンリー・ダラス(以下ダラス)について述べているからである。
(写真右=チャールズ・ヘンリー・ダラス)【尾﨑世一氏提供】
 加畑氏は平成29年7月、葉山町が保有する古文書の箱を整理中、「外国人止宿御届」という文書を見つけた。当時、横浜の開港地に住む外国人が届出をしないで歩き回れる範囲は40キロ四方だったようだ。ただ数日の宿泊が伴ったことで届出を余儀なくされた。居留地制度を廃止し、外国人が国内の旅行や居住、動産・不動産の所有など自由に行うことができるようになったのは、明治15年(1882)まで待たねばならない。まだまだこの当時は、外国人にとっては日本は不自由極まりなかったろう。
 「外国人止宿御届」の中に、ダラス一家、すなわちダラスと妻子5人、日本人従者4人が「汐浴(しおゆあみ=海水浴)」のために堀内村清浄寺に滞在し、明治12年9月3日から9日まで座敷2間を貸したという記録があった。住職、檀家総代、戸長の名で横須賀警察署に届けている。
 ダラス一家の「外国人止宿御届」には次のような記載がある。

   外国人止宿御届
      横浜在留四十三番
        英国人ダラス
        外国人妻 並
          子供四名
          従僕四名
         但し内国人
  右之者共汐浴之為明治十二年
  九月三日ヨリ同九日迄当村第
  弐百八拾四番地清浄寺座敷二
  タ間ヲ貸渡候ニ付内国人雑居
  不仕候ニ付此段御届ケ申上候
  也
    堀内村弐百八拾四番地
        清浄寺住職
         加藤哲應
        右檀家総代
        鈴木七左衛門
        戸長
         守屋恒基
  横須賀警察署御中

 この中で、「外国人妻並子供四名」とある。米沢ダラス協会のこれまで調査では、妻の名はエミリー・シャーロット・シーモア(1851〜1900)である。ただ明治12年(1879)9月時点で、ダラスとエミリーの間には、グレンドリン・シーモア(1876〜1891)、ヒルダ・メアリー(1878〜1958)、養女のエフィー・ダラス(1872/74〜1939)の3名は確認できるが、残りの子供一人は誰であろうか。
 リリアン・マージョリー(1881〜1883)、アイリーン・マーガレット・ダラス(1883〜1971)、ウイリアム・ロレイン・シーモア(1884〜1917)はまだこの時点では生まれていない。まだ把握しきれていない子供がいるのか。
 加畑氏は、横浜開港資料館所蔵の当時の在日外国人の住所録「ジャパンディレクトリー」(明治12年)の中で、ダラスの勤務先として、Whitfield and Dowson(Iron Works)社のClerk(社員)と記されているのを見つけた。ダラスの勤務先の固有名詞が出たことは大きな発見である。Ironとあることから、金属に関する仕事である。
 米沢を離れたダラスは、横浜の居留地にある日本アジア協会の仕事をしたが、明治9年(1876)に身を引き、その後は公認会計士を本業にしながら、欧米向けの特急便の会社を営んだり、不動産の斡旋をしたことがわかっている。明治18年(1885)、上海に移り住み、イギリスに石炭、銅の輸出を業務とする貿易商となった。上海での仕事は、横浜でのWhitfield and Dowson(Iron Works)社での経験や人脈をもとにした仕事だったのだろうか。
 ダラスはこれまでの文献や調査などから、1842年、ロンドンに生まれ、文久3年(1863年)に上海から日本に渡り、明治3年(1870)大学南校(現在の東京大学)勤務、明治4年(1871)10月から同8年(1875)3月まで米沢の興譲館洋学舎で教えている。任期を終えて横浜へ帰る時に、現在の飯豊町添川の牛を引いて行き、横浜の仲間に振る舞ったところ美味と評価が広がって、現在の米沢牛ブランドの元となった歴史的な人物なのである。またダラスは米沢を去る時に日本人コック萬吉に、文明開化の象徴だった牛鍋店「牛萬」を米沢で初めて開かせ、明治13年(1880)5月の米沢新聞には、「牛萬」の牛肉販売の広告を出している。
 ダラスの子供、リリアン・マージョリー(1881〜1883)はダラスが日本滞在中に生まれたが、「海で死んだ」という記録がある。ダラス一家が葉山で海水浴をしたという今回の古文書から、リリアン・マージョリーは海水浴中に死亡したのではないかと推定ができるのである。ダラスは明治27年(1894)に上海で亡くなった。享年53歳だった。
 加畑氏の研究は、米沢を去った後のダラス一家の足跡を記録するものとして極めて貴重なものである。それほど長い文献史料ではないものの、そこから読み取れる情報量は非常に大きく、今回の発表はダラスの研究を一歩前に進めるものである。(書評 米沢日報デジタル/成澤礼夫)

編集・発行 葉山郷土史研究会
連絡先   認定NPO法人葉山まちづくり協会
      TEL 046(876)0421
発行日   平成30年(2018)4月29日
価 格   1,000円(税込)

(2018年6月11日19:00配信、7月21日15:13最新版)