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書評 頸城文化67号 上越郷土研究会発行


book42 上越郷土研究会(花ケ前盛明会長、上越市)が発行する会誌「頸城文化」。本誌では、花ケ前盛明会長を含む9個人・団体が寄稿している。会誌名にある頸城(くびき)地方とは、新潟県の上越市、糸魚川市、妙高市及び柏崎市と十日町市の一部を指し、上杉謙信が支配した越後の中でも、まさにその中核的な部分を占める地域である。
 当社に頸城文化67号を送ってくれたのは、長岡市渡沢にある昌興寺住職の石田哲彌氏からで、一昨年、戊辰戦争150周年の取材で、長岡市栃尾にある瑞雲寺(石田哲彌氏が先住)を訪れた時に初めてお会いし、以来、情報交換をさせて頂いている。
 昨年は新天皇陛下の即位が行われ、日本国中が天皇制やその即位に関わる儀式などをニュースで知る機会も多かった。大嘗祭での天皇皇后が着た衣服にも、日本の長い歴史を感じさせる奥ゆかしいものだった。
 巻頭の寄稿、鰐淵好輝氏の「大嘗祭の成立過程・追記 弥生時代後期の祭祀場・伊勢遺跡の紹介」は、正に新天皇陛下即位の年に因んだ話題として時宜を得ている。伊勢遺跡は、滋賀県守山市伊勢町・阿村町・栗東市野尻にかけて野洲川の扇状地に広がる弥生時代後期の大規模遺跡で、面積は約東西700m、南北450m、弥生時代後期の遺跡としては国内最大級である。大型の建物が計画的に立ち並び、祭祀空間を持つ遺跡として、この時期としては他では見られない規模と言う。しかも遺跡からは生活遺物がほとんどなく、ここが特異な場所だったと推定できるとしている。
 鰐淵氏は、発掘された遺構などから大型建物の復元想像図を掲載しながら、この伊勢遺跡の祭祀の特徴として、至高神で牧畜神である須佐之男命の和魂の銅鐸を、春の田の神と秋の山の神である十二神が囲み拝んで祭祀をしていた様子を解説する。そして現在の伊勢神宮と大嘗祭もこの伊勢遺跡の記憶によるもので、弥生人の稲作への祈りも感じられると述べる。
 石田哲彌氏は、"越後最大のミステリーか?「越後統一」に秘された上杉謙信の引退劇と絶世の美女「妙徳院」"、と題して寄稿した。石田氏は長岡市栃尾にあった検断、富川家に残された「富川家文書」の一文にショックを受けたという。それは「妙徳院は引退するにあたり、越後国五箇所の領地を賜って長岡蔵王権現に住んだ。そして信濃国松代城主、真田伊豆守の家臣、大熊靱負(よしゆき=秀行)と所以あるによって、彼の人の甥を養子にもらい…」というものである。
 妙徳院とは、上杉謙信の重臣、本庄実乃の孫、栃尾城主本庄清七郎秀綱の娘で、のちに徳川二代将軍秀忠と結ばれ、生まれた姫は御水尾天皇に嫁いだ。石田氏はこの一文が意味するものとして、上杉謙信の引退劇の引き金となった土地紛争の当事者、本庄実乃と大熊朝秀の子孫が登場して、敵対していたはずの両者が緊密な関係にあったことを示唆していると述べる。
 背景には、24歳の頃の上杉謙信は越後を平定し、念願の上洛を果たしたが、帰国すると政権の中枢を担う重臣の本庄実乃と大熊朝秀が土地の問題で鋭く対立していた。謙信はこの事態に嫌気がさし、突如として引退して高野山に向かうという大事件があった。そして大熊朝秀は謀反を起こし武田信玄に逃れるという結果を迎えた。
 石田氏は上杉謙信の引退劇は本当だったのか?と疑問を呈し、「上杉謙信の引退は、越後を一枚岩にするために演じられた大胆な芝居ではなかったのかという疑惑が出てきた」と述べる。それは戦国時代における越後最大のミステリーである。
 石田氏の論考で大変に興味深いのは、春日山林泉寺で修行一筋の生き方をしていた景虎(謙信)が、14歳にして凄惨極まる戦場に放り込まれた心境を推理しているのである。戦場とは、人を殺すなかれという仏教の教えとは真逆の世界である。そこには凄まじい苦悶と葛藤が沸き起こったことは想像に難くないと述べる。そして、ついに「筋目を貫き、神仏に恥じない生き方」を大悟した。今日でいう「義」の精神であると述べる。石田氏の流れるような文章力と論考の展開は、歴史に詳しくなくても系統立って読むことができ、読者は知らずのうちに戦国時代に生きた上杉謙信と出会えるような感覚になるに違いない。ミステリーは石田氏のペンによって鮮やかな解決を見せる。(書評 米沢日報デジタル社長 成澤礼夫)

発行者 上越郷土研究会(花ケ前盛明方)
    〒942ー0081 上越市五智6−1−11
    TEL025−543−4354
発行日 令和元年9月25日

(2020年1月3日14:00配信)