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竹田 歴史講座

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東北・米沢の怪異譚 現代語訳『童子百物かたり』



hyakumonokatari 米沢藩第9代藩主上杉鷹山(1751〜1822)が隠居後に住んだ三の丸御殿の大台所頭として仕えた米沢藩士・吉田綱富(号は糠山:こうざん、1756〜1849)が晩年に書き残した『童子百物かたり』。
 綱富は米沢藩猪苗代組という下級藩士の家に生まれたが、若い頃は番所勤めや籾代官所勤めで、寛政2年(1790)に、能筆や学識が認められて役所日記方に取り立てられ、文政3年(1820)、65歳の時に一代限りの御馬廻組に召されて中級家臣となり大台所頭となった。
 綱富の家があった南原猪苗代町から少し南に位置する所に、米沢藩のキリシタンが処刑された殉教地、糠山という場所がある。綱富の号はその糠山から来たものか。
 この物語を書いたのは綱富が86歳の時の天保12年(1841)2月で、身近に聞いたり、体験したりした不思議な話や怪異な話を多く収めている。その話には、いつ、誰から、どんな時に聞いたかなども記されており、当時の生活をうかがい知ることができ、歴史的にも民俗的にも面白い内容である。タイトルは「百物かたり」とあるが、実際には上巻の50話しか書かれなかった。
 綱富は何のためにこれを書いたのか。著者は序の中で、「孫や曾孫がじじばばになり、また孫や曾孫らにせがまれて昔話をしてやるときの種になれば」と記している。そのため子供向けの童話のような書き方ではなく、大人のための物語となっていることも特徴である。綱富は序の最後に、「出放題(口にまかせて、勝手なことをいう)なので、決して是としてはいけない、また非としてもいけない」と、神妙に述べているがここには多くの教訓が含まれている。
 200年以上前に書かれた文章であり、現代に生きる我々には現代語訳が必要であるが、それを行ったのは綱富から数えて6代後の子孫、水野道子さん。水野さんは米沢市生まれ、5歳まで米沢市に住み、東京都立武蔵高校、東洋大学文学部国文学科を卒業された。現在、日本民俗学会、日本昔話学会、伝承文学研究会、西郊民俗談話会の会員となっている。
 さて、50話の中身だが、狐に化かされたり狐に関わる話が50話中に10話ほどと最も多い。狐に化かされるという話は、私も子供頃に親に聞かされた思い出がある。
 50話の中で、私はとりわけ30話が興味を引いた。「座頭金玉殺されること」の題で、勝新太郎の座頭市を思い出したからである。本書の解説には、座頭とは室町時代の盲人の琵琶法師の官位の一番下のくらいだという。頭を剃った盲人で、はり・あんま・遊芸をした人のことを言う。その話はこうだ。
 下長井伊佐沢村(現長井市伊佐沢)に金玉(きんぎょく)という座頭がいて、座頭という位をもらうために若い頃から倹約して貯めたお金を持って旅費を作り、一人杖をついて村を出発し、2、3日後には米沢の南、板谷街道沿いの大沢村の鈴木甚八という者の家に泊まった。甚八は農民なのに仕事もしないで博打を打つなど身持ちが悪く、この座頭の金を奪おうと考えた。そして座頭が寝入ったところを脇差で一討しようとしたが仕損じてしまった。すると座頭は甚八に「少し待ってほしい」という。そして「命を取られるのは仕方ないが願いがある」といい、甚八に「人々の慈悲や情けの合力で金子を調達して上京の計画を立てた。その慈悲や情けを水の泡にするのは残念だ」と述べ、「そなたを恨んで怨念を忘れられず、そなたの命を取ってしまうのは遠くはない。自分のことを回向してくれるのであれば、何の恨みも残らない」と述べたことから、甚八は「懇ろに回向してやろう」と述べる。
 座頭は「それではこの文(もん)を」と言って渡したのは、「こかねだま大(だい)たくさんでせっしょうす人はれいぼくはなはたのやつ」というもので、この文を毎朝、声高に唱えて手向けてくれれば、何の恨みもあろうかと述べる。
 そして甚八の手にかかり座頭の命は消えた。甚八は毎朝毎朝、座頭の頼みの通り、声高にその文を唱えた。翌春、この村に勤務の役人が甚八が唱えている文を聞いて、召し捕り、甚八は白状して御仕置きとなったという物語。
 いまこの吉田綱富の住んだ古民家は、平成29年2月以来、東京都より米沢市に移住したピアニストの福田直樹さんが住んでいる。200年を超える鷹山時代の風情を残す茅葺の家が福田直樹さんという芸術家の拠点となり、米沢市からの文化の一大発信地となっていることも吉田綱富との不思議な縁を感じさせる。

著者 吉田綱富 水野道子[訳]
定価 本体2,300円+税
発行 七月社
発行日 2019年3月8日初版第1刷発行

(2021年1月31日20:50配信)