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書評『この子ばっかしゃ』 石田哲彌著


1 令和6年4月初め、当社にレターパックが送られてきた。送付元を見ると、新潟県長岡市栃尾にある瑞雲寺石田哲彌師からで、開封するとその中に一冊の本が入っていた。『この子ばっかしゃ』というちょっと変わったタイトルである。
 私が石田師と初めてお会いしたのは、平成30年9月の事。その年は戊辰戦争から数えて150年で、現在の長岡市大黒町付近での戦いで先祖を亡くしたという元米沢藩士の末裔の方と一緒に新潟県内の戊辰戦争の戦跡をたどっていた。米沢藩士が栃尾でも戦死したことを知って同地を訪れた。
 栃尾観光協会を訪ねて、「どなたか地域の歴史に詳しい方はおられませんか」とお尋ねしたところ、教えていただいたのが石田師である。その足で早速瑞雲寺をお訪ねすると、普段は別の寺の住職をされている石田師が、ちょうどお寺におられて寺院をご案内いただいた。戊辰戦争の際に瑞雲寺が米沢藩士の屯所になり、その時に藩士が描いた絵や天皇の意を受けて発給された命令文書である綸旨(りんじ)など、貴重な寺宝を見せていただいた。
 栃尾といえば上杉謙信が初めて城主として栃尾城に入った場所。すなわち戦国武将としてのデビューを飾った地として有名である。今も上杉家との関係が深い土地柄で、栃尾で毎年8月下旬に開催される「栃尾謙信公祭」には、上杉家第17代当主の上杉邦憲法氏が毎年瑞雲寺においでになるという。
 さて、その石田師、後に私は頂いた著書で知るところとなるが、昭和17年生まれ、東京理科大学卒業、上智大学理工学部勤務を経て、寺院の再建のために新潟県に帰郷、住職となる。新潟県立高校教師となり、新潟県史編纂委員、栃尾市文化財会長などを歴任し、現在も日本石仏協会理事、新潟県文化財保護連盟理事、新潟県民俗学会理事、栃尾観光協会顧問、栃尾謙信公奉賛会副会長などを務める。まさに僧侶、教育者として活動しながら、歴史、民俗、宗教、和算などをカバーする専門家だった。著書も多数あり、令和元年、曹洞宗特別奨励賞(駒澤大学)を受賞した『禅語の妙味 茶席の禅語講座』は記憶に新しい。

 さて、タイトルの「この子ばっかしゃ」というのがとても気になった。「ばっかしゃ」を標準語で表せば、「ばかりは」とでもいう意味だろうか。「この子ばかりが良い思いをして、ちゃっかりして」というひがんだ意味にも取れるし、或いは「この子ばかりは大切にしたい」という愛情のこもったニュアンスとも受け取れる。石田師が説明しているところによれば、「この子ばっかしゃ(手に負えん)」という意味で、石田師が言われていたようだ。一休さんのように子供時代から大人顔負けの賢さを持っていたのだろう。
 とにかく早速、お礼の電話をすると、石田師は「この本は自伝的小説です」とおっしゃられた。自伝的小説?、と、私は一瞬その意味するところがわからなかったが、一体どんな中身なんだろうと大いに興味をそそられた。本文を読み進めて行った。以下はその内容の要約である。
 時代は戦後間もなく、主人公の少年ケンは大人から発せられた「この子ばっかしゃ」ということばを耳にする。ケンは昭和17年、新潟県の片田舎で生まれた。昭和20年の敗戦直前、父は南洋の国で戦死し、母、姉、本人の母子家庭だ。家はもともと小作農家で本家の田畑を耕し、生計を立てている。戦後GHQが取った政策、農地解放により地主の土地がケンの家のような小作農に分け与えられ、自作農家に変わった。だからケンの家ではマッカーサーは「世直し大明神」だった。世直し大明神とは、初めて聞く面白い言葉だ。
 ケンの賢さを示す例がある。ある日、ケンの家の米びつが空になって明日の米がない。ケンはヤミ米を買いに知り合いのおばさんのところに行く。1升の値段が米屋では100円のところ、「ヤミ米だから120円」と言われた。110円に値切るも拒まれた。そこでケンは「米を2階に担ぎあげる手伝いをする」というと、そのおばさんは「この子ばっかしゃ」とつぶやきながら110円にまけてくれたのだ。
 またある時は小学5年生のケンたちは、山林の管理人の爺さまの目を盗んで薪拾いのアルバイトをする。しかし、管理人に見つからないように「逃げてばかりいてはいけない!」と気づく。そしてキャラメルや刻み煙草を持参して爺さまに愛想を振りまくと、爺さまは「ねらばっかしゃ」とつぶやいた。何と賢い子供たちなんだ、ちゃんと大人の扱いを知って、世渡りしている。
 ページを読み進めていくと、ケンの小学校から中学校時代の面白い話(エピソード)が次から次に続いていく。「やればできる」をテーマに弁論大会で発表、第3位になる。それらのエピソードの一つひとつが現在の石田師の基礎を作ったとも言えるもので、いたずらっ子で、何事にも興味津々、探究心に溢れていた少年だったことを物語っている。読者の中には、その生きた時代から戦後の混乱期に子供なりに必死に知恵を働かして生き抜こうとしたケンの姿を自分と重ね合わせる人もいるだろう。

 ケンは中学校を卒業した昭和33年、集団就職で上京し、川崎の機械工場に勤務する。そこで機械にベルトがねじれて掛けられていることに気づく。「メビウスの帯」との出会いである。石田師は、このメビウスの帯を基にして、男性と女性についての興味深い考察を行っている。両者は、これまではコインの裏表の様な存在であると思われていたが、実はメビウスの帯上の同一平面上の存在であり、単に位置の相違、つまり表裏一体であるいう説だ。なるほど、これは哲学的な素晴らしい考察である。
 ケンは会社に入って現実に出会ってみると、「学歴」というとてつもない厚い壁が存在し、自分の行く手に大きく立ちふさがっていることに次第に感じていく。高校や大学を出た人たちにとっての常識を自分だけが知らないという不安、高校に進学しなければ永久に不安と劣等感にさいなまれる。そして定時制高校に進むことになった。暴力団の勧誘に、命をかけた喧嘩になりそうなところで奇跡的に危機一髪で脱出したりする。
 ケンは会社で管理課外注係に配属された。ストライキを経て会社が家族のようにまとまっていく姿を見た。さらに大学勤務しながらキリスト教系大学の学生になった。入った寮の影響から学生運動に関わった。大学卒業後は大学の非常勤助手となり、その頃に始まったばかりの宅建の資格を取り不動産屋を始めた。しかし、研究室の教授から「何か君の日々は荒れているようだね」と問われて、ケンはドキッとする。「今の生き方は自分をぼろぼろにする」と気づき、それから1ヶ月後に不動産屋から足を洗った。
 ある時、故郷の田舎で市議会議長をしている人物が病気になり、ケンは大学病院の教授を紹介した。その議長からケンに故郷に帰ることを促される。ケンは「自分自身、一体何ができるのか?」を考えると実力は何もない。しかし、「ここで第1回の人生を終わりとしよう」と決意し、「やってみてもいい」という思いが湧いてきた。人生25歳、故郷に向かって再出発となる。故郷で寺の再建に取り組む。ケンが務める大学は、キリスト教系、お寺とは全く正反対な世界にもかかわらずである。
 社会の荒波にもまれながら、ケンは「やればできる」と、たくましく生きていく。戦後間もなく、敗戦から一歩一歩立ち直っていく日本の中で、ケンを始め、多くの人たちが困難と逆境の中でも自分の人生を切り開いていった。著者は言う。「生き強さ」は、人生を開く鍵であり、未来の扉は自分の力で開いていく。そんな鍵を本書は提供してくれる。若い人たちに読んでほしい一冊である。
 本書の中に、「人生25歳までの自伝的小説」とある。ということは、25歳からの続編も期待できる余韻を残しているとみていいものか。戦後の復興の時期を舞台に、探究心を持って、「やればできる」を地で行ったケンの生き方が本当に感動的で、清々しい読後感にしばし浸ってしまった。石田師の現在地に至った背景が本書から理解できた。(評 米沢日報デジタル/成澤礼夫)

著 名 『この子ばっかしゃ』
著 者 石田哲彌
発行所 幻冬舎
定 価 1,600円+税
発行日 2024年3月22日