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書評『伊東忠太年報2024』、『会報第4号』


 米沢市出身の文化勲章受章者、建築家、元東京大学・元早稲田大学教授である伊東忠太(1867ー1954)を好きな者5人が集まり、令和4年10月に設立された「伊東忠太の会」(山下敦代表)は、発足から2年余りで山形県内はもとより、関東方面まで会員の輪が広がっている。建築という専門領域において、これほどの関心と広がりを見せるのは、伊東忠太が日本を代表する建築の巨人であるというだけでなく、妖怪を集めそれを建築の世界に活かすなど、伊東忠太の個性的、人間味あふれる点が人々を魅了してやまないからだろう。
1 奇しくも令和6年(2024)は、伊東忠太の没後70周年。それを記念して、同年11月16日、「伊東忠太の会」は、業績を広報し、若い世代の理解者、次世代の研究者を育成する目的で機関誌『伊東忠太年報2024』と『会報4号』を発行した。機関誌は、置賜文化フォーラムの補助を受けて作成された。
『伊東忠太年報2024』では、前山形県産業科学館館長の宮野悦夫氏が「建築山形と言わしめた"三幅対"の建築家 忠太と利器と精一郎」と題して寄稿した。宮野氏は、明治維新後、文明開化、殖産興行のスローガンを目に見える形にしたものが、「建築物」で、それを見た人々は、今まで見たことがない造形が出現したことで、時代が変わったと実感し得たであろうと述べる。
 明治18年に、5人の親密な仲間で作った「重遠会」には、伊東忠太、中條精一郎、血脇守之助、池田慎平、千坂智次郎がいる。さらに帝国大学工科大学造家学科に進学したのが伊東忠太、中條精一郎、白鷹出身の佐野利器の3人である。
 伊東忠太は、大学院の論文の中で、「造家」から「建築」への名称変更を提案し、これを受けて明治30年に造家学会は建築学会、大学造家学科が建築学科に改称されたことに触れている。なんと、先見の明があることか。関東大震災後の帝都復興事業では、伊東忠太、佐野利器の働きは顕著である。明治神宮内苑の神社本殿設計は伊東忠太が、外苑は佐野利器が総監督となり、東京の新しい顔が完成した。一方、中條精一郎は民間において、30年間で230を越える建築物を設計し、日本の建築事務所の先駆けとなった。 
 この3人が山形県出身者ということは、建築界では有名で「建築山形」を象徴しているそうだが、これまで地元の歴史ではあまり知られてこなかった。年報の中では、3人の年譜が時代背景も含めてまとめられている。ほかに、映像製作ディレクターの庄司勉氏が伊東忠太が設計した山形市七日町の白鳥山明善寺本堂を紹介した。また山下敦代表が、上杉神社稽照殿学芸員をした尾崎周道が、昭和42年から43年にかけて、山形新聞に147回にわたり連載した「青年 伊東忠太」を読み解くと題して紹介している。
2『会報第4号』は、2023年11月18日に開催された年度総会、特別講演会、同年9月3日に行われた火種塾での講演、2024年8月25日に、先人顕彰会と伊東忠太の会共催で行われた第33回鷹山公シンポジウム「改めて伊東忠太の世界を探るー忠太没後70年にあたってー」の模様などを記録している。
 これらの資料を見ると、伊東忠太の業績が今なお、深く幅広く我々の生活や日本文化に継承されていることを知ることになる。「伊東忠太の会」の活動が年々深化していることに拍手を送りたい。(評者 米沢日報デジタル/成澤礼夫)

書 名『伊東忠太年報2024 第1号』
   『会報 第4号』
編 集 山下敦ほか4名
発 行 伊東忠太の会
    (米沢市門東町3−3−39 東條ふれあいプラザ内)
    問い合わせ TEL 0238-23-2341
発行日 2024年11月16日