![]() |
九里学園教育研究所が年に一度発行する冊子。前号に続いて山形県ゆかりの紅花をテーマに特集した。
米沢市は、山形県紅花振興協議会(会長 吉村美栄子山形県知事)が取り組む「最上川流域の紅花システム」の世界農業遺産の申請に合わせて、「最上川源流よねざわ紅花まつり」を毎年7月に米沢市関根にある山上コミュニティセンターエリアで開催している。令和6年に第4回を数え、年々、盛り上がりを見せている。畑一面に咲く紅花を眺めて楽しみながら、紅花染め、紅花摘み取り体験、地元関根地区に伝わる郷土芸能など、米沢の紅花の魅力を楽しむ内容となっている。
あづまね第40号では、はじめに、九里学園教育研究所の笹原裕一氏が「『私の紅花研究』鈴木孝男先生」と題して寄稿した。江戸時代、現山形県の最上川に沿った地域では、紅花栽培が盛んに行われ、米沢藩もその一つである。しかし、明治時代に入ると欧米から化学染料が輸入され、染色材料としての紅花栽培は廃れてしまった。
そんな中、戦後、米沢市立第二中学校で教鞭をとっていた鈴木孝男先生は、昭和26年から紅花研究を始め、同28年に紅花に含む色素の伝統的抽出法と紅染めの原理を見出す成果を上げた。さらに紅花から作られる紅餅から紅色素抽出の技法に挑戦し染色法を開発した。勤務していた中学校では、生徒とともに紅花の栽培から紅花染をクラブ活動として指導し、その時の研究作品は「日本学生科学賞」を受賞するという栄光に輝いた。
昭和38、9年頃に、紅花染の技法を地元米沢織の機屋に伝え、それが現在に至っている。さらに昭和41年に鈴木先生は、「紅花研究所」を設立、昭和40年代後半には全国に知れ渡り、全国各地で紅花染が行われるようになった。
次の寄稿も笹原氏によるもので、天然色素研究家で、元山形大学工学部応用化学科文部技官の馬場肇先生を取り上げる。馬場先生は、大正13年米沢市生まれで、米沢工業高等学校応用化学科卒(現山形大学工学部)で、昭和42年、水に溶けないと言われていた紅を水に溶かす技法を完成させた。笹原氏は馬場先生の研究成果を紹介、この中で、初めて紅花が日本に渡来したのが応神天皇の御代で、それは地中海の島からエジプト、インドを経由して、中国の呉の国から日本に渡来した歴史が記されており、興味ふかい。
他には、出羽もがみべにばなの会の長瀬正美氏が「時空を旅する最上紅花」として、紅花との出会い、最上紅花の歩みなどを紹介、白鷹紅の花を咲かせる会事務局長の今野正明氏が白鷹町における紅花栽培について寄稿している。白鷹町は紅花生産量が日本一となり、今、「日本の紅をつくる町」として全国に発信している。
米沢市の株式会社筬園社長の猪俣荘吉氏が「筬園三代の織物記」を掲載。
本誌を読んで、これまで多くの人たちが紅花の復興に向けて努力してきたことがよく理解できた。本書は、過去から現在に至る紅花の歴史とそれに関わってきた人たちの血と汗と涙の結晶とも言える物語をきっちりとまとめている。
発行人 九里廣志
発行所 九里学園教育研究所
発行日 令和6年3月20日
頒 価 1,600円