チャールズ・ヘンリー・ダラスの年譜

天保13年
1842
英国ロンドン市ランベス区ノーウッド町クラウンレーンに1 月20 日生まれる。この地で多くの学識を身に付ける。神学校に進み英才教育を受ける。
万延元年
1860
19歳
大志を抱き中国大陸に渡る。広州・慶門・福州・上海で貿易商として活躍する。
文久3年
1863
22歳
東洋事情に長じた若き貿易商として来日する。豊かな学識と経験、加えて上品な人柄と教養は在留外国人の聞で広く認められ、その才能に期待される。
慶応2年
1866
25歳
フリーメイソン横浜支部の創設に尽力する。ロンドンの本部から「横浜支部1092 E CJ として認定される。また、各種情報の収集、本部との事務連絡等で実績を上げ貿易関係商社、在留同胞の聞で信頼を一層高める。
明治3年
1870
29歳
大学南校(現東京大学)に語学教師として招聴される。同年11 月23日夜半、神田鍋町(現須田町)で壌夷壮士数名に襲われ、同僚のリングと友に重傷を負う。世に言う「ダラス・リング事件」である。その結果、雇用期間中に伏床療養の身となり、12月までの給料と養生料を支給され解雇となる。
明治4年
1871
30歳
米沢で洋学振興の気運が高まる。
1 月に藩校興譲館に洋学舎(洋学科)が設立され、2 月から授業を開始し外国人教師の雇用が急がれた。10 月1 6 日着任、月給250 円の高給で契約する。住宅は館内東南の隅に建てられた新築の洋館が与えられた。
米沢県民からは礼儀の正しい英国紳士として敬愛される。洋学の他にクリケット・高飛び・器械体操など、当時の近代スポーツの紹介にも尽力する。また、英語の発音入門書「英音論」を著す。
明治6年
1873
32歳
興譲館に休暇を申し出て、英国に一時帰国する。10 月14 日サリー州ギルフォードでエミリー・シャルロット・シーモアと結婚する。そして妻を連れて再び米沢に帰る。
明治8年
1875
34歳
3月、興譲館との雇用契約が満了し、3 年6 ヵ月に及んだ米沢での生活に終止符を打ち、横浜の居留地に戻る。その折、東京から連れてきたコック萬吉に資金を提供し米沢大町横丁で米沢最初の牛肉店「牛萬」を開業させる。また、米沢での生活の中で食した米沢産の牛肉が非常に美昧しかったので「米沢のおみやげ」として生きた牛を旧藩領西置賜郡添川村の佐藤善次郎という人から買い受け、横浜の居留地まで曳いて行き、後日友人や知人に馳走すると、その美味しさに皆、驚嘆又驚嘆する。
これは「米沢牛」が世に出た最初の出来事であった。その後、多くの米沢牛が横浜に送られた。居留地43 番に住まいを構え、当時の米英人の有識者で組織された「日本アジア協会」の委員や書記を務める。協会の機関誌rTransactionJ に論文を発表する。
「街道旅案内付置賜県収録」明治8 年5 月発表「米沢方言」を発表
明治9年
1876
35歳
協会から身を引き居留地28番に事務所を開設して、公認会計士を本業とし、欧米向けの特急便の運送会社、不動産斡旋業など手広く事業を行う。
明治18年
1885
44歳
家族と共に上海租界に移住、英国向けの石炭、銅の輸出を業務とする貿易商として活躍する。
明治27年
1894
53歳
上海租界の自宅にて病により5 月1 5 日永眠する。享年53 歳

(文責 尾崎 世一)