米沢牛の年譜

 天和元年(1681)米沢藩主上杉綱憲公の時代に南部地方(現岩手県・青森県の一部)から農耕・運搬圃捺肥を目的に南部牛を導入し、藩内の農家に飼育を奨励したのが、この米沢地方での牛飼いの始まりと伝えられております。

 寛政先年(1789) 南部の三陸沿岸で砂鉄が発見されます。南部藩はこの鉄を藩の経済を支える産業として復興にカを入れ、南部牛は『鉄の道」と言われた粗鉄の輸送で活擢します。越後の三条は古くから金物の加工地として知られる所で町には沢山の鍛冶屋や鋳物屋が軒を並べておりました。米沢地方に古くから語り継がれてきた語に「春になり、青草が生え始める季節になると南部地方から牛の背に沢山の鉄を乗せた何十頭もの牛の行列が越後の三条を目指して越後街道を通っていった」と言われているものがあります。この商隊を地元南部では『牛追い道中』と呼ばれ、三陸の野田や久慈を出発し、盛岡城下から奥州街道に入り、白石まで南下し、ここで右折して二井宿峠を越えて米沢藩領に着き、さらに高畑(現高畠)、小松(現川西)と越後街道(十三峠)を小国、関川へと進み羽州浜街道を経て新発田、そして三条に到着し二十日余りの長旅が終わります。ニ、三日程、鍛冶屋や鋳物屋に運んできた鉄を全て売り終わると同じ道で帰路につき、途中の村々で牛の購入を希望する者があれば牛を売り、奥州街道に着く頃には全てを売り尽くし身軽になって南部に帰る一石二鳥の旅でした。

 当時の越後街道は内陸部と越後沿岸部を結ぶ交易街道として栄えており、宿場で荷を運ぶ便投用の牛が必要とされ、また、この辺りは稲作や畑作が盛んで春の農繋期、秋の収種期にも家畜としての牛は必要不可欠なものでした。現在、小国、飯豊、米沢、川西の各地域は「米沢牛』の産地ですが、南部地方の牛方たちが売り払っていった牛が定着し、牛を飼う習慣が生まれたことに端を発しています。移入された牛は二、三年も使役すると気候風土に適しているのか、村人の暖かい情愛に馴染んだのか「使役していると肥って使いにくくなる」と言う理由から博労に売られますが、この牛こそが後に東京や横浜で、その美味しさが評判になる「米沢牛」だったのです。この時代の牛は短角種系南部牛といわれるものです。

 ここから、米沢牛の恩人が登場します。明治4年、藩校興譲館に洋学舎が設立され、外国人教師として英国人チャールズ・ヘンリー・ダラスが招聘され同8年3 月まで滞在しますが、その間に食した牛肉が非常に美味しかったことから、横浜の外国人居留地に戻る折に「米沢のおみやげ」 として生きた牛を連れて行き、友人・知人に馳走したところ、その旨さに驚嘆するばかりでした。東北の片田舎の牛肉が文明開化の横浜で美味しさを認め
られた記念すべき出来事になりました。暫くしてダラスの伝手で沢山の米沢産の牛が横浜居留地に送られました。

 大正8年、当時は「改良和種」 と呼ばれた、現在の和牛の先祖にあたる牛を鳥取県から導入し、新たな「米沢牛」の品質改良に務めます。

 昭和19年、国はこの改良和種の形質、特性が固定されたとして『黒毛和牛』と命名します。「米沢牛」 は永い歳月の中で培われた肥育技術と自然環境が相候って、より良質の肥育牛として生産されるようになり、今日の「米沢牛」 に至っております。

(文責 尾崎世ー)