米沢日報新聞記事 平成22年2月28日号から

イザベラ・バード、高梨健吉訳「日本奥地紀行」平凡社

イザベラ・バード「日本奥地紀行」とC・H・ダラス「置賜県収録」の接点

寄 付  尾崎 世一

○はじめに

 昨年秋、米沢市に住むとある方から「日本奥地紀行」の著者として知られる英国人旅行家イザベラ・ルーシー・バード(以下イザベラ・バード、1831ー1904)と米沢の興譲館洋学舎で洋学教師として赴任し、「米沢牛の恩人」として地元で親しまれている英国人チャールズ・ヘンリー・ダラス(以下ダラス、1842ー1994)は、横浜の居留地で交流があったのではないかと言う話を伺う機会があった。とても示唆に富む話だったことから、私も大変に興味が湧き、高梨健吉訳のイザベラ・バード著「日本奥地紀行」を手にとり読んでみた。

 イザベラ・バードは、英国ヨークシャーの牧師の長女として生まれ、幼い時から病弱だったが健康のために外国旅行を志し、安政元年(1854)の二十三歳から世界各地を旅行に出かけた。日本には、明治十一年(1878)春、米国サン・フランシスコから船で十八日間かけて、太平洋を渡り横浜に上陸、十八歳の青年「伊藤」を雇い、従者兼通訳として東北、北海道への長期旅行に出発した。この旅では東京から会津盆地を経て、新潟に行き、そこから小国を経て置賜盆地に入り、その景色の美しさを「東洋のアルカディア(桃源郷)」と「日本奥地紀行」の中で記述するのである。

○興譲館洋学舎に赴任したダラス

 ダラスは明治八年(1875)三月に、米沢の興譲館洋学舎での洋学教師の契約が終わり、米沢を離れて横浜に戻り、明治十一年頃は横浜居留地四十三番地に住居を構えていた。当時、東京や横浜の米英人の有識者たちの間で「日本アジア協会」が組織されており、ダラスは、東洋通で豊かな学識が評価されて、米沢から帰任するとその協会の委員となり、書記を務めた。
ダラスは、間もなく協会の会報「Transaction」(会報、紀要の意)に米沢滞在中に準備をしていたと考えられる「街道旅案内付置賜県収録」と「米沢方言」と題した二つの論文を発表した。前者は明治八年(1875)五月に発表されたもので、東京から米沢までの旅案内的な解説をし、米沢を中心とした地域の地理や産業等をまとめたもので、後者は同年六月に発表、ダラス自身が米沢の住民から聴取した「米沢弁」と東京地方の言葉、発音とを比較対照しながら言語学的な考察を交え、米沢の方言を研究した論文である。

 ダラスは明治九年(1876)には、協会から身を引き、その後は居留地二十八番地に事務所を開設して公認会計士を本業としながら欧米向けの特急便の運送会社代理店等を営む。そして、明治十八年(1885)、家族と共に中国上海租界に移住した。これからすると、イザベラ・バードが来日した明治十一年には、横浜居留地内に居住していることや、同国人であることから日本アジア協会を通じて交流があったとする予測は可能と言えるが、「日本奥地紀行」の中で、ダラスと実際に交流があったかどうかの記述は見当たらない。ただ、文中の随所にアジア協会誌についての記述があり、特に次の一節には注目される。「私に、この旅行を思い立つにいたらしめた『アジア協会誌』の一論文がある」と書いていることだ。この論文とはダラスが書き纏めた「街道旅案内付置賜県収録」ではないだろうか。

○置賜の微細な観察と丁重な表現、大きな賛美

 この「街道旅案内付置賜県収録」は、明治四年(1871)十月、ダラスが東京から米沢の興譲館洋学舎へ赴任のために向かう折りに、通過した各地をよくも調べたと驚くほど詳細に地理や地形の記述がなされていて、イザベラ・バードが旅のガイドブックとして選ぶのに最も適切なものであったと思われる。この論文は、米沢市在住で、山形大学名誉教授の松野良寅先生によって全文が翻訳され「米沢方言」とともに「チャールズ・H・ダラスー米沢英学事始ー」に載っている。

 また、「日本奥地紀行」の“はしがき”には、英文の「日本アジア協会誌」「ドイツアジア協会誌」「日本雑録」などや「ジャパン・メール」、「トーキョウ・タイムス」に掲載された「日本の特殊題目に関する論文が私のために非常に役に立った」とも述べている。イギリス公使館のアーネスト・サトウ等の在日英国人に対しても、「私に与えられた御支援を深く感謝する」とあることから多くの日本情報は、こうした人々から得ていたと思われる。ダラスの論文については、同様の筋から取得したものだろう。イザベラ・バードは、ダラスと直接の面識は無かったかも知れないが、彼女はダラスの論文に非常な興味を持ったことは疑う余地がない。ダラスの「街道旅案内付置賜県収録」の内容に余程刺激されたのか、「日本奥地紀行」の中で米沢平野に入ってからの文章は、初めてこの地を訪れた人とは思えない微細な観察と文章の一言一句に丁重な表現と大きな賛美が随所に含まれており、その極致が「東洋のアルカディア」と称したことである。

 置賜盆地に入ったときの様子の概略はつぎのようなものである。

 「私たちは桜峠を越えた。そこから眺める景色は美しい。白子沢の村で馬を手に入れ、さらに多くの峠を越えて、数多くの石畳をのぼったり下ったりして高い宇津峠を越えて手の子という村に着いた。そこで一頭の馬を手に入るまで待った。日光を浴びている山頂から、米沢の気高い平野を見下ろすことが出来て嬉しかった。米沢平野(置賜盆地)は長さ約30マイル(48km)、10マイル(16km)ないし、18マイル(29km)の幅があり、日本の花園の一つである。木立も多く潅漑がよくなされ、豊かな町や村が多い。壮大な山々が取り囲んでいるが山々は森林地帯ばかりではない。南端には七月半ばにも白雪をいただく山脈が走っている。山から下りて米沢平野に出ると、いくつかの築いた土手がある。山腹から一歩足を出せば平らな地面となる。こんもりと茂った松林が現れてきた。

 家並を見ると清潔さが増し、安楽な生活を暗示しているようだ。手の子から小松まで歩いて6マイル(10km)であった。小松は美しい環境にある町で綿製品や絹、酒を手広く商売している。日光から小松まで例外なく牝馬が用いられてきたが、ここで初めて恐ろしい日本の駄馬に出合った。

 米沢平野は南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。鋤で耕したというより鉛筆で描いたように美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカディア(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃大地は、すべて、それを耕作している人々の所有するところのものである。彼らはぶどう、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮しをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。」(イザベラ・バード「日本奥地紀行」高梨健吉訳から)

○イザベラ・バードの旅は続く

 イザベラ・バードは、赤湯から北上して山形、新庄、横手、久保田(秋田)を経て青森に至った。さらに津軽海峡を渡ってエゾ(北海道)に行き、函館から室蘭を経て、白老や平取のアイヌ部落を訪れ、アイヌの民俗を調べた。噴火湾を南下して函館に帰り、ここから乗船し横浜に帰ったのは、九月十七日で、六月十日に東京を出てから三ケ月にわたる大旅行だった。

 十月には船で神戸に向い、京都や伊勢神宮を訪れ十二月に東京に帰着している。十二月十九日に横浜から船で日本を発ち、香港に向かい、明治十二年(1879)年一月には、マレー半島を旅行して二月にカイロ、五月に母国英国に帰るとある。

 イザベラ・バードは、その後、明治二十七年(1894年)から明治二十九年(1896)までに五回程、日本を訪れた。東京、京都、大坂、熊本、長崎などのほかに奥地の山村を旅行したが、それは日本奥地紀行の最初の旅行から二十年が経ていた。日清戦争を経て、西洋化していく日本の進歩をイザベラ・バードはどのように見たことだろうか。

尾崎世一

■略歴
おざき よいち
 昭和11年米沢市生まれ。米沢興譲館高校、宇都宮大学農学部卒。社団法人日本食肉格付協会を経て、平成8年、株式会社置賜畜産公社(現株式会社米沢食肉公社)入社。平成19年6月、同社代表取締役に就任。米沢牛銘柄推進協議会副会長。平成19年10月、米沢ダラス協会会長に就任。


米沢日報新聞記事 平成21年4月26日から

チャールズ・ヘンリー・ダラス(1842−1894)

尾崎世一氏提供

 

ダラスと牛(上杉まつり)

米沢牛の歴史ロマン

CHダラスはどこから牛を横浜に引いていったのか?

 明治4年10月、米沢の興譲館洋学舎に招かれた英国人教師チャールズ・ヘンリー・ダラス(1842ー1894)は、3年半の任期を終えて横浜に帰任するときにこの地から牛を引いていき、仲間たちに振舞った牛肉がすこぶる美味で評判となり米沢牛が全国的に名声を博していくきっかけになった。「ダラスはどこから牛を横浜に引いていったのか?」をテーマに、米沢牛の歴史ロマンを追う。

ダラスの写真発見

 平成18年11月30日、株式会社米沢食肉公社社長の尾崎世一氏のもとに、東京大学図書館より一通の封書が送られてきた。その中には明治43年5月15日に発行された「大學學生遡源」の本のコピーがあり、チャールズ・ヘンリー・ダラスの肖像写真が写されていた。ダラスの写真発見!の世紀の瞬間だった。それまでダラスの写真は見つかっていなかった。

ダラス顕彰碑を建立

 平成18年10月、尾崎氏は、岩手県奥州市にある「牛の博物館」を訪問、素晴らしい施設を見て感動した。「奥州市にはあのような立派な『牛の博物館』がある。日本の三大牛産地の米沢に、米沢牛の恩人ダラスを顕彰するものが無い。まずは米沢に銅像を作ったらいいのではないか」と友人らと話し合った。

 尾崎氏は「ダラス胸像建立実行委員会」を組織し、平成19年10月6日に米沢市松が岬公園内に「ダラス顕彰碑」が建立した。この実行委員会をベースに、米沢ダラス協会(尾崎世一会長)が発足、平成20年4月16日には、米沢市大町にある東光の酒蔵内に「米沢牛の系譜とダラス先生資料展示室」を開設した。

コックの萬吉が肉料理広める

 ダラスは英国ロンドンの出身で、家系は上流階級に属していた。そのため上品な人柄と豊富な教養の持ち主で、米沢の興譲館洋学舎では、学生たちに洋学教授のほか、クリケットなどの近代スポーツ等も教えた。

 中でも食については、アングロサクソン民族特有の肉食文化を米沢の人々に伝えることになる。横浜から連れてきたコックの萬吉に肉料理を作らせて、茶洗片町(現米沢市中央)の宿舎で、同僚教師や学生たちを時折招いて、欧米の食肉の薬学的効果から栄養学まで熱弁を振るい、「食肉のすすめ」の講義もおこなった。

 ダラスは横浜へ帰任する折り、萬吉に資金を提供、米沢で最初の牛肉店「牛萬」を開店させた。明治13年5月3日の米沢新聞には、「牛萬」など3軒の牛肉店の広告が掲載されている。「牛萬」は、大町横町(現在の米沢市門東2丁目1番16号付近)にあった。萬吉や「牛萬」がその後はどうなったのか、いつ廃業したのかなどは分かっていない。

元祖米沢牛はどこから行ったのか?

 ダラスは明治8年3月、滞在中に食べた米沢産の牛肉が非常に美味しかったことから、居留地の仲間たちに「米沢からの土産」として西置賜添川村産の生きた牛を連れて帰った。

 ダラスが横浜に引張っていった牛が飼われていた地域については、川西町玉庭、飯豊町添川、飯豊町高峰の3つの説がある。添川村は藩政時代から牛を使役に飼っていて歴史は古く、現在の飯豊町の中でも最も飼育頭数が多かった。

飯豊町添川(佐原善次郎氏宅前付近)

 飯豊町で代々伝えられている話では、ダラスが連れて行った牛を飼っていたのは、当時の添川村中洞の佐原善次郎、添川村上町 野口徳蔵、豊川村高峰 横山 勲の各氏である。
 尾崎氏は、この3月30日、飯豊町添川昭和に住む横山雅浩さんを訪ねた。横山さんによれば「記録は残っていないが、祖父はダラスが横浜に連れて行った牛を飼っていたのは佐原善次郎宅だとよく話していた。明治初期、善次郎氏は馬喰(家畜商)だったが、その後、佐原家が代替わりとなりダラスの話は継承されていないようだ」と話す。

 尾崎氏は、ダラスが土産として連れていったのは、添川産の赤牛(褐牛)3頭(内1頭は高峰産)ではないかと推定している。さらにダラスと一緒に牛の扱いに慣れた馬喰も横浜まで一緒に付いて行った可能性が高い。したがって馬喰である善次郎氏が牛が引いていったことは極めて信憑性が高いと思われる。

歴史ロマンが膨らむ米沢牛

 4月下旬に行われる上杉まつりの仮装行列に、牛を引くダラスが登場する。米沢牛の歴史ロマンを感じさせてくれる一コマだ。

 ダラスは、明治18年に上海に渡り、明治27年上海で亡くなった。ダラスが亡くなって今年で115年の歳月が流れた。銘柄牛として日々有名になってゆく「米沢牛」の歴史に、このような英国人の存在があったことを忘れてはならない。ダラスは米沢の牛を世に出してくれた「米沢牛の恩人」なのだ。

 米沢ダラス協会では、ダラスの功績を後世に伝えるために、今年度事業として「牛萬」と添川の佐原善次郎宅に案内看板を設置する予定である。(米沢日報 成澤礼夫記)