米沢牛の恩人 C・H・ダラスとその周辺
 〜新事実が発見、全体像が浮き彫りに〜

 「米沢牛の恩人」として知られる、英国人チャールズ・ヘンリー・ダラス(以下ダラス)。平成18年11月下旬、(株)米沢食肉公社代表取締役尾崎世一氏によりダラス自身の肖像写真が発見され、米沢市の松岬第二公園地内に『ダラス顕彰碑』が建立されるきっかけとなった。ダラスについては、東京の大学南校や米沢の旧藩校興譲館洋学舎時代の文献が少なからず残っているものの、ダラスの全体像を描き出すには至っていなかった。その理由はダラスの出生や家系についての情報がこれまでほとんどなかったからである。尾崎氏より依頼を受けた山形市在住のフリーライター・諏訪洋子氏が調査を行い、 平成19年11月〜12月にかけてダラスに関する新事実が発見されたので紹介したい。調査はなお諏訪氏により続行中であるが、近い将来、ダラスの血縁との接触の可能性も出てきた。

(成澤礼夫記)

旧藩校興譲館の洋楽舎教師として赴任、米沢牛を広める

 ダラスは、1841(天保12)年、英国ロンドンに生まれ、貿易商として中国に渡り、1863(文久3)年に来日した。明治維新後は1870(明治3)年、東京大学の前身である大学南校に語学教師として奉職。1871年(明治4)年10月からは旧米沢藩校興譲館の洋学舎に招かれた。1875(明治8)年3月、この任期が満了するまでの3年半、洋学教師として西洋の進んだ学問を米沢の学生に教授した。任期を終えて帰任するときに、添川村中洞(現在の飯豊町添川)の佐藤善次郎氏の生きた牛を一頭引いて横浜の外国人居留地に帰り、御馳走した所、その美味しさが評判となる。ダラスの伝手により、添川村(現在の飯豊町添川)の生産者が、横浜の牛肉問屋と契約を取付、米沢産の牛を販売することになる。したがって、ダラスは現在の米沢牛の生産や販売に関わる人たちにとって「米沢牛の恩人」と言える。ダラスの研究は米沢牛の歴史ロマンを深め、置賜管内の観光に大いに貢献するものである。

ダラス肖像写真発見、更なる新事実が発見

 尾崎氏は、東京大学図書館の蔵書「大学学生遡源」の本の中から、ダラスの肖像写真を発見した。この出来事は米沢牛の生産、流通、販売、また観光物産関係者に大きな反響を引き起こした。平成19年10月6日、米沢市松岬第二公園地内に尾崎氏を実行委員長とするダラス胸像建立実行委員会により、『ダラス顕彰碑』が建立されることになる。
 同建立実行委員会は、建立後、米沢ダラス協会(尾崎世一会長)へと衣替えを行い、(株)米沢食肉公社内に事務局を置き、ダラスの調査、研究を継続している。

 そんな中、平成19年11月19日、おいしい山形推進機構の米沢編の取材で、フリーライター・諏訪洋子氏(山形市在住)が同社を訪れた。取材の下調べの段階で、偶然、ダラスの功績と顔写真を見て、諏訪氏の御主人がダラスと同じ英国人ということもあり、とても親しみを覚え、ダラスについて聞いてみようと思いながら同社を訪ねたという。諏訪氏の御主人、リチャード・ウィリアム・ジョルダン(山形大学理学部地球環境学科・准教授、理学博士)は、趣味と郷里への懐かしさもあってか、ここ数年、空いた時間があればリラックスの目的もあり、自分の家系図を調べていた。それゆえに、同じく異国の地に来て同じ山形の地を踏んだダラスがとても気になったという。尾崎氏は、米沢ダラス協会の活動の一環として、ダラスの家系に関して諏訪氏に正式に調査を依頼し、以後、平成19年11月26日、12月12日に諏訪氏からダラスに関する新事実が寄せられた。調査はなお続行中であるが、従来のダラスのわくを打ち破る画期的内容である。

ダラスの全体像把握に繋がる出生・家系情報

 ダラスに関しては現状どこまで分かり、どこからが分からないのだろうか。その答えを一言で言えば、日本滞在中のことは文献である程度分かるが、日本以外の事は全くと言っていい程、分からない。したがって従来、ダラスの全体像を描き出せずにいた。その理由の一つは、ダラスの出生、家系についてこれまでほとんど情報がなかったからである。

 11月26日、諏訪氏から第1報として、ダラス自身と妻エミリーの家族の系図が尾崎氏に送られてきた。そこにはダラスの出生地、結婚年月日と場所、夫人の出生・没年月日と場所、さらに彼らの子供一人の履歴が記載されてあった。また、12月12日には、第2報としてダラスとダラス家の系図がかなり詳しく送られてきた。ダラスとエミリーの5人の子供も記載されてある。第1報と第2報から知り得る情報は、計り得ないほど大きい。これまで謎だった次の点の解答を得るヒントがあった。

(1)ダラスはどんなきっかけで中国や日本にやってきたのか

(2)ダラスはどうして、大学南校や米沢の洋学舎で教師になるほどの学力や知識を持っていたのか

(3)ダラスはどのように妻エミリーと知り合ったのか(4)ダラスの血縁は現在も英国または世界のどこかにいるのか

などである。

ダラスの出生地はロンドン市内のランベス

 諏訪氏から尾崎氏に送られてきたダラス家及び妻エミリー家の家系図を見てみる。
 これによれば、ダラスの父はウィリアム・ダラス(1793ー1859)、母はルイザ・バーンズ(1801?ー1861+)、彼らは1827年8月28日に結婚した。ウィリアム・ダラスは、東インド会社の海軍に勤務、1859年ハンマースミスで死去している。ルイザ・バーンズは、1841年にはロンドンのサーレイに住み、1861年、ミドルセックスで亡くなった。ウィリアムとルイザの夫婦には、5人の子供がいた。長男のウィリアム(1830ー1853)は(インドの?)マドラス王立馬砲兵隊、二男のバーンズ(1831ー1896)は、上海に住んだとある。長女のルイザ(1836ー1861+)は、サーレイの生まれ。医者であるヘンリー・グッド・ライトと結婚、ロンドンのハーレイ通りに住んだ。三男のレイシェルは生没年が不祥で若くして亡くなったとある。四男がチャールズ・ヘンリー・ダラスである。ダラスの生年は資料によって違いがある。諏訪氏による第1報では、生年月は1841年?、あるいは1842年1月〜3月、第2報の系図には、はっきりと1843年1月20日とある。どちらも生まれた場所は、サーレイのランベス、亡くなったのは1894年5月15日、上海である。生年月日の確定には、ダラスが洗礼を受けた教会での洗礼簿などの追加調査が必要である。ランベスは、大ロンドンの中心にある。

 ダラスの他の経歴は、1851年からはサーレイ、1860年中国・上海、1863年からは日本、1870年東京、1871年米沢、1875年横浜、1885年〜1894年上海とあり、1894年5月15日で上海で亡くなったと記載されている。1860年に中国に住み始めた年令はわずか19歳前後である。

妻エミリー・シャーロッテ・シーモアの家系

 ダラスの妻はエミリー・シャーロッテ・シーモア(1851ー1900)である。エミリーの父は、聖職者フランシス・ペイン・シーモア(1816?〜1870)で、サマーセットの生まれ、1870年1月〜9月の間にハバントで亡くなった。母ジェーン・マーガレット・ダラス(1828?ー1860)は、生まれは不祥、1860年ウィンチェスターで亡くなっている。

 ダラスの両親は1848年9月13日、ウォンストンで結婚、彼らには5人の子供が掲載されてある。長女レディー・ジュリア・マーガレット・シーモア(1850ー1928)、二女がダラスと結婚したエミリー・シャーロッテ・シーモア、三女がエブリン・ハミルトン・シーモア(1855ー1859)、四女がレディー・ビートリス・ジェーン・シーモア(1859?ー1944)、長男がエドワード・ハミルトン・シーモア(1860ー1931)で、1923年にはサマーセット16世侯爵の称号を与えられている。

 エミリーは、1851年3月23日生まれ、同年5月18日、ウォンストンで洗礼を受けた。洗礼場所が多分出生地だろう。ダラスと1873年10月14日、ギルフォードで結婚している。エミリーはダラスより10歳年下である。エミリーの母の名前にダラスの姓が含まれており、親戚関係(従兄弟同士?)の結婚のようである。日本側の文献では、ダラスは明治6年(1873)、結婚のため英国にちょっと帰国したとの記録があるがこれは一致する。エミリーは、1900年11月11日に亡くなった。

第一次世界大戦で戦死、ダラスの息子ウィリアム

 ダラスとエミリーの間には、5人の子供がいる。長女がグレンドリン・シーモア(1876ー1891)だが15歳で夭折している。二女はヒルダ・メアリー(1878ー18??)、三女がリリアン・マージョリー(1881ー1883)で海で亡くなったとある。四女はアイリーン・マーガレット(1883ー18??)、そして長男がウィリアム・ロレイン・シーモア・ダラス(1884ー1917)である。5人の子供の内、アイリーンはレセスター州のネザーブロングトンで生まれているが、他はのすべてダラスが上海に渡る1885年以前の誕生であるため、日本で生まれたと考えられる。

 ウィリアムは、1884年9月18日、横浜で生まれた。少年時代に彼の叔母であるグッド・ライト夫人とウエスト・サセックスにあるバージェスヒルに生活した。その理由は、父ダラスが1894年、母エミリーが1900年に、またウィリアムの姉妹が1900年以前に各々亡くなったからだ。グッド・ライト夫人とは、年代からしてダラスの姉、ルイザの息子の夫人であろう。その後、ウィリアムはオックスフォードに行った。その意味する所は、当時オックスフォード大学、ケンブリッジ大学は神学者の養成機関であったから、ウィリアムもオックスフォード大学を卒業したと推定される。1901年には、ミドルセックスに住み、ケンシントンで牧師に任命された。1911年、カナダのエドモントンに住み、1915年帰国、1917年9月20日か27日、第一次世界大戦のフランスで亡くなった。従軍牧師として戦場に赴き殉職したのだろう。享年34歳だった。

謎を解く鍵が次々に見つかる

 今回、諏訪氏によりもたらされたダラス及び家系の資料は、ダラスの生涯の謎を解き明かす極めて画期的なものである。家系図からダラス家の外郭がかなり見えてきた。ダラスの祖先は医者や聖職者の家系であり、一方、妻エミリーの家系は英国王室ファミリー系列のサマーセット一族につながり、やはり聖職者の家系。両家とも英国の上流階級の家柄である。ダラスの父は東インド会社の海軍に勤務、ダラスの長兄ウィリアムは、(インドの?)マドラス王立馬砲兵隊、二男のバーンズは上海に住んだことから、父、兄たちはアジアを舞台にすでに仕事をしていたのである。東インド会社は17〜19世紀に、東洋での貿易と植民地経営を独占的に行ったイギリス、オランダ、フランスなどのヨーロッパ諸国の会社で、イギリスでは1600年に設立し、インドをその拠点とした。1784年会社はイギリス議会に従属と決定。1813年貿易独占権が廃止、1858年解散している。(講談社・大事典による)

 ダラスが19歳前後で、上海に渡った理由、東京の大学南校や米沢の洋学舎で教える教養があった理由は、家族の職業や経歴から解きあかされたものと思われる。

 妻エミリーとの結婚はエミリーの母がダラスの家系の血を引いていて(ダラスの姓名を持っている)(従兄弟同士?)親戚関係にあるということも見えてきた。

 最後の謎、「ダラスの末裔は現在も英国または世界のどこかにいるか」については、ダラスの長男ウィリアム以外の4人の姉妹は、20歳前に若くして亡くなっているのでその可能性は少ないが、長男ウィリアムは享年34歳、また職業は牧師ということを考えると、系図への記載はないが結婚していた可能性はあるのではないか。子供もいる可能性も考えられるので今後の調査を待ちたい。ダラスの兄弟では、次兄のバーンズが上海に住み、65歳まで存命していたので、結婚していれば末裔がいる可能性は高いはずだ。又、ダラスの姉ルイザには子供がいて、その妻であるグッド・ライト夫人がダラスの子ウィリアムの面倒を見ているので、このルイザの家系も続いている可能性が高い。

 諏訪氏の資料には、ダラスに関する他の重要な項目も書かれてある。例えばダラス家のルーツはスコットランドのエディンバラである。これらについては紙面の関係で別の機会に譲ることにする。ダラスに関する事柄がさらにはっきりし、末裔がいるとなれば、是非英国ロンドンで現地調査を行ってみたいと尾崎氏と話し合っている。

 最後に、今回、ダラスの家系を調査頂いた諏訪洋子氏、御主人のリチャード・ウィリアム・ジョルダン博士に心から御礼を申し上げたい。

(米沢日報社長、米沢ダラス協会理事)