新聞記事その2

  米沢牛の恩人 C・H・ダラスとその周辺
    〜新事実が発見、全体像が浮き彫りに〜

                    寄稿 成澤礼夫

「米沢牛の恩人」として知られる、英国人チャールズ・ヘンリー・ダラス(以下ダラス)。平成18年11月下旬、(株)米沢食肉公社代表取締役尾﨑世一氏によりダラス自身の肖像写真が発見され、米沢市の松岬第二公園地内に『ダラス顕彰碑』が建立されるきっかけとなった。
 ダラスについては、東京の大学南校や米沢の旧藩校興譲館洋学舎時代の文献が少なからず残っているものの、ダラスの全体像を描き出すには至っていなかった。その理由はダラスの出生や家系についての情報がこれまでほとんどなかったからである。
 尾﨑氏より依頼を受けた山形市在住のフリーライター・諏訪洋子氏が調査を行い、 平成19年11月〜12月にかけてダラスに関する新事実が発見されたので紹介したい。調査はなお諏訪氏により続行中であるが、近い将来、ダラスの血縁との接触の可能性も出てきた。



旧藩校興譲館洋学舎教師として赴任、米沢牛を広める

 チャールズ・ヘンリー・ダラスは、1842(天保13)年、英国ロンドンに生まれ、貿易商として中国に渡り、1863(文久3)年に来日した。明治維新後は1870(明治3)年、東京大学の前身である大学南校に語学教師として奉職。1871年(明治4)年10月からは旧米沢藩校興譲館の洋学舎に招かれた。1875(明治8)年3月、この任期が満了するまでの3年半、洋学教師として西洋の進んだ学問を米沢の学生に教授した。
 任期を終えて帰任するときに、添川村中洞(現在の飯豊町添川)の佐藤善次郎氏の生きた牛を一頭引いて横浜の外国人居留地に帰り、御馳走した所、その美味しさが評判となる。ダラスの伝手により、添川村(現在の飯豊町添川)の生産者が、横浜の牛肉問屋と契約を取付、米沢産の牛を販売することになる。
 したがって、ダラスは現在の米沢牛の生産や販売に関わる人たちにとって「米沢牛の恩人」と言える。ダラスの研究は米沢牛の歴史ロマンを深め、置賜管内の観光に大いに貢献するものである。

ダラス肖像写真発見、更なる新事実が発見

 尾﨑氏は、東京大学図書館の蔵書「大学学生遡源」の本の中から、ダラスの肖像写真を発見した。この出来事は米沢牛の生産、流通、販売、また観光物産関係者に大きな反響を引き起こした。平成19年10月6日、米沢市松岬第二公園地内に尾﨑氏を実行委員長とするダラス胸像建立実行委員会により、『ダラス顕彰碑』が建立されることになる。
 同建立実行委員会は、建立後、米沢ダラス協会(尾﨑世一会長)へと衣替えを行い、(株)米沢食肉公社内に事務局を置き、ダラスの調査、研究を継続している。
 そんな中、平成19年11月19日、おいしい山形推進機構の米沢編の取材で、フリーライター・諏訪洋子氏(山形市在住)が同社を訪れた。取材の下調べの段階で、偶然、ダラスの功績と顔写真を見て、諏訪氏の御主人がダラスと同じ英国人ということもあり、とても親しみを覚え、ダラスについて聞いてみようと思いながら同社を訪ねたという。
 諏訪氏の御主人、リチャード・ウィリアム・ジョルダン(山形大学理学部地球環境学科・准教授、理学博士)は、趣味と郷里への懐かしさもあってか、ここ数年、空いた時間があればリラックスの目的もあり、自分の家系図を調べていた。それゆえに、同じく異国の地に来て同じ山形の地を踏んだダラスがとても気になったという。
 尾﨑氏は、米沢ダラス協会の活動の一環として、ダラスの家系に関して諏訪氏に正式に調査を依頼し、以後、平成19年11月26日、12月12日に諏訪氏からダラスに関する新事実が寄せられた。調査はなお続行中であるが、従来のダラスのわくを打ち破る画期的内容である。

ダラスの全体像把握に繋がる出生・家系情報

 ダラスに関しては現状どこまで分かり、どこからが分からないのだろうか。その答えを一言で言えば、日本滞在中のことは文献である程度分かるが、日本以外の事は全くと言っていい程、分からない。したがって従来、ダラスの全体像を描き出せずにいた。その理由の一つは、ダラスの出生、家系についてこれまでほとんど情報がなかったからである。

 11月26日、諏訪氏から第1報として、ダラス自身と妻エミリーの家族の系図が尾崎氏に送られてきた。そこにはダラスの出生地、結婚年月日と場所、夫人の出生・没年月日と場所、さらに彼らの子供一人の履歴が記載されてあった。また、12月12日には、第2報としてダラスとダラス家の系図がかなり詳しく送られてきた。ダラスとエミリーの5人の子供も記載されてある。第1報と第2報から知り得る情報は、計り得ないほど大きい。これまで謎だった次の点の解答を得るヒントがあった。

(1)ダラスはどんなきっかけで中国や日本にやってきたのか

(2)ダラスはどうして、大学南校や米沢の洋学舎で教師になるほどの学力や知識を持っていたのか

(3)ダラスはどのように妻エミリーと知り合ったのか

(4)ダラスの血縁は現在も英国または世界のどこかにいるのか

などである。

ダラスの出生地はロンドン市内のランベス

 諏訪氏から尾﨑氏に送られてきたダラス家及び妻エミリー家の家系図を見てみる。
 これによれば、ダラスの父はウィリアム・ダラス(1793ー1859)、母はルイザ・バーンズ(1801?ー1861+)で、彼らは1827年8月28日に結婚した。
 ウィリアム・ダラスは、東インド会社の海軍に勤務し、1859年ハンマースミスで死去している。ルイザ・バーンズは、1841年にはロンドンのサーレイに住み、1861年、ミドルセックスで亡くなった。ウィリアムとルイザの夫婦には、5人の子供がいた。
 長男のウィリアム(1830ー1853)は(インドの?)マドラス王立馬砲兵隊、二男のバーンズ(1831ー1896)は、上海に住んだとある。長女のルイザ(1836ー1861+)はサーレイの生まれ。医者であるヘンリー・グッド・ライトと結婚し、ロンドンのハーレイ通りに住んだ。三男のレイシェルは生没年が不祥で若くして亡くなったとある。四男がチャールズ・ヘンリー・ダラスである。

 ダラスの生年は資料によって違いがある。諏訪氏による第1報では、生年月は1841年?、あるいは1842年1月〜3月、第2報の系図には、はっきりと1843年1月20日とある。(※最終的に1842年1月20日が誕生日と確認)どちらも生まれた場所は、サーレイのランベス、亡くなったのは1894年5月15日、上海である。生年月日の確定には、ダラスが洗礼を受けた教会での洗礼簿などの追加調査が必要である。ランベスは、大ロンドンの中心にある。
 ダラスの他の経歴は、1851年からサーレイ、1860年中国・上海、1863年から日本、1870年東京、1871年10月〜1875年3月米沢、同年3月横浜に帰任、1885年〜1894年上海とあり、1894年5月15日で上海で亡くなったと記載されている。1860年に中国に住み始めた年令はわずか19歳前後である。

妻エミリー・シャーロット・シーモアの家系

 ダラスの妻はエミリー・シャーロット・シーモア(1851ー1900)である。エミリーの父は、聖職者フランシス・ペイン・シーモア(1816?〜1870)で、サマーセットの生まれで、1870年1月〜9月の間にハバントで亡くなった。母ジェーン・マーガレット・ダラス(1828?ー1860)は、生まれは不祥で、1860年ウィンチェスターで亡くなっている。 ダラスの妻、エミリー・シャーロット・シーモアの両親は1848年9月13日、ウォンストンで結婚し、彼らには5人の子供が掲載されてある。
 長女レディー・ジュリア・マーガレット・シーモア(1850ー1928)、二女がダラスと結婚したエミリー・シャーロット・シーモア、三女がエブリン・ハミルトン・シーモア(1855ー1859)、四女がレディー・ビートリス・ジェーン・シーモア(1859?ー1944)、長男がエドワード・ハミルトン・シーモア(1860ー1931)で、1923年にはサマーセット16世侯爵の称号を与えられている。
 エミリーは、1851年3月23日生まれ、同年5月18日、ウォンストンで洗礼を受けた。洗礼場所が多分出生地だろう。ダラスと1873年10月14日、ギルフォードで結婚している。 エミリーはダラスより10歳年下である。エミリーの母の名前にダラスの姓が含まれており、親戚関係(従兄弟同士?)の結婚のようである。日本側の文献では、ダラスは明治6年(1873)、結婚のため英国にちょっと帰国したとの記録があるがこれと一致する。エミリーは、1900年11月11日に亡くなった。

第一次世界大戦で戦死、ダラスの息子ウィリアム

 ダラスとエミリーの間には、5人の子供がいる。長女がグレンドリン・シーモア(1876ー1891)だが15歳で夭折している。二女はヒルダ・メアリー(1878ー18??)、三女がリリアン・マージョリー(1881ー1883)で海で亡くなったとある。四女はアイリーン・マーガレット(1883ー18??)、そして長男がウィリアム・ロレイン・シーモア・ダラス(1884ー1917)である。
 5人の子供の内、アイリーンはレセスター州のネザーブロングトンで生まれているが、他はすべてダラスが上海に渡る1885年以前の誕生であるため、日本で生まれたと考えられる。
 ウィリアムは、1884年9月18日、横浜で生まれた。少年時代に彼の叔母であるグッド・ライト夫人とウエスト・サセックスにあるバージェスヒルで生活した。その理由は、父ダラスが1894年、母エミリーが1900年、またウィリアムの姉妹が1900年以前に各々亡くなったからだ。グッド・ライト夫人とは、年代からしてダラスの姉、ルイザの息子の夫人であろう。
 その後、ウィリアムはオックスフォードに行った。その意味する所は、当時オックスフォード大学、ケンブリッジ大学は神学者の養成機関であったから、ウィリアムもオックスフォード大学を卒業したと推定される。
 1901年には、ミドルセックスに住み、ケンシントンで牧師に任命された。1911年、カナダのエドモントンに住み、1915年帰国、1917年9月20日か27日、第一次世界大戦のフランスで亡くなった。従軍牧師として戦場に赴き殉職したのだろう。享年34歳だった。

謎を解く鍵が次々に見つかる

 今回、諏訪氏によりもたらされたダラス及び家系の資料は、ダラスの生涯の謎を解き明かす極めて画期的なものである。家系図からダラス家の外郭がかなり見えてきた。ダラスの祖先は医者や聖職者の家系であり、一方、妻エミリーの家系は英国王室ファミリー系列のサマーセット一族につながり、やはり聖職者の家系。両家とも英国の上流階級の家柄である。
 ダラスの父は東インド会社の海軍に勤務、ダラスの長兄ウィリアムは、(インドの?)マドラス王立馬砲兵隊、二男のバーンズは上海に住んだことから、父、兄たちはアジアを舞台にすでに仕事をしていたのである。東インド会社は17〜19世紀に、東洋での貿易と植民地経営を独占的に行ったイギリス、オランダ、フランスなどのヨーロッパ諸国の会社で、イギリスでは1600年に設立し、インドをその拠点とした。1784年、会社はイギリス議会に従属と決定。1813年貿易独占権が廃止され、1858年解散している。(講談社・大事典による)

 ダラスが19歳前後で、上海に渡った理由、東京の大学南校や米沢の洋学舎で教える教養があった理由は、家族の職業や経歴から解きあかされたものと思われる。
 妻エミリーとの結婚はエミリーの母がダラスの家系の血を引いていて(ダラスの姓名を持っている)(従兄弟同士?)親戚関係にあるということも見えてきた。
 最後の謎、「ダラスの末裔は現在も英国または世界のどこかにいるか」については、ダラスの長男ウィリアム以外の4人の姉妹は、20歳前に若くして亡くなっているのでその可能性は少ないが、長男ウィリアムは享年34歳、また職業は牧師ということを考えると、系図への記載はないが結婚していた可能性はあるのではないか。子供もいる可能性も考えられるので今後の調査を待ちたい。ダラスの兄弟では、次兄のバーンズが上海に住み、65歳まで存命していたので、結婚していれば末裔がいる可能性は高いはずだ。又、ダラスの姉ルイザには子供がいて、その妻であるグッド・ライト夫人がダラスの子ウィリアムの面倒を見ているので、このルイザの家系も続いている可能性が高い。

 諏訪氏の資料には、ダラスに関する他の重要な項目も書かれてある。例えばダラス家のルーツはスコットランドのエディンバラである。これらについては紙面の関係で別の機会に譲ることにする。ダラスに関する事柄がさらにはっきりし、末裔がいるとなれば、是非英国ロンドンで現地調査を行ってみたいと尾崎氏と話し合っている。
 最後に、今回、ダラスの家系を調査頂いた諏訪洋子氏、御主人のリチャード・ウィリアム・ジョルダン博士に心から御礼を申し上げたい。




米沢日報新聞記事 平成30年1月1日から

 

米沢牛の恩人、チャールズ・ヘンリー・ダラスとその周辺
〜今後の焦点は、世界に散らばるダラスの縁者、末裔探し〜

                     寄稿 成澤礼夫

■はじめに

305-9 英国人チャールズ・ヘンリー・ダラス(以下ダラス、1842〜1894)は、明治4年(1871)10月から明治8年(1875)3月まで、米沢にあった興譲館洋学舎の教師を務め、米沢牛が世に広まるきっかけを作った「米沢牛の恩人」と呼ばれる。平成19年10月、米沢市松が岬公園内に建立した「ダラス顕彰碑」の建立実行委員会を母体に設立された米沢ダラス協会(尾﨑世一会長)は、ダラスの顕彰、ダラスや米沢牛に関連する調査・研究、国内の牛肉の食べ比べなどの活動を行い、平成29年で満10年を迎えた。次の活動の焦点は、米沢牛の恩人C・H・ダラスの縁者や末裔を探し出すことである。ダラスについてこれまでの調査結果などについて整理したい。
 (写真上=チャールズ・ヘンリー・ダラス肖像
                (写真提供 尾﨑世一氏))

■設立10周年を迎えた米沢ダラス協会

305-15 平成29年11月22日に行われた米沢ダラス協会総会では、尾﨑世一会長(前株式会社米沢食肉公社社長)が、設立10周年を迎えた米沢ダラス協会の活動を今後もさらに継続し、置賜地域の産業や観光の発展に資するものとしていきたいと抱負を述べた。
 現在、会員は28企業・個人で、事務局は株式会社米沢食肉公社内に置いている。(写真上=米沢ダラス協会総会の様子)
 
■米沢ダラス協会の設立

 平成18年11月、(株)米沢食肉公社社長尾﨑世一氏(当時)が長年探し求めてきた米沢牛の恩人、チャールズ・ヘンリー・ダラス(Charles・Henry・Dallas)の肖像写真を発見した。
 これがきっかけとなり、ダラス胸像建立実行委員会(尾﨑世一実行委員長)が立ち上がり、同19年10月6日、米沢市松が岬第二公園地内に「ダラス顕彰碑」が建立された。
 同実行委員会は、その後、米沢ダラス協会(尾﨑世一会長)へと衣替えし、以降、ダラスの顕彰、史料の収集、調査研究などの活動に取り組んでいる。
 同協会では設立と同時に、ダラスと同じ英国出身で、現在、山形大学理学部教授のリチャード・ジョルダン氏・諏訪洋子夫妻に、ダラスに関する種々の調査を依頼した。英国の戸籍やその調査方法に詳しい同夫妻の協力が不可欠だからである。
 その結果、同夫妻から同19年11月にダラスの出生や、妻の家系などに関する新事実の情報が寄せられ、ダラスの全体像が初めて明らかになった。

■100年経過後は他人の戸籍も入手可能な英国

 英国では、国勢調査(Census)が初めて行われたのは7世紀と言われ、11世紀には戸主の名前を纏めたものがあった。同国で一般的に国勢調査と言われるものは、1801年に始まり、以降は10年毎に実施されている。1801年〜1831年までの4回は、主に人口数と僅かな個人情報のみだったが、1841年6月6日のものから、総合登録事務所(GENERAL REGISTER OFFICE)が実施して、すべての人を対象に「名前」、「年齢」、「職業」、「生まれが国内か外国か」、「今滞在している場所」などが記録されるようになった。1851年には、加えて戸主との関係、結婚の有無、誕生地、盲目か、聴力または言語にしょう害があるか、話す言語の種類が加わり、それ以降項目は徐々に増えていった。
 同国には「100年ルール」があり、100年経過すれば他人の戸籍でも入手できる。一方、家族や縁者であれば、誕生、結婚、死去に関する最新の情報をGROから取得できる。100年過ぎれば、個人の情報も社会の共有財産とみなして、一般開放した方が公共の利益になるという考え方に基づくものだ。リチャード・ジョルダン教授によれば、この国勢調査のおかげで英国人は自分のルーツ探しに熱心な人が多いのだという。
 最近では、1911年分までのものが、2011年3月27日に公開された。
 実はダラスの生誕年は、1841年、1842年、1843年の諸説があって明確ではなかったが、ダラスの戸籍登記書(GRO発行)によって、1842年1月20日生まれと初めて判明した。

■ダラスにまつわる謎?

 ダラスに関しては、幾つかの謎があった。それは、

(1)ダラスが日本を離れた明治18年(1885)から上海で亡くなった明治27年(1994)5月まで何をしていたのか。

(2)ダラスの死の様子はどのようなものだったのか。

(3)ダラスが1877年に、またダラスの子ウィリアムが1917年に遺言状で認めたエフィー・ダラスとは、ダラスと日本人女性との間に生まれた子(松子と言われる)なのか。

(4)ダラスの兄弟姉妹で、現在に続く子孫はいるのか。
という点である。

 この中で、もしダラスの兄弟姉妹の子孫はいれば、大きな話題となる。

■北中国ヘラルド紙でのダラス葬儀の模様

 リチャード・ジョルダン・諏訪洋子ご夫妻からもたらされた情報は、北中国ヘラルド紙(North China Herald)にダラスや家族の死亡記事を見つけたことだ。
 同紙は1850年頃から1940代まで上海をベースに発行された英字新聞紙で、中国各地に通信員を置き、記事の中には誕生、結婚、そして死亡の告知も含まれていた。

305-13 北中国ヘラルド紙はダラスの死亡記事を1894年5月18日付で掲載していた。住所の通り名が「Bubbling Well」とある。1940年に作成された「最新大上海市街地図」によれば、「Bubbling Well Road」の漢字名は「静安寺路」とあり、その道路の西端にある大きな寺院の静安寺に由来する道路である。その通り名は競馬場の場所から始まり、西に向かってかつての租界地の端ぎりぎりまで伸びている。ダラスはこの付近に住んでいたことが初めて判明した。現在は南京西路と呼んでいる。
 同紙は、ダラスのことを「極東のフリーメーソンの中で非常に卓越した会員だった」と述べ、横浜でその支部長をしていたダラスは、上海でも積極的だったことがわかった。同紙は葬儀は水曜日に行われたと伝えており、死去翌日の5月16日に行われたことがわかる。
 ソーン教会での葬儀には多くの友人が参列し、荘厳な中で行われた。その葬儀後は、今度はフリーメーソンの地区グランドマスターが司式して、フリーメーソン式の葬儀が墓地で執り行われた事も書かれてある。棺への覆い(布)を運んだのは、ジョン・ドラモンド・パーシー・マ、そしてミニー・ホーク夫人だった。ダラスの棺を担いだのは、8人のフリーメーソンたちだ。ただ墓地の場所についてはここでは触れていない。
 ほかには、ダラスがロンドンから上海に来たのが1860年で、上海で兄バーンズの仕事に加わり、それから日本に渡り家を構えたことや背後から刀で深く切られて、死にそうになったことを記している。
 これは大学南校(現在の東京大学)で教師をしていた明治3年(1870)11月23日、神田鍋町で日本人女性を真ん中に、ダラスら外人二人が道を歩いていた時に、日本人に切り付けられたもので、もう一人は、以降、身体障がい者になるほどのひん死の重傷を負った「ダラス・リング事件」のことを指す。ただ新聞には米沢の興譲館洋学舎で教えたことは触れていない。

■ダラスや妻は、八仙橋墓地(現「淮海公園」)に埋葬か

305-12 1900年11月14日の北中国ヘラルド紙は、11月11日、ダラスの妻エミリーの死去を報じている。(写真右=ダラスが住んだ静安寺路(Bubbling Well Road、現南京西路)の現風景)

 住所は「No.51,Bubbling Well Road,Shanghai」。ダラスが住んでいた住所がはっきりした。ダラスが住んでいた当時の「No.51,Bubbling Well Road,Shanghai」と、現在の南京西路No.51が同じ場所かどうかは不明である。南京西路No.51の場所は現在、地下鉄の駅になっている。
 当時の上海には、英国政府が登録したものだけで11もの外国人墓地があった。ダラスが住んだ静安寺路(Bubbling Well Road)近辺には、二つの大きな外国人専用墓地がある。一つは八仙橋墓地(Pahsienjao cemetery)、もう一つは静安寺墓地(Bubbling Well cemetery)である。静安寺墓地は静安寺路「Bubbling Well Road」の最西端に位置している。ダラスの甥、フランク・ダラス(次兄バーンズ・ダラスの子)は八仙橋墓地に葬られたとあるので、ダラスやエミリーも同様の場所の可能性は高い。
 八仙橋墓地は、現在、「淮海公園」に、静安寺墓地は「静安公園」にそれぞれ再開発されて当時の面影はない。知り合いに現地を訪ねてもらい写真を送ってもらったが、「淮海公園」は「静安公園」の三分の一程度でとても小さい公園のようだ。
 英国のブリストル大学史学部が出すウエブサイトによれば、八仙橋墓地は1869年に開園され、一般的には「新墓地」として知られていたようだ。1946年まで使用されていたが、物理的に満杯になったとある。(写真下=ダラスの甥、フランク・ダラスが葬られた八仙橋墓地。現「淮海公園」)

305-11 一方、静安寺墓地は1898年に開園され、1951年に閉園した。約5,500人がそこに埋葬されたが、1953〜1954年に墓地は再開発のために掘り起こされた。改葬が可能だった家族は、Baoshanにある「Dazang(Dachang) cemetery」墓地を移動したが、共産党政権の当局はこの移動について墓地埋葬の家族へ十分な情報を提供しなかったようで、多くがそれ以外の墓地へと移動させられた。Baoshanの墓地に改葬したものも、文化大革命の間に破壊され、その地はいま工場が建設されている。

■ダラスが遺言書で認めたエフィー・ダラスとは?

 ダラスが養女としたエフィー・ダラスについては、1877年にダラス、1917年にダラスの息子ウィリアムがその遺言状に名前を認めている。エフィーの生年は、1872年、あるいは1874年とされ、この時期のダラスは、米沢の興譲館洋学舎に赴任中で(明治4年(1871)10月〜明治8年(1875)3月)、明治6年(1873)に興譲館に休暇を申し出て、英国に一時帰国し、10月14日サリー州ギルフォードで、エミリー・シャーロット・シーモアと結婚する。そして妻を連れて再び米沢に帰っている。
 ダラスはエミリーと結婚する前に、「ゆき」(一説には「さだ」)と言われる日本人女性と生活していたようで、その女性は素性がはっきりしない。ダラスと「ゆき」の間に、エフィーが生まれたのかも知れない。
 ダラスは料理人として横浜から万吉を伴ってきたが、3年半の任期を終えてダラスが横浜に帰任するときに、万吉と「ゆき」と娶せめ、資金を出して米沢大町横丁に牛鍋の店「牛萬」を開かせた。明治13年(1880)5月3日の米沢新聞にその広告が掲載されている。米沢で初の牛鍋店である。

■エフィーのその後

 エフィーは、昭和14年(1939)11月20日、英国ギルフォードにあるロイヤルサリー郡病院(現ファーンハムロード病院)で没した。死因は腹膜炎、或いは結腸癌。エフィーは1939年12月27日付で遺書を残した。
 彼女の生涯を見ると、1891〜1911年の間で、3回の履歴が確認され、住み込みで幼児教育を行う家庭教師の仕事を行った。1907年6月25日、パパロア号に乗船してニュージーランドのウエリントンから英国に帰国していることも乗船名簿からわかった。
 1911年には、英国ダービーシャー州バムフォードに住み、1939年にウエストチョブハムのニューブリッジコテージ、終焉の地はギルフォード近くだった。エフィーは生涯結婚しなかったようだ。
 米沢の興譲館洋学舎で教えていたダラスが英国に一時戻り、エミリーと結婚したのは1874年(明治6年)10月だから、エフィーがダラスとエミリーの子供である可能性は低いのではないかと私は考える。
 ダラスとエミリーの女の子、ヒルダ・メアリー(1878ー1958)、及びアイリーン・マーガレット(1883ー1971)の両名は、後に英国に戻り一緒に暮らした。
 ヒルダはロンドンで、アイリーンはハンプシャーで没した。両名とも結婚せず独身を貫いた。アイリーンは遺言で、財産を母方の実家のシーモア家に贈ったとしている。

■バーンズの英国帰国と符号するダラスの来日

 北中国ヘラルド紙には、ダラスの次兄バーンズ・ダラス、バーンズの子、フランク・ダラスについて触れている。
 記事は1897年8月27日付のもので、バーンズは下痢のために上海で逝去した。その記事の中に、バーンズの父、つまりダラスの父、ウィリアムはスタンダード生命保険取締役であったことも記されていた。
 バーンズは1853年春、お茶の検査官として上海に赴いた。1853年9月に上海県城内で小刀会の蜂起(the battle of Muddy Flat)が起ったが、この戦いは満州族の清国政府に対して漢民族が立ち上がったもので、1850年に始まった太平天国の乱の一連の出来事である。
 それに対して、英米仏三国の租界を管理する工部局の万国商業団体は義勇軍を組織し、バーンズもこの戦いに志願兵として参戦した。激戦で多くの戦死者を出したが、幸運にもバーンズは生き残り、1857年から1863年まで、商工会議所事務局長(Secretary)を務め、1863年に一時英国に戻った。その時は、上海で成功して蓄えた大きな富を手にしていたという。
 実はこの1863年にダラスは来日している。バーンズの英国一時帰国と何らかの関係があるのではないかと考えられる。1894年7月28日に作成したバーンズの遺言書には、少なくても9人の子供の名前が記されている。
 バーンズの子、フランクは北中国ヘラルド紙の1905年2月17日号に死亡記事が掲載されている。フランクは水曜日(2月15日)午後、総合病院で肝臓病によって死去したとある。
 上海の静安寺路(現在の南京西路)沿いにはかつて競馬場があった。現在は上海博物館、上海人民政府が建っている。英国人が余興にと作った競馬場で、フランクは上海で有名な騎手だったと書かれてあった。
 フランクの葬儀は2月16日午後5時、八仙橋墓地で行われた。フランクが葬られた八仙橋墓地は競馬場のあった場所の南東、八仙橋という場所にあって、そこは上海に租界地が開かれた頃は、上海県城の西側にあって橋がかかっていた。

■世界各地に広がるバーンズの末裔

 ダラスの一人息子、ウィリアムは第一次世界大戦に従軍牧師として戦線に赴き、1917年9月27日、フランス又はベルギーで命を落とした。またダラスの娘は誰も結婚しておらず、ダラスの直系は絶えてしまった。
 ただし、バーンズの9人の子供、孫は世界各地にかなり多くいるようだ。直近では1995年に香港で亡くなった人もいて、その末裔は現在までも続いているらしい。
 特にバーンズの子アーサー・ダラスは1924年にロンドンで亡くなり、住所が「35,Circus Rd.,St.Johns wood,London」とあり、上海以外でダラスの縁者の住所が初めて分かった。
 この住所をグーグルのストリートビューでみてみると、この地番に住宅が建っているのがわかる。同所にアーサー・ダラスの末裔が住んでいるのか、是非とも確認したい。
 リチャード・ジョルダン、諏訪洋子夫妻は、2009年、ダラスを調査中にたまたま、バーンスの曽孫のハンナ・ダラスさんからメールを受け取り、一度、返事を差し上げたそうだが、その後、向こうから連絡が来なくなったそうだ。リチャード・ジョルダン氏は、メールアドレスを消してしまい、残念ながら今は連絡の取りようがない。いま健在であれば90歳前後のはずである。
 以上、ここまでダラスとその周辺をまとめてみた。今後、ダラスの血縁、末裔探しを進めて行きたい。