ーダラス肖像写真の発見がきっかけで一気に建立へ進むー

ついにダラスの写真発見

 平成18年11月30日、東京大学図書館より株式会社米沢食肉公社社長の尾崎世一氏のもとに、一通の封書が送られてきた。開けてみると、中には「大學學生遡源」という本の一部分がコピーされており、中にチャールズ・ヘンリー・ダラスの肖像写真が掲載されていた。大学南校時代のエピソードとともにダラスの写真発見の世紀の瞬間だった。早速、12月3日、米沢日報では特ダネとしてダラス肖像写真発見のニュースを報道、また同紙元旦号では、ダラスの写真発見を中心として安部三十郎市長と尾崎氏の対談を掲載した。
 ダラス写真発見の衝撃は、すぐにテレビをはじめとするマスコミで取り上げられた。米沢市芸術文化協会の機関誌に尾崎氏が寄稿するなど、米沢のABC(りんご、牛肉、鯉)の一角を占めるだけに大きな広がりになっていく。

牛の博物館訪問転機に

 尾崎世一氏は昭和11年、米沢市に生まれた。家は明治27年創業の登起波牛肉店で、米沢ではもっとも古い牛肉店である。米沢興譲館高校より、宇都宮大学畜産学科を卒業、10年間家業に従事した後、昭和44年(社)日本食肉格付協会に食肉格付員として勤務した。定年を機に、かねて声掛けされていた株式会社置賜畜産公社(現株式会社米沢食肉公社)の食肉格付員として勤務する為、平成8年に米沢へ帰郷、また平成17年5月、同社代表取締役に就任した。

 尾崎氏はこれまで米沢牛の歴史について調査、研究を行ってきたが、平成16年5月、「文献及び資料に基づく 米沢牛の系譜」として出版した。その中の第8章では14頁にわたり、「チャールズ・ヘンリー・ダラスと米沢」という項目を割き、ダラスの経歴や人となり、また米沢牛を広めた恩人としての功績を述べている。しかしその時点でダラスの写真は見つかっていなかった。

 ダラス研究では、松野良寅氏が「チャールズ・H・ダラス—米沢英学事始—」という本、また興譲館人國記などで触れているが写真は掲載していない。これまで米沢でダラスの写真が見つからなかったのは、大正期の2度にわたる米沢大火で興譲館が焼けてしまったからかも知れない。

 尾崎氏は、その後も方々に手を尽くして写真の発見に努めたが、そんな中、平成18年10月18日、奥州市前沢区にある牛の博物館を、米沢日報の成澤礼夫社長と訪問した。

 山岸敏宏館長、学芸員の黒澤弥悦さんらと懇談、ダラスの話に及び、幕末にイギリス居留地があった横浜の開港記念館にあるのではないかとアドバイスを受けた。尾崎氏は早速同念館を訪問、そこには写真は無かったが、そこでダラスが勤務していた大学南校(現東京大学)関連を調べてみることを勧められ、東京大学図書館に照会、図書館から前述の資料が送られてきた。

ダラス顕彰碑建立を決意

 平成19年1月、尾崎氏と成澤社長との話の中から「奥州市にはあのような立派な『牛の博物館』がある。日本の四大牛の産地である米沢にダラスを顕彰するものが何も無い現状は寂しい。米沢で牛の博物館や資料館の建設をすることは、すぐには難しい。まずは銅像を作ったらいいのではないか」という結論になった。そして実行委員会を組織して年内に建立することを二人で誓い合った。

 早速、平成19年2〜3月にかけて、米沢牛の生産、加工、販売、商工、観光に関連する団体のトップに呼びかけを行い、4月20日に第1回実行委員会を開催。ここで「ダラス胸像建立実行委員会」を正式に組織した。建立するものは銅像ではなく石碑とすることにして、美術、芸術全般に詳しい米沢芸術文化協会の亀岡博氏に芸術監督になって頂いた。

 5月25日の2回実行委員会では、顕彰碑施工業者を決定、募金方法を決めた。それの結論の基づき、尾崎、成澤の両名が各企業、個人を訪問して募金を開始した。7月6日の第3回実行委員会では、顕彰碑の最終デザインを決定、併せて、除幕式、祝賀会の内容に関して打合せを行った。第4回目は9月7日に開催、除幕式、祝賀会に関して内容に関して正式に決定した。

観光に役立つ視点で建立場所を決定

 平成19年7月、ダラス顕彰碑を建立する場所の管理者である米沢市役所都市計画課に、建立にあたっての申請を行い裁可を得た。実行委員会での議論の一つに、顕彰碑をどこに建立するかという点があった。そこで、①観光客が目に触れる機会はどうか②歴史性はあるか③ガイドの案内を受けやすいか④将来性があるか、の4項目を点数化、松岬神社隣接地の松が岬公園第二公園地内がベストという結論になった。その大きな理由は、上杉神社周辺は年間の観光客の入り込み数がおよそ143万人(平成17年度)、また同所は山形県の観光の入り口になっている。

 さらに平成21年に放映されるNHKの大河ドラマ効果で多くの観光客が訪問するだろうこともこの場所の選定に大きな要因となった。この顕彰碑は、ダラスと米沢牛の歴史ロマンへの関心を高め、観光客が帰りにレストランで米沢牛を食する機会を増やし、お土産に米沢牛を買うなど、観光PRにつながることが期待される。また上杉城史苑内には、おしょうしなガイドのボランティアの方々が常駐しており、上杉神社に行く前に、ダラス顕彰碑が案内ポイントに加わることになるだろう。
 
ダラスの功績を後世に

 ダラス顕彰碑は、実行委員会より米沢市へ寄贈された。ダラス建立実行委員会は、平成19年10月6日の除幕式、祝賀会を機にその役割を終えて、「米沢ダラス協会(株式会社米沢食肉公社内 会長尾崎世一氏)」に衣替えした。今後もダラスの功績を顕彰しながら、命日の5月15日には、顕彰碑の前で慰霊祭を行うことにしている。

 除幕式ではダラスの生まれた国、イギリス国教会にならった形式で除幕の祝祷を行い、銘菓の錦屋(川西町、片倉敬輔社長)新製品の「ダラス先生の米沢牛パイ」が2名の上杉小町によって配られた。

 ダラス顕彰碑完成祝賀会では、世界初演となる『ダラス讃歌』(成澤礼夫作詩・本多和彦校訂・高橋李佳作曲)が地元米沢の金子惠子さんのソプラノ、作曲者高橋さんのピアノで披露されることになった。

 ダラス胸像建立実行委員会の委員や協賛を頂戴した企業・個人の皆様の篤い思いは、これからも永遠にダラスの歴史ロマンと重なって、顕彰碑を見る人達の心を打つに違い無い。


ダラス・レリーフ製作者に聞く
   ーー米沢市芸術文化協会 会長 亀岡博氏

 顕彰碑の目玉は、なんといってもレリーフ。実行委員の一人で、顕彰碑の基本デザインとレリーフ塑像の製作にあたった米沢市芸術文化協会会長の亀岡博氏に、製作過程や苦労話をお聞きした

一世一代の挑戦でレリーフの製作を行った

ーー鮮明でないダラスの顔写真からレリーフを製作頂きましたね。

亀岡氏 当初は、ダラスの胸像を建立する予定でしたが、胸像だと立体的になり、背面も含めたデッサンが必要です。発見された写真一枚から胸像を製作するのは、ちょっと難しいと感じました。そこで私はレリーフを提案させて頂きました。

ーーレリーフ製作にあたって苦労されたことは。

亀岡氏 写真を見て不思議な点がありました。それは左右のヒゲの大きさが対称的でないのです。ひげの影なのか、あるいは別のものなのか、詳細がどうなっているか分かりませんでした。同様に目の部分も黒い影になっていて、黒目の様子がよくわかりませんでした。

 鼻については、絵に描く場合は比較的に容易なのですが、それを粘土で作る場合は非常に難しいということも経験しました。それから、額の高さと頬の高さをどうするかでした。頬の高さで表情が相当に違ってきます。

 目の部分は、最初くりぬいて穏やかな表情を出して試作してみましたが、レリーフという性質上、後々のことまで考えてみて、くり抜かない方法に落ち着きました。目の部分では、最終的に額の骨格を調整することで、外国人らしさを表現できたのではないかと思います。

ーー顕彰碑全体のデザインもして頂きました。

亀岡氏 レリーフの大きさは、顕彰碑の全体の大きさから決定しました。段ボールで実際の顕彰碑のサイズに作ってみましたが、室内で見るとかなり大きく感じます。しかし、実際の現場に建立すると、それほど大きくは感じないはずです。

 顕彰碑の正面は、レリーフ、碑文、牛のデッサンの3つの部分から成り立ちますが、レリーフと牛のデッサンが碑文を挟んで対称的に配置されています。

 レリーフの塑像は粘土で作るのですが、ダラスの写真を拡大してデッサンを行い、最終的に粘土の原形は3つ目製作しましたが、最後のものを鋳造用として山形市の横倉友次郎さんに提出しました。

ーーどんな思いを込めてレリーフを作られましたか。

亀岡氏 やはり、これから50年、100年残る作品に仕上げたいという気持ちでした。

 米沢牛のブランドはこれからも永久に続いていくと思います。ダラスの功績も年々高まっていくことでしょう。私の知る限り、このダラス顕彰碑は米沢のみならず、国内、あるいは世界でも初めてのものです。その最初のものに私が関わらさせて頂いたということは、言うなれば、私の一生一代の挑戦でありました。できるかなという不安もありましたが、まずは、やってみようという気持ちが沸き上がりました。

 彫刻には、その作者の人格が隠れています。改めて、桜井祐一先生や鈴木実先生の偉大さに気づいた次第です。この半年間、現場を見たり、勉強を積み重ねながらのの長丁場でしたが、とても楽しく充実して過ごすことができました。チャンスを与えて頂き、感謝しています。

ーー他にはどんな点に注意を払われましたか。

亀岡氏 石の材質です。長年の風雪による風化に強い材質として、御影石を碑文の面と土台に使いました。御影石は表面がとても光沢があり、高級感があります。碑文面は黒、土台は赤の御影石を使っています。碑文の文字の大きさはあまり小さいと読めませんから、3・5センチ四方の大きさで彫ることにし、文字は白色で埋めました。そのため文字も深めにしてあります。