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スカイバレーより望む綱木宿
旧会津街道の綱木宿
綱木峠の旧会津街道跡
関で頼三樹三郎が寺子屋を開いた旧家跡
関地区杉の下の旧会津街道跡

歴史探訪【会津街道編】寄稿 竹田昭弘氏

会津街道に幕末の残影を追う(1/3)


takeda 寄稿者略歴
 竹田昭弘(たけだあきひろ)
 昭和20年米沢市生まれ。明治大学政経学部卒業。NEC山形を経てミユ
 キ精機(株)入社。経営企画室長を歴任。平成19年退社。米沢市在住。

1.はじめに
 会津街道を通り抜けた英傑の軌跡は他に例を見ない。特に幕末の動乱期に於いては顕著であり、この街道を行き来した偉人達が多くいた。勤皇、佐幕を問わずこの同じ道を行ったと言うことが特徴的なのである。因みに高野長英、頼三樹三郎、吉田松陰、松本良順、輪王寺宮能久親王、土方歳三、松平定敬堀粂之助、等と枚挙にいとまがない。彼等は峻嶮な山道を峠越えをして会津へ向かい、一方は米沢へと向かった。夫々がその呵責な運命を背負い、後に戻れぬ人生を抱えながら何を考えて歩いたのであろうか。会津街道綱木宿、関宿は彼等の残影が今でも脳裡に映る歴史の現場である。その意味で会津街道は真に残したい米沢の価値ある古の街道なのである。夫々に焦点を当てて人となりを探ってみたい。

2.高野長英
 "奥州は水沢の人なり" 若い頃より俊秀で学究止み難く、長崎に留学するとシーボルトの鳴滝塾に入塾し、蘭学・蘭方医学を学んだ。天保10年(1839)、蘭学医の長英は渡辺崋山と共に「蛮社の獄」事件で罪に問われ、伝馬町に幽囚された。だが弘化2年(1845)、獄舎の火事のどさくさに紛れて牢獄を破り逃亡した。足は故郷奥州に向かった。水沢の母に会う為である。
 aidukaidou1再び江戸に戻る際、米沢に潜行し旧友の堀内素堂・伊東昇迪を頼り厚遇を受けた。だが長英に便宜をはかったことで素堂も昇迪もやがて藩府の嫌疑を受け、藩より謹慎を命じられている。長英は幕府にとっては"天下の大罪人"であり、その捕縛の為に全国の諸藩に指名手配されていた。その罪人を匿ったことに米沢藩が関与していたと言うことが露見すれば、幕府よりどのようなお咎めがあるか分からないお家の事情を抱えていた。
 長英は米沢を離れると会津に至り、会津下野街道を抜けて江戸に戻っている。それは弘化3年(1846)3月のことだった。長英は米沢からこの綱木峠・桧原峠を越えて桧原に抜けていた。この時、「関」の風景は長英の目にはどのように映っただろうか。国境の関を桧原に抜ければ関東が近くなり、江戸に行けば何とかなると思っていたのかもしれない。
 事実、江戸に戻った長英は人目を忍んで開業医をしている。だが、幕府の捕手の知れるところとなり、敢え無く捕縛されるのである。この時、会津では幕末から維新にいたる大混乱はまだ起きてはいなかった。だがその足音は山間の里、関にも確実に近づいていたである。  
 蘭学者の集まりを「蛮学社中」と言う。幕府は儒学・朱子学を国学としていた。蘭学は外来学問であり"蛮学"と呼んで危険視していた。高野長英は蘭医ながら、田原藩の渡辺崋山と幕府の外国への対応(モリソン号の処置等)に異議を唱え、「戊戌夢物語」を執筆して幕政を批判した。ここに幕府の目が注がれ要注意人物となるや、その一派に迫害を加える"蛮社の獄事件"が起きた。渡辺崋山は田原藩の重役だが学者でもあった。その身は拘束されるが田原藩で身分の高い地位にあり命は保証されていた。だがこの事件の後、これを苦慮して自害した。
 一方高野長英は低い身分が災いして永牢囚われの身となった。長英は入牢するも突然の火災に乗じて脱獄し逃亡生活に入る。牢の中で罪人仲間を唆し獄舎に放火させたとも言われている。兎にも角にも全国を捕吏の追及の手をかわして逃げのびる。そして江戸に出た長英は自分の顔を硝酸で焼き、変装して身を隠すと言う生への執念は凄まじかった。後に捕まった時、捕吏の隙を見て自害して果てている。長英は熾烈な生涯をおくった。水沢から米沢へ、奥州の景色は長英にとってどれほど優しかったろう。江戸に行けば獄中で死ぬことは目に見えていた。覚悟はできていたとは言え、心が乱れる会津街道の峠越えであった。

3.頼三樹三郎     
 頼三樹三郎は弘化4年(1847)と嘉永3年(1850)に2回、米沢を訪れている。1回目では関宿に半年間程滞留し、地元の若者に勉強を教えている。三樹三郎23歳の時であった。寺子屋程度のものであったろうが、後に歴史の中央で名を留めることになる三樹三郎が、米沢の山間の寒村で教鞭を執ったことは驚きである。教育を受けた若者が生きていることはないのだが、代々その三樹三郎の薫陶を受けた子孫は今でもいるaidu2に違いない。
 2回目の来米の折は藩校興譲館を訪ね、教育の実態を粒さにみている。興譲館は上杉鷹山・細井平州の建学の精神が幕末まで引き継がれていたことであろう。三樹三郎は維新回天の立役者の一人である。鷹山の「伝国の辞」にみる国家観は、将来の新しい日本の国家像の根本精神に据えようと意図し、興譲館に学びに訪れたと思いたいのだがどうであろうか。そうでないと三樹三郎が2回も東北の"辺境の地"米沢に足を運ぶなどということはないのでなかろうか。
 頼三樹三郎は頼山陽の三男である。祖父は頼春水と言う。代々の学者の出である。山陽のルーツは広島竹原にあり、訪れると今もゆかりの史跡には人が絶えることはない。
 三樹三郎の父、頼山陽は「川中島の合戦」を謳った、"鞭声粛々"で有名な漢詩、「不識庵機山を討つの図」の作者である。この漢詩が余りにも有名で、聊か本業の儒学者としての存在感が薄れている感は否めないが、安永から天保年間に頭角を表した歴史家・思想家・漢詩人である。「日本外史」を著しているが、それは徳川幕府を批判する内容のものであった。山陽は天子を尊び覇者の徳川幕府を賤しむと言う「尊皇賤覇」の気運を盛り上げた。後に幕末の尊皇攘夷運動の精神的支柱へと昂揚した。三樹三郎は父、山陽の遺志を受け継ぐと尊王の大義を訴えて先進学者らと交友を広げた。特に梅田雲浜・梁川星巌・池内大学らと密に交わり、尊王攘夷を唱えた。
 このことは幕府が恐れることとなり、「幕末の四悪危険人物」とも揶揄されることとなる。三樹三郎は「安政の大獄」で捕えられ、江戸の福山藩邸に幽閉された。その後幕府の激しい追及の末に江戸の小塚原刑場で斬首された。享年35歳であった。因みに梅田雲浜は小浜藩士で、嘉永6年にペリーが来航すると、条約反対と外国人排斥による攘夷運動を提唱し、賛同する志士達の先鋒となって激しく幕政を非難した。後に「安政の大獄」で摘発を受け捕えられ獄中で病死した。また梁川星巌は美濃国の郷士に生まれ、水戸の藤田東湖や佐久間象山らと交友し、政事への関心を強めて頼三樹三郎や梅田雲浜らの尊王攘夷の人達と接触した。だが幕府の監視を受け「安政の大獄」で捕えられる直前に病で急死した。
aidu3 さらに池内大学は京都の商人の子で、嘉永6年のペリー来航に国の危うさを感じ、攘夷論を著して帝都防衛を論じた。このことは幕府の注意を引き付け危険人物と見做された。後に刺客に暗殺されている。後述の吉田松陰も同様に「安政の大獄」で処刑された。刑場の露と消えた二人のこの偉人が偶然にも米沢に来訪し、会津街道を通り抜けたことに何か因縁めいたものを感じるのだがどうであろう。     

4.吉田松陰
 あの吉田松陰が会津街道を江戸に向かって峠越えをした。米沢から会津へ抜けたのである。嘉永5年(1852)のことであり、ペリーが浦賀に来航する1年前のことだった。世の中が騒々しくなる少し前である。幕末の泰平の世のひと時を、米沢藩も会津藩も最後の宴を満喫するかのように謳歌していた。この吉田松陰ほど幕末の混迷した時代に鮮烈な印象を日本人に与えた人はいないだろう。
 吉田松陰は安政元年(1854)、伊豆下田の湊で、ペリーが率いる米国艦隊旗艦ポーハタン号に便乗して密航しようとした。不運にも囚われの身となり長州萩の野山獄に繫がれた。当時、密航は重大な犯罪行為で死罪となる重罪であった。弟子の金子重輔と下田湾内に浮かぶ米艦を目指し、柿崎の弁天島から荒波をついて小舟を漕ぎ出した。見つかれば捕まり死罪となるのだが、松陰をしてその死を賭けても、つき動かした熱情とは一体何だったのだろうか。松陰は海外事情を探りたい一心であった。松陰は知識の滞留よりも行動にこそ価値を見出していた。その教えは多くの子弟に引き継がれた。その薫陶を受けた幕末の壮士達は皆行動に移して散華した。
 嘉永5年、若き松陰は東北遊行の旅に出た。攘夷論が華やかに謳われ始める頃、日本の特に北国の沿岸防備の実態を自分の目で確かめたいと言う、憂国の情溢れる時だった。青森から南下し仙台を経て、白石に至り、七ヶ宿街道を西進し二井宿峠を下り、高畠に入ると亀岡を経て川井に至り、米沢城下に入った。嘉永5年(1852)5月のことで、ペリーが来航する1年前であった。
aidu4 これには肥後熊本の宮部鼎蔵が同行していた。だが不幸にも宮部は元治元年(1864)の池田屋事件で殺されている。松陰は米沢の旧友高橋玄益を訪ねる為に米沢入りをしたのである。残念ながら生憎と高橋は藩主の参勤交代に随伴していたために留守であった。高橋は長崎に留学し医学を学び、松陰とは旧知の間柄にあり、松陰は旧交を温めようとした。藩の実情なども聞こうとしたのかもしれない。宮部は肥後熊本藩の武士で、尊王攘夷の活動の志士であった。文久2年(1862)には庄内のあの清河八郎も態々肥後に宮部を訪ねている。松陰は米沢に1泊した後に桧原峠を越え、大塩に泊まると会津に入った。そこから西街道を歩き日光に至ると、急ぎ江戸に戻っている。
 松陰は未知の地、東北の見聞を思い立ち、嘉永4年(1851)に脱藩して江戸を離れた。通行手形が届くのを待ちきれずに旅立ったと言う。千住、松戸と水戸街道を進み、水戸に辿り着く。水戸から太平洋沿いに北上し、勿来の関を越えて奥州に入ると西進し白河に出た。さらに白河を抜けて嘉永5年(1852)正月に会津に至った。会津は帰り道の途次にも立ち寄っていて、まさにクロスポイントであった。
 会津から新潟を目指し、海を渡り佐渡にも行った。さらに日本海を北上して弘前に至ると、津軽半島の先端、三厩まで足をのばし、青森、七戸、八戸、一戸と踏破して盛岡に入る。そして一関から塩釜に下ると仙台へと進めた。仙台には数日間滞在して、先述の如く米沢に至っているのである。
 当時の奥州は未だ戊辰戦争の前であり、行く先々の城下町は静けさの中にあった。松陰は約5ヶ月かけてを東北を見て回った。大変な健脚である。日本の諸藩の国防・民政に危惧の念を持っていた。果たして嘉永6年(1853)に黒船が浦賀沖に来航した。それから2年後の安政元年(1854)、黒船に怯まぬ松陰の姿が伊豆下田にあった。だが幕府はそんな気概の松陰を危険分子とみた。
 やがて「安政の大獄」で獄に繫がれるや刑場の露と消えた。しかしその魂魄は西国の若き俊秀達に宿った。そして彼等は維新の立役者となった。

aidu55.松本良順     
 松本良順は順天堂大学の創設者である佐藤泰然を父に持ち、18歳で松本良甫の養子に入った。義兄の林洞海も蘭学医と言う医師一家であった。良順は若くして医学伝習の為に長崎に留学し、オランダ軍医のポンぺに学び、本格的な西洋医学の習得を志した。
 この当時幕府の御典医は漢方医が支配し、蘭学医は入る隙がないほど虐げられていた。良順は維新後、日本で初めての西洋式病院を創設し、また陸軍軍医として永く日本の医学界に貢献した。良順は幕末に佐幕派の医師として活躍し、江戸が新政府軍の進撃で危うくなると江戸を脱し、当寺幕府に忠誠を誓い新政府軍に抵抗しようとしていた会津に入った。会津藩医南部精一の説得によるものだった。
 良順の会津に至る道筋は、江戸を出ると常磐街道に出て、銚子まで陸路を辿り、そこから太平洋沿岸の平潟まで海路を使った。平潟から陸路を白河へ向かい、白河から間道を抜けて勢至堂峠を越えて漸く会津に入った。既に新政府軍の進攻の足音が聞こえていた。やがて新政府軍の会津侵攻により会津城下や周辺が戦場となるにおよび、見る間に死傷者が増えてくる。
 良順はこの戦火の下、藩校日新館に籠り必死に傷病兵の治療に当たった。藩主松平容保は良順を会津から脱出させようと気を配った。次第に敗戦が濃厚となるや良順とその弟子は、縁あって出羽庄内を目指して会津を立ち去る。庄内の藩主酒井忠篤が良順の医師として腕を評価し庄内での医学の発展を企図し招聘したのであった。良順は藩主容保の好意を謝して会津を離れる決心をしたのである。時は慶応4年(1868)8月で、会津藩降伏が間近に迫っていた時であった。 

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