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坂将軍が攻めたとされる達谷窟
復元された秋田城の外郭東門

歴史寄稿 元慶の乱ーエミシたちを投降させた男ー


saitouhideo 寄稿者略歴
 斎藤秀夫(さいとうひでお)
 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都新宿区在住。著書『男たちの 夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)『男たちの夢—歴史との語り合い —』(同)『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)『桔梗の花さ く城』(鳥影社)『日本城紀行』(同)『続日本城紀行』(同)『城と歴史を探る旅』(同)『続城と歴史を探る旅』(同)『城門を潜って』(同)



 菅原道真を左遷した人物とされる左大臣、藤原時平らが編修し、延喜(えんぎ)元年(901)に完成した歴史書『日本三大実録』を読むと、九世紀、東北地方では自然災害がたびたび起こっていたことが確認出来る。
 貞観(じょうがん)十一年(869)五月二十六日には、「陸奥の国、地大いに震動(ふりうご)いて流光昼の如く陰映(いんえい=うすぐらいかげ、くもり)す。しばらくの間、人民叫び伏して、起(た)つこと能わず(あたわず=出来ない)」とある。
 また、貞観十三年(871)四月八日には、「山(鳥海山=山形県にある標高2236メートルの山。出羽富士とも呼ばれ、古くから歌の名所として知られていた。〝都をば霞とともに立ちしかど、秋風の吹く白河の関〟この一首で有名な平安中期の歌人、能囚が著した歌学書『能囚歌枕』にも、鳥ノ海の名称で出羽国の歌枕として掲載されている)上に火有りて土石を焼き、雷の如く山より出づる。河は泥水泛溢(でいすいはんいつ=泥水が広くあふれ)して、その色青黒く、臭気充満して、人聞(か)ぐに堪えず」とも記されている。
 さらに、元慶(がんぎょう)元年(877)になると、「四月朔(さく=一日)夜丑の刻(うしのこく=午前二時)日闕(ひか)くること(日食)ありき。是月(このつき)大旱(たいかん=大きなひでり)民(たみ)農業を廃しき」とある。次いで、五月九日と十五日には、「雷なりて雨ふらざりき」という状況となり、さらに七月二日にも「西南に遠く雷を聞くこと五、六声。雲気冥密(うんきめいみつ=空が暗くて濃い)然(しか)れども雨ふらず」そう記されている。そのために領民たちは、「降雨の術を試みに行ひて、三日の内に必ず験有(げんあ)らしめむ」要するに、必死になって雨乞いを行ったというのである。
akitajou にもかかわらず、出羽国の秋田城(秋田市の西北、高清水岡に、古代の出羽国北部の開拓と、エミシ経略の拠点として作られたことから、出羽柵〈でわのき〉とも呼ばれた。最初の出羽柵は、庄内平野南端の現在の山形県鶴岡市附近にあったとされるが、エミシ経略の進展につれて、天平〈てんぴょう〉五年〈733〉に、それよりおよそ百三十キロメートル北に位置する、高清水岡に移築された)城司(主)良岑近(よしみねのちかし)は、民が大凶作で難渋している現実から眼をそらして、不当な交易によって得た利潤を独占し、重税を課して私腹を肥やした。
 また、院宮王臣家(院宮とは上皇・法皇・東宮などの総称)の使者までもが、良馬・良鷹などを収奪した。 その結果、出羽国内の三分の一ほどの人々が奥地へと逃げ出す有様となった。同じような例は、これが始めてではない。仁寿(にんじゅ)四年(854)にも、陸奥国で凶作が起きたのだが、国府の役人たちは圧政をやめず、有力農民・富豪層による激しい反乱が起きている。状況はまさに、その当時と酷似していた。
 元慶二年(878)三月、たまりにたまったエミシ(『日本書紀』では、彼らのことを「農耕を知らず、狩猟採集の生活を営む、未開野蛮な、まつろわぬ〈服従しない〉異民族」と、差別的な言葉を使ってそう表現している)たちの不満は、ついに頂点に達した。
 その時の状況を出羽国司藤原興世(おきよ)は、「夷俘(いふ=朝廷に帰服したエミシ)叛乱し、三月十五日、秋田城并(ならび)に郡院(ぐんいん=その出先機関)の屋舎(おくしゃ)・城辺(じょうへん=城の廻り)の民家を焼き損ふ」そう報告している。
 また、朝廷側の人間である藤原保則(やすのり)でさえ、「怨(うらみ)を畳(かさ)ね、怒りを積りての反逆」そうなげいているほどだから、いかに良岑近の圧政がひどかったかが、これからもわかる。
 しかしながら考えたら、藤原興世は良岑近の上司に当る人物であり、部下の圧政を制御出来なかった責任は、重いといわざるを得ない。それでも、興世も自己の保身のためにはこれはまずいと考えたのであろう。「六百人の兵を差(つかは)して、彼(か)の隘口(あいこう=米代川の河口)野代の営(のしろのたむろ=現在の秋田県能代市)を守らしめた」と、『日本三大実録』にはある。
 ところが「賊一千余人有り、官軍の後に逸出して(いつしつして=廻って)五百余人を殺略し、脱(のが)れ帰る者五十人なり」と、同書に記されるほどの大敗を喫してしまうのである。そして、秋田城下の村々はさらなる被害を受けた…。
 あまりの戦況の悪さに業を煮やした中央政府は、四月二十八日、上野(こうずけ=今の群馬県)・下野(しもつけ=今の栃木県)両国の国司に対し、各千人の派兵を命ずると共に、五月四日、摂政(せっしょう=天皇に代わって政務を行う官で、その機能は天皇に等しいとされた)の藤原基経(もとつね=冒頭に紹介した時平の父)は藤原保則を出羽権守(ごんのかみ=権とは仮の意)に任じ、現地に派遣することを正式に決めたのである。
 そんな時である。またも出羽国から、驚くべき報告が京にもたらされた。五月上旬、俘囚の代表三人が、「秋田河(現在の雄物川)以北を己が地となさむ」つまり、律令国家からの分離独立を求めたのである。
tatuyakutu むろん、朝廷としてはこれを容認することは出来ず、陸奥国の援兵二千五百と、出羽国の兵二千五百、合わせて五千の兵を秋田城に集結させ、この鎮圧に乗り出すのである。
 が、政府軍に対するエミシたちの抵抗はすさまじく、五月下旬、彼らは船に乗った千人余の兵をもって、秋田河から急襲をかけ、数百人の兵が政府軍の背後を攻撃して、「甲冑三百領米・糒(ほしいい=乾燥して貯えておく飯、水に浸せばすぐに食べられる)七百石、衾(ふすま=夜具)千条、馬千五百疋(ひき=頭)ことごとく賊のために取られ」てしまうのである。
 まだ、現地に赴かず、京でその報せを受けた藤原保則はこう述べたと伝わっている。「今のごときは、坂将軍(延暦=えんりゃく=二十一年〈802〉に、エミシ軍を討伐した坂上田村麻呂の意)の再び生まるるといえども、蕩定(とうてい=鎮圧)すること能わじ」
 危機感を一層募らせた中央政府は、六月八日、今度は小野春風(はるかぜ)を鎮守将軍に任じて、保則の協力者とし、エミシ征伐に当らせることにした。
 春風は、先祖代々の将軍の家の出で保則をして、「驍勇(ぎょうゆう=勇ましくて強い)人に越えたり」そういわしめた武将であり、『古今和歌集』に作歌二首が載るほどの文化人でもあった。また、保則自身も備前・備中(びぜん・びっちゅう=今の岡山県)の国司時代、〝父母〟と呼ばれて慕われ、その仁政を聞いて感服した備後(びんご=今の広島県)の盗賊が、保則の前に自首して来たことがあった。さらには、任務を終えて帰京する際、別れを惜しむ村人たちが次々とやって来たので、保則は密かに小船で出立したという逸話を残している。
 いわば中央政府は、最後の切り札を二枚投入したといってよい。すぐさま、春風は精兵を率いて出羽国へ向かい、遅れて六月中旬過ぎ、現地の国府に到着した藤原保則と合流して、今後の作戦について語り合った。
 もとより、春風は和平論者であり、保則も基経から施政方針を聞かれた際、仁政をもってエミシたちを帰服させることこそ肝要。そう答えたほどだから、二人の意見はすぐに合意となった。
 本来、エミシたちの本拠は上津野(かずの=現在の秋田県鹿角市)周辺に点在していた。そのことは、『日本三大実録』元慶二年七月十日の条に、「秋田城下賊地者、上津野・火内(ひない)・榲淵(すぎふち)・野代・河北・方口(かたぐち)・大河・堤・姉刀(あねたち)・腋本(わきもと)・方上(かたかみ)・焼岡(やけおか)十二村也(なり)」とあることからも確認出来る。
 春風はその彼らの拠点を訪れ、エミシたちと接触しようと考えたのである。春風は、「少(わか)くして辺塞(へんさい=辺境防備のとりで)に遊び、夷語(いご=エミシたちの使う言葉)をさとれり(話せた)」という人物であったから、エミシたちを説得させるだけの自信は十分にあった。
 七月下旬、十二村の一番奥にある上津野へ出向いた春風は、得意の語学力を生かして、エミシたちとの交渉に当った。彼には良岑近のような尊大で、相手を見下すような態度は全く見られず、その名の通り春風のようなさわやかさを有していたのであろう。彼の熱意によって、リーダー格が降伏、それを知った他のエミシたち三百人余も、八月二十九日、春風に投降するのである。
 こうして、さしもの彼らの激しい抵抗も平定されることとなった。イソップ童話に〝北風と太陽〟というのがあるが、この〝元慶の乱〟の推移を眺めていると、まさにこの話ぴったりだという感がする。
 そしてそれは、二十一世紀の現代でも、少しも変わらない民衆の心理であろう…。今でも良岑近タイプの政治家よりも、藤原保則や小野春風のような為政者を、人々は望んでいるのである。

★追記★
 藤原保則のその後だが、天慶の乱終息後、改めて出羽守に任じられ、秋田城主となった。彼は乱によって焼かれたその城を、旧に倍する規模で再建したと『藤原保則伝』にはある。
 また、『古今和歌集』には、小野春風の歌として、"花すすきほにいでて恋ひば名をおしみ、下結(したゆ)ふ紐(ひも)のむすぼほれつつ"=花すすきが穂を出すように表立って恋い慕うと評判が惜しいので、下紐が解けるどころか、かえって固く締められるように思いが晴れず辛いことです=のほかに、天彦ので始まる一首が掲載されている。