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スカイバレーより望む綱木宿
旧会津街道の綱木宿
尾崎氏(泉氏)が建立した若宮八幡神社
             (重要文化財)
甲斐の武田信玄に対して、越後上杉謙信の防衛の最前基地となった飯山城にある石垣(長野県飯山市)
尾崎総本家(尾崎緑氏)より寄贈を受けた「尾崎家文書」を所蔵する長野県立歴史館(千曲市内)

寄稿 尾崎姓発祥の地を訪ねて 尾﨑世一氏

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平成26年10月4日・5日 飯山城築城450年記念イベント開催(長野県飯山市) ―尾﨑氏一族としてパネル討論会に参加の機会―

ozakiyoichi寄稿者略歴
尾﨑 世一(おざき よいち)
昭和11年、米沢市生まれ。山形県立米沢西高校(現米沢興譲館高校)、
国立宇都宮大学農学部畜産学科卒業。昭和35年、登起波牛肉店就職。昭 和44年、(社)日本食肉協議会(現日本食肉格付協会)入会。平成8年、株式会社置賜畜産公社(現米沢食肉公社)入社、同17年、同社代表取締役。同25年、同社相談役。

 予てから訪ねたいと思っていた信州飯山市を念願が適って、平成二十六年六月二十七日から二泊三日の日程で訪問してきた。 梅雨の季節であったにもかかわらず、全ての日程で好天に恵まれ、思う存分楽しみ勉強する事ができた。事の起こりは平成二十三年十一月中頃、米沢日報の成澤礼夫社長から「尾崎家は米沢市で最も古い歴史を有する牛肉店であり、先祖も戦国時代信濃飯山城主の尾崎氏に繋がり、直江兼続とも関係する歴史があるから、そのような家系の歴史を後世のためにも記録に留めておいてはいかがですか」と言われたことでした。
 わが家には巻物の型で「尾崎家系図」が残されており、そこには祖として清和源氏に始まり、源氏の鎌倉時代を経て、信濃飯山で泉八家と言われる尾崎政重に至り、戦国時代末期には上杉家と共に会津、米沢へ移動してきた流れが綴られている。
私共の尾崎諸家も上杉藩主とともに飯山を離れ、宮内の宮沢城下に居を移した。現在では飯山地区に尾崎姓を名乗る家は一軒もなくなっている。
 私は文章を書く事は好きですから苦になりません。これまでも「米沢牛の系譜」、「米沢牛の恩人チャールズ・へンリー・ダラス」等を著してきましたが、自叙伝を書くとなれば格別立派な人生を送ってきた訳でもなく、当所は躊躇しましたが思い切って書かせていただく返事をし、平成二十四年一月元旦号の紙面から連載を始めて、同二十五年十月まで九十回の連載をさせて頂いた。
 この自叙伝の最初の部分で戦国武将尾崎氏の歴史を「尾崎家系図」のみでは内容不足でどうしても書けない部分があり、米沢市史や南陽市史等を参考にし、また南陽市宮内の高岡亮一氏から貴重な史料を提供して頂き、また、成澤社長からもアドバイスを頂戴した。

 こんな経緯から「百聞は一見にしかず」と、どうしても一度は飯山市を訪問することを決意した。そこで平成二十五年四月二十日に東京第一ホテル米沢で開催した私の喜寿と自叙伝出版を祝う会に御出席をいただいた飯山市教育長の長瀬哲さんに御連絡の手紙を差し上げたところ、早速、案内をしてくださる方として前飯山学習課長望月静男さんを紹介していただいた。
iiyamanoyama 六月二十七日、米沢を九時二十五分発のつばさ七十六号に乗車し、大宮駅で東京から来る娘容子と合流し、長野を経由して飯山線に乗り換えて、十四時四十九分、飯山駅に到着する。
駅舎で望月静男さんとお会し、二日間に及ぶ案内に恐縮を申し上げて早速、飯山盆地全景を一望出来る鷹落山(約八百米)に車で一気に登った。眼下には飯山盆地が広がる。
米沢盆地と違い盆地を形成する山々には千米を超える高い山は無く、細長い飯山盆地の山裾から民家が上に続き、この風景を妨げるものは全く存在することのない美しい盆地である。
 望月さんの説明では動物の尾が細長く延びたような、その先(崎)に尾崎(こちらの人は「オサキ」と発音する)地区が見える。眼下には真緑で綺麗に晃る区画整理された水田がどこまでも広がり、その左の彼方には道路沿いに尾崎城址が水田の中に豆粒の様に見えた。
 この辺りの水田は「みゆき米」の生産地であり、外様平(とざまだいら)の雄大な田園風景の緑色が目映い光を放って美しい。
この鷹落山への道はこれから先、妙高まで続く道だという。山頂には大きな夏雲が登り、天気は上々の快晴である。盆地の美しさを堪能しながら、下山では望月さんの手慣れたハンドル操作で間もなく尾崎城址に到着する。
 城祉は石垣や堀などは無く、平地に「尾崎城址」と書かれた大きな石碑と碑文を書いた碑があるだけだ。昭和四十九年秋、ここ五反田地域の基盤整備にあたり、尾崎区郷土の有志者の協力により、この尾崎(三桜)城の跡に見事な城址の記念碑が建立された。
尾崎政重公がこの地に城を開創してから五百年の吉辰であったという。

 望月さんの説明では「未だ伝説の域だが、この地に尾崎城があったのは間違いないでしょう」といわれた。その碑文には次のようなことが刻まれていた。
ozakijoushi『尾崎城は鎌倉時代の初め、泉親衡(ちかひら)の築城と伝えられ尾崎村字五反田にある平城である。東西弐町歩、南北壱町余、南は現広井川に沿い、北は道路に接し、寛永十八年尾崎村検地帳によれば東に水押、西に川添大ぶけ等の深田があって要塞をなし、はりつけ田、館内、弓田、鎧町、錏田、母衣田、川田、白粉田、柳町、門田等城下町特有の地名が附近に残っている。吾妻鑑に依れば「親衡は夙に北条氏の野望を察し之を除かんことを企て、同士糾合中事顕れ建保元年三月討手の大将工藤十郎及郎従を斬って逐電し行方知らず」とあるが密かに尾崎に還り子孫代々此地に住み(泉)十三代政重(尾崎初代)に領地を持ち(相続)、七人の弟を上倉、今清水、中曽根、上堺、大瀧、奈良澤、岩井に分封し、長男重元に尾崎家を相続させた。之を泉八家と云ふ。
 十七代重歳に至り、武田晴信の侵入により、天文二十三年長尾景虎の麾下に属し、慶長三年、上杉景勝の会津に国替を命ぜられた時、泉八家も亦、之に随って会津に移り城址荒れて田となったが地形字等に昔の俤を偲ぶ事が出来た。然るに今回基盤整備により史跡の煙滅せん事を愁い此碑を建つ』とある。

 ここで、わが家の「尾崎家系図」を基に系図誕生を述ベる事にする。
上杉景勝の会津転封にともない信州飯山から会津に移ったのは尾崎家の八代当主の尾崎三郎左衛門重誉(しげたか)である。重誉は二十歳の時、諸国を巡る武者修行に出掛けて徳川家康の目に留まり、天王七年(一五七八)家康の駿阿持船城攻めに参戦して、城主である向井伊賀守を討ち取ったとの伝えが残る人物である。その後、重誉は信州小布施に居を構え、飯山城主となった。
 会津移封に伴い、重誉は羽州置賜郡北条郷宮沢及び岩代信夫郡、上名倉、大森、黒岩、岡部等の村の支配を任されて、六千石役領下二千八百十石を賜り、慶長三年(一五九八)三月、重誉は兼続らと共に置賜地方に入り、 現在の山形県南陽市宮内の地にあった宮沢城主となる。そして、重誉は信州五束村より宮内を経由して会津上名倉村字桜内に東源寺を移し、同年三月十六日寺を建立、山号を改めて南具羅山東源寺とした。
重誉は宮沢城には半年しか留まらず、同年九月には福島城代として上名倉に移り、同年十二月十三日、福島城で四十一歳で没し、南具羅山東源寺に葬られた。
 しかし、尾崎重誉については謎に包まれた部分がある。「南陽市史編集史料第十集」の中で慶長三年春、重誉が宮沢城に移ったことについて、米沢藩の記録には一行も出てこないと書かれている。それと共に慶長三年夏、福島城に移ったことについても米沢藩の記録には何の記載もない。ところが尾崎家文書「瑞蓮記」(宮内板垣家文書)や「福島城相伝」には重誉が福島城に移ったと記載されている。また、尾崎に関して消されたのは米沢藩の記録だけでなく、宮内の蓬莱院や飯山から重誉らと共に来た善光寺(米沢市西大通り二丁目)の過去帳も慶長時代以前の記録がない。
 南陽市宮内の地元史研究者である高岡亮一氏は「兼続公の母親が尾崎家の出であることが正しく伝わらなかったこの事も大きな疑問だ」と(和光神社が結ぶ歴史的奇遇ー兼続の母の実家、尾崎家との関わりの中でー)述べている。このことは尾崎家と直江兼続との関係を歴史から抹消したいという何らかの力が働いていたことが推察される。加えて米沢藩の中で兼続、そして、妻お船が亡くなってから、その菩提寺である徳昌寺が破却されたことからも理解される。
 慶長三年(一五九八)十二月十三日に福島城で重誉は死去し、翌年には重誉の子仁助重雪が家督を継いだが「ある事件」で疑惑を受け、泉八家の中で岩井信能を除いた尾崎家を含む泉七家の所領が没収の処置を受けている。
上杉家の「文禄三年定納員目録」の最後に「一、尾崎土佐守重雪、故アリ小佐原源太左衛門ト改、其ノ後、尾崎三郎左衛門、同仁助ト改候事」と記してあるが、その理由が残されていない大きな謎だ。岩井信能を除く泉七家は、その属する家来と共に直江兼続に預けられて重雪は小佐原姓を名乗り逞塞させられた。わが家に残る「尾崎家系図」には「同四年四月中福島一乱岩井備中ノ讒言(ざんげん)依泉一統岩井家除所領没」と記されている。 

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