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スカイバレーより望む綱木宿
旧会津街道の綱木宿
尾崎氏(泉氏)が建立した若宮八幡神社
             (重要文化財)
甲斐の武田信玄に対して、越後上杉謙信の防衛の最前基地となった飯山城にある石垣(長野県飯山市)
尾崎総本家(尾崎緑氏)より寄贈を受けた「尾崎家文書」を所蔵する長野県立歴史館(千曲市内)

寄稿 尾崎姓発祥の地を訪ねて 尾﨑世一氏

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平成26年10月4日・5日 飯山城築城450年記念イベント開催(長野県飯山市)        ―尾﨑氏一族としてパネル討論会に参加の機会―

 尾崎源太左衛門、上倉治部、上場左馬介、大瀧安能、今清水掃部、中曽根左衛門、奈良澤主殿は所領没収、その内上堺、中曽根、奈良澤は絶家とする厳しいものだった。そして泉七家の者は伊佐澤(現山形県長井市伊佐澤)に移住したことが触れられている。
naganohakubutukan 長野県立歴史館に所蔵されている「尾崎家文書」(米沢日報成澤社長調べ)の重雪の部分を見ると重雪は重誉の実子ではなく、越国三本寺譛岐守定雪の子で母は岩井式部の娘であり、重雪は飯山上倉の元春の養子となり、慶長元年(一五九六)、重誉の娘と婚姻して養嗣子となっている。さらに慶長四年五月の福島城在番の時のことが出てくる。 重誉亡き後を継いで福島
                         城主となった重雪は素性の解らない者に会ったことを岩井信能が会津の上杉景勝公に告げ口したことで重雪は景勝公の勘気を受け、岩井家を除く泉七家一統が領地を召し上げられ、福島から米沢へ蟄居を命じられた。そして北条郷宮内に隣接する伊佐澤に移り、一時は小佐原氏を名乗っている。素性の解らない者というのは上杉藩と領土を接する伊達政宗の家臣であるとも考えられる。

 関ケ原の戦いに先立つ慶長五年七月には政宗は景勝の重臣の甘糟景継が城主であった白石城を奪っていることから重雪がそのような者と不用意に会ったとなれば景勝にとっては重雪の城主としての能力を疑うことに繋がる。
 泉七家が纏まって領地没収となったのは重雪を頭領とする尾崎一統への全体的な罰と考えられる。重雪には「依之相残面々申駅不相立」とある。 
 そして、この泉衆の転変には国替えの二十年前に起きた「御館の乱」も影を落としていると推察される。これは謙信公が亡くなった天正六年(一五七八)、跡目を巡って景勝と景虎の二人の養子が争った出来事であり、尾崎を始めとする泉一族が景虎側に付く者が多かったことから、景勝にとって赦すべからざる一族であり続けたのではなかったと考えられる推論が生まれる。
 わが先祖が武士を辞め、米沢で米穀商となったのは、このような事件が背後にあったと考えられる。
 さて、尾崎総本家は市内の北寺町の東源寺の檀家となっているが、わが家の「尾崎家系図」には分家したとは明記されていない。尾崎総本家の菩提寺が東源寺であるのに対し、わが家の菩提寺が免許町の海応院と遭うことからも分家という認識で間違いないだろう。 
 「尾崎家系図」によれば第三代米沢藩主上杉綱勝治世(一六四五〜一六六四)昌乗の孫重昌(庄兵衛)が米沢城下の龍町(立町)、現在の米沢市中央三丁目の西栄庵に屋敷を求めたとあるが慶長四年(一五九九)伊佐澤に移住してから四十年余り、何をしていたのか不明である。米沢城下に移ってからは武士を辞めて商人へ転身を図り、米沢の町方地域に住み始める。紋所を「丸に四つ目(平菱)とした。商才に長け、間もなく町奉行支配、宗門格筆、名字帯刀御免、改所諸役取締を仰せ付けとなった。

 重昌の子重次は上杉家御蔵預米を仰せつかり、以降、わが家は江戸時代を通して米穀商を営むことになる。昌乗以降の系譜は範久・重昌・重次・太郎兵衛・初代庄兵衛・二代目庄兵衛・三代目庄兵衛・四代目庄兵衛と続き、幕末、明治維新を迎える。
 弘化三年(一八四七)、龍町(立町)の町割りには現在の米沢商工会議所向かいの五百川屋酒店の場所に「穀屋源七」との記載があり、この場所にわが先祖が住んでいた。
 尾崎重誉の叔父昌乗から数えて十代目庄兵衛・きの夫婦に長男庄兵衛(十一代)、次男角次、三男源蔵、長女とみ、四男勝蔵が誕生した。
 この十代目庄兵衛は昌乗の血脈を引く、米沢における尾崎本家である。
 私の実家尾崎家は十一代庄兵衛の弟源蔵(高祖父)が明治二十三年(一八九〇 )四月五日に米沢尾崎本家から分家したものである。

 話を本論に再び戻します。
 初日の見学はここまでとし、長瀬さんから御紹介をいただいた本町のホテル「ほていや」に宿をとる。夕食は長瀬さんたちが、私共とタ餉の席を設けてくださっているので、望月さんに案内されて天麩羅屋(屋号は思い出せない)に行くと、そこには平成二十五年四月二十日に東京第一ホテル米沢で開催した、私の喜寿と自叙伝の出版を祝う祝賀会に御出席をして下さった服部秀人さん(飯山市公民館長)、栗岩善昭さん(宮沢城址保存会)、服部英一さん(元尾崎地区桜会々長)、武田誠さん(飯山市教育委員会教育部参事)、そして望月静男さん(前飯山市学習課長)の五名の方々が既にお揃いでした。そして間もなく長瀬哲さん(飯山市教育委員会教育長)も見えられて、私共も合わせて八名による和やかな雰囲気の中で宴会が始まりました。
 地元産地酒の甘口や辛口といただきましたが、飲み口が良く、つるつると喉から手が出るように通ってゆきました。また、天麩羅も美味しく、中でも梅干しの天麩羅は始めて食する品でした。続いて二次会にもお呼ばれし、九時少し前にホテルに帰り、床に就いた。

  翌朝、食堂に行くと話し好きそうなホテルの女将さんが「タべは遅かったですか、この辺の人は大酒飲みですから」と話し掛けてきたが「楽しかったですよ、私達は九時前に帰りましたよ」と返答したら「そうですかと」笑っていた。
 十時少し前に望月さんがお迎えに来られたので、昨日のお禮を申し上げ、本日は最初に飯山城の散策に出掛けた。途中の車内で望月さんは「タベの解散は十二時過ぎですよ」と苦笑しながら言っておられた。やはりホテルの女将さんの話は本当だったのだと思った。
 「飯山城と城下町」(飯山市ふるさと館叢書第四集)によると永禄七年(一五六四)、上杉謙信公が信濃一円に勢力を伸ばしてきた甲斐の武田信玄公に対して越後の防衛の最前基地として築城した城である。伝承では泉親衡が鎌倉時代に築いたとする説もあるようだが、戦国期に飯山の土豪であった泉弥七郎が館を築いたのが最初であるといわれている。
 また、川中島合戦を通じて、永禄年間(一五五八〜一五七〇)に大改修をし、城として整備されたとされている。その後、武田勝頼や上杉景勝の家臣である岩井備中守信能(のぶよし)等によって、より堅固な城郭へと改修される。
iiyamajou 飯山城は戦国期の上杉氏と武田氏が所謂川中島合戦と称する戦いの中で種々の面で関与した城として歴史的にも貴重な城跡である。この城の特徴は米沢城と同様に天守閣は無く、二層の櫓が三ノ丸に一つ、本丸に二つあるのみの平山城で東に千曲川、北に皿川、南は急な勾配の崖で、西は湿田があり、自然の要害のある城で、造りの様式は「梯郭式(ていかくしき)」といわれるもので水堀、空堀で城の周囲を囲み                      、防御を固めている。三ノ丸の左奥には「切り岸」という人工的に山地を断崖状にした急斜面がある。 
 飯山城下の町造りは天正十一年(一五八三)、岩井信能が城代となったのを契機に始まり、町屋は上町、下町、肴町の三町が造られ、そして次には侍屋敷の北町、田町、福寿町の建設がおこなわれ、上杉家の会津移封後は城代となった緒大名によって整備された。
 寺町の招致は各城代がおこない、寺は主に町の西丘陵に建立されたが軍事的な要因と町の景観を考慮したといわれている。
 その後、「御館の乱」により武田勝頼の領地となったが勝頼滅亡の後に再び上杉景勝の支配となり、天正十年(一五八二)、城代として岩井氏父子が入城し、翌十一年、岩井信能は父の隠居により備中守を名乗り、名実共に城代となり、信能は景勝の命により城普請や城下町づくりを行った。
 慶長三年(一五九八)、上杉家の会津移封に伴い、北信濃の在地領主や地侍は、ことごとく君主上杉家と共に会津、米沢、宮内等に移った。わが先祖尾崎重誉(しげたか)も宮内の宮沢城に入る。
 このことにより、亨保二年(一七一七)、糸魚川から入封した本田若狭守助芳は二万石、後に三万五千石の城主として、代々飯山城に定着し、明治維新まで九代、百五十一年間にわたり城主を勤めた。
 明治四年(一八七一)、廃藩置県及び明治六年(一八七三)の廃城令により、明治政府は徳川幕府の象徴的存在である城郭の解体を進めたことから日本各地の城建物が解体された。

 飯山城も同様に解体され、往年の様相を伺わせるような遺構は石垣の外はなく、現在では城山公園として市民の憩いの場所となっている。
 場内に「桜井戸遺跡」という古井戸跡があるが今から約八百年前、泉小次郎親衡(ちかひら)が終生の地をこの丘に求め、館を設けて「大泉の館」と呼ばれた時代があった。
 しかし、此の地には水源がなく、ある時一本の桜の大木を見つけたので、その枝に親衡の守り神である鶴岡八幡大神の画を掛けて「どうか水を与え給れ」と祈り、桜の根元を掘ると泉が湧き出したといわれており、この井戸を「桜井戸」と呼び歴代の藩主が大切に保護してきたと伝えられる。この泉小次郎親衡はわが家の「尾崎家系図」にも「寿永年間より文治(一一八二〜)年間まで、泉信濃の守小次郎親平(衡)が犬飼村犬飼氏跡に一城を築き、重臣宮森次郎信親を住まわせ統治す」とある。
iiyama6 次に、泉親平が石清水八幡宮を勧請して文治二年(一一八六)に建立された尾崎八幡宮三桜神社に行く。ここには名峰の尾崎地区に茂るブナ林の中でも四本の最も大きなブナの木が残っていた。続いて、昭和二十七年七月に国の重要文化財となった五束若宮八幡宮に行く。そして、市内の愛宕町「仏壇通り」に向かう。ここには約三百メートルにわたる雁木のある通りには十一軒もの仏檀屋が軒を連ねている。全国的にも珍しい風景だ。
 愛宕町は元々、寺の門前町として発展した
ものであるから、仏壇製造者や仏像製造者の店が集まったのだと思われる。 飯山仏壇の起源は正確には解らないそうだが、観光案内書には元禄二年(一六八九)頃から始まり、江戸時代の末期には「飯山仏檀」として技術的にも経営的にも確立した産業になったとある。
 また、飯山市伝統産業会館で少し、お復習いをしているので後で紹介します。
 続いて常福寺と光蓮寺の間にある「展示試作館奥信濃」に案内された。ここには仏壇や種々の用途別の鎌等の刃物の展示がある。又、多くの観光案内書も置かれていた。店内で熱い日本茶を頂き小休止し、昨夜の疲れを癒した。ここの入口には「純金極楽トイレ」と書いてあるので、その謂われを尋ねると、ここのトイレは全面に金箔が貼ってあるという。娘が後学のため見てきますと入ったが、出てきての感想は「凄い」の一言であった。
 この街には個性ある雪隠「(せっちん)便所の古風な表現語」がここを始め、観光地図を見ると英岩寺の「謙信の露払い処』やSL公園の「信玄の落とし処」や飯山駅に近い片山稲荷の「七福神の雪隠堂」が載っている。

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