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スカイバレーより望む綱木宿
旧会津街道の綱木宿
綱木峠の旧会津街道跡
飯山駅に到着した北陸新幹線試運転車輌
      (平成25年12月2日)写真 服部秀人氏
城下町飯山の風情を感じさせる建物
             (観光案内所)

寄稿 尾崎姓発祥の地を訪ねて 尾﨑世一氏

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平成26年10月4日・5日 飯山城築城450年記念イベント開催(長野県飯山市)        ―尾﨑氏一族としてパネル討論会に参加の機会―

 昼食は本場の「信州そぼ」を望月さんから御馳走になった。仲々味のある蕎麦で、米沢の蕎麦とは食感が違う。今も望月さんから頂いたものを昼に食べているが、正直「信州そば」の方が旨いし、言葉で表現すれば「腰がなく柔らかい」と妻も言っている。
 行列の出来る店で確か屋号は「しおいり」という店であった様な記憶がある。
 腹を満たして、次は公民館に近い飯山市伝統産業会館、飯山市美術館、飯山ふるさと館と見学する。公民館館長の服部秀人さんはお留守でしたので武田誠さんに付き添っていただき、最初は伝統産業館に入る。いずれの建物も本格的な建築で、中の展示物も立派なものばかりで質の高さに驚いた。特に飯山仏壇は手作りの堅実さと京都風の華麗さに目を惹きつけられた。 昭和五十年九月四日、通商産業大臣から「伝統的工芸品」の指定を受けているという。
 伝統的な技術、技法として、次のように定めている。
一、木地の構造は本組みによる組立式であること。
二、なげしは弓形とすること。
三、宮殿造りは「肘木組物」によること。
四、塗装は精製漆を手塗りすること。
五、蒔絵及び「艶出押し」による金箔押しをすること。
 そして、価格が半端でない。百数十万円から、四百数十万円もの仏壇が展示してあった。
 仮に私が購入したとしても、安置する和室がない。十二畳以上の部屋でないと仏壇に部屋が負けてしまう。兎に角、高雅な品である。
 飯山は仏教信仰の厚い土地柄と合わせて、漆塗りに適した気候に恵まれ、仏壇を作る環境が整い、約三百年前から職人による伝統工芸として受け継がれてきた。島崎藤村の小説「破戒」の冒頭に「さすが信州第一の仏教の地、古代を眼前に見るような小都会、奇異な北国風の屋造、板葺の屋根、または冬期の雪除けとして使用する特別の軒庇から、高く顕れた寺院と樹木の梢まで、旧めかしい町の香の烟の中に包まれて見える―――」と書かれていた。

kankouannnajo 美術館も同様に建物が立派に造られており、加えて展示してある絵画がすばらしい。全て地元出身の画家の作品であると望月さんは説明された。私の好きな絵は一昔前の名残を漂わす田舎の風景を画いたものですが、相原求一郎氏(一九一八〜一九九九新制作協会々員)の作品や長谷川青澄氏の作品「初恋(島崎藤村詩集より)」も印象に残った。
 最後にふるさと館に入る。ここで目に止ま                   ったのは古いスキーが五組展示してあったことだ。信州いいやま観光局発行の「日本のふるさと北信州いいやま」に小さく書かれた豆知織に「オーストリアのレルヒ少佐から一本杖スキーを習い、飯山地方に普及させたのが愛宕町妙専寺十七代目住職市川達譲氏。」以来飯山は「長野県スキ―発祥の地」としてスキー競技が盛んになり―――」と寺めぐりのパンフレットに書いてあった。
 米沢は降雪が多く、冬は難儀な土地と思っていたが飯山の比ではない。一冬に延べ三メートル余の積雪量には驚いた。ほとんどの建物の屋根には雪止めの丸木を置く留金がなく、積もった雪は全部滑り落ちる仕組みに造られており、愛宕通りの商店街や一般住宅でも屋恨のトタンは溝が縦に流れている。仏壇通りの雁木も冬の厳しさを物語っていた。
 今日で飯山にはお別れして、娘の知人の中野市竹原でフランス・レストランとホテルを経営する所に一泊するので少し時聞があり、野沢温泉までドライブを楽しんだ。
 途中、大小二つのジャンプ台を仰ぎ見る。 小さい方で地元の高校生が練習中のようであった。仲々立派な造りのように見え、流石スキー発祥の地だ。
 米沢も私が高校生の時代には随分ウインター・スポーツの華としてジャンプ・スキーやアルペン・スキーの滑降・回転競技が感んであったが、今日ではお成山のジャンプ台は使用されないまま、放置されているのが残念に思われた。
 野沢温泉は山肌に沢山の温泉宿が建ち並び、山形県には見られない規模の大きな温泉郷であった。来年春には北陸新幹線が開業されるので、一度訪ねたい温泉地である。
 二日に瓦る長時間、望月さんにはいろいろと御厄介になった他に、竹原の宿まで送っていただき心から御礼申し上げたい心境です。
 最後に、飯山城も登場する「川中島合戦」について新しい見聞を得たので、述べておきます。
 この合戦は甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が信州川中島を舞台に覇を争った有名な戦いであることは御存知の通りですが、川中島とは犀川と千曲川が合流して信濃川となる善光寺の穀倉地帯を指した広域名称であり、更級、埴科、水内、高井の四郡が接する地域で越後に通じる北国街道で交通の要所である。天文二十二年(一五五三)四月二十二日、北信漉一帯が武田軍に占領され、それを奪還するために上杉謙信が進軍したのが第一回の合戦である。二年後の天文二十四年(一五五五)七月、川中島で両軍戦いを交えたが成果無く、規模の乱れや長陣による不満がつのり、今川義元の仲介によって戦闘を終了したのが第二回の合戦であった。第三回の合戦は弘治三年(一五五七)八月、水内郡上野原で戦います。
 この時、飯山城を守っていたのが飯山衆の上倉、奈良澤、今情水、泉、尾崎、中曽根、上堺でした。謙信は信玄を戦場に呼び出し決戦をする覚悟であったが実現することなく休験となる。第四回の合戦は永禄四年(一五六一)三月、上杉謙信は関東管領の地位にあり関東地方の平定に力を入れていたが六月二十八日、川中島に出兵した。この戦いは激戦となり壮絶をきわめたものの、互いに決定的な打撃を与えることなく終了する。この戦いで武田軍は信玄の弟信繁と山本勘助が戦死をしている。この後、信濃飯山付近を除いて武田氏はほぼ信濃国を支配していた。第五回の合戦は永禄七年(一五六四)三月十八日、武田軍は野尻城を攻め落とし、越後に進撃、謙信は関東より帰国して出陣し、野尻城を奪還するものの二ヶ月に及ぶ対陣となり、謙信は飯山城へ兵を引き、千曲川東岸に壁田城、西岸には替佐城を造り飯山城の守りを強化した。
 第五回の合戦から四年後の永禄十一年(一五六八)六月三日、謙信は越後出陣を命じ、二万数千人の軍勢は壁田城、替佐城を前線基地として戦ったが、これまで最も劣勢であったが飯山城には泉氏はじめ飯山衆が堅固な守備体制をとっていたので信玄は城を攻め落とすことを締め兵を引いた。同八月に再び飯山城を攻撃するが飯山衆が防戦して守りきる。 
naganoshinnkannsen 謙信自ら四年前に築城した防備に強い名城であったことも大きな勝因となった。
 天正元年(一五七三)二月、武田信玄が、続いて天正六年(一五七八)には上杉様信が相次いで死去し、約二十年間続いた川中島合戦は終わりをつげたが次第に武田氏の勢力が浸透して「川中島」という一つ目の防波堤は武田の波に飲み込まれてしまい、第二の防波堤として残されたのは飯山の地を含む「奥信濃」のみとなった。
 また、見方を変えて、この合戦を観察すると善光寺という大寺院が浮かび上がってくる。
 永禄元年九月、信玄は善光寺の本尊阿弥陀如来像を甲府に運ぶと謙信は「戸隠、飯縄、小菅三山、善光寺を始めとして、そのほか在々所々の坊舎供僧(ぼうしゃぐそう)を断絶となし」といっているが、信玄は崇敬してやまない善光寺をみすみす謙信には渡さないとする宗教的(信仰心)な分野での対立も見逃せない。川中島合戦には善光寺の取り合いという一面が隠されているようだ。
 一方では、天文二十二年の第一回の合戦から第三回の合戦までの問、謙信は信濃出兵は上杉方の信濃衆を救援するものであった。武田氏によって領地を失った家臣達を上杉の家臣として連れて行きます。また、当時の戦場は兵士による略奪が常時行われ、物を奪うだけでなく、武士の略奪まで行われたという。
 上杉謙信も永禄九年二月、常陸の小田城を攻め落とした時には「小田城開場、影虎ヨリ御意ヲモッテ 、春中人ヲ売買事、廿銭三十弐程致シ候」とある。関東へ出兵を「出稼ぎ戦争と呼ばれた」出兵には出稼ぎに行くので季節性もあるようだ。
 川中島合戦の時期を調べると次のようになっている。
第一回天文二十二年八月〜九月
第二回天文二十四年七月〜十月
第三回弘治三年四月〜八月
第四回永禄四年八月〜九月
第五回永禄七年七月〜十月
 これを見ると、七月から九月という秋の収穫の頃にかけて北信濃に出掛けて、川中島合戦の裏舞台では収穫されたばかりの農作物を狙って凄惨な略奪が行われていた可能性を推察することが出来る。「川中島合戦再考 編集長野県飯山市」より抜粋
 また、本年十月四日、五日に飯山市で開催される飯山城築城四百五十年の記念イベントには尾崎氏一族として、パネル討論に参加させて頂きます。前日の三日は尾崎城址近くの小学校でお話をする予定です。
 最後に尾崎家発梓の地、島崎藤村すら「小京都」と呼んだ信州飯山市を訪ね、地元の方々には数々の温かい持て成しをいただき、心から感謝の念を込めて筆を置きます。

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