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歴史寄稿 私の川留め体験記


saitohideonew  寄稿者略歴
 斎藤秀夫(さいとうひでお)
 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都在住。著書『男たちの 夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)『男たちの夢—歴史との語り合い —』(同)『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)『桔梗の花さ く城』(鳥影社)『日本城紀行』(同)『続日本城紀行』(同)『城と歴史を探る旅』(同)『続城と歴史を探る旅』(同)『城門を潜って』(同)


「馬方はしらじ時雨の大井川」
「さみだれの空吹きおとせ大井川」
 これは松尾芭蕉が、赤石山脈に源を発し、昔の国名でいうと駿河と遠江(今は共に静岡県)の国境を流れる長さ一六〇キロメートルに及ぶ大井川を詠んだ句だが、"さみだれ"の一句は、元禄七年(一六九四)芭蕉が最晩年に西国行脚を行った際、大井川の川留めに会い、川庄屋を勤め、俳人でもある塚本如舟(つかもとじょしゅう)宅に泊った時に生まれた作品である。
 江戸時代この大河には、橋は架けられていなかった。江戸幕府を創設した徳川家康が、軍事的理由からあえて造営しなかったと伝わっている。大井川に架橋してしまえば、そこを渡って、薩摩とか長州といった西国の有力大名の軍隊が、江戸を目ざして進軍して来るかも知れず、それを家康は恐れたのである。
 そんなことで大井川は、集中豪雨などによって増水すると、川留めの処置が取られた。その結果、大井川の両岸にある東海道五十三次の宿場町、島田宿・金谷宿に居た旅人は、何日も宿泊せざるを得なくなり(芭蕉の場合は四日間であった)それにより宿場にある旅籠、飲食店、風俗営業店などが繁昌したといわれている。
 そしてその中から生まれたのが、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」 あの馬子唄であった。

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大井川の川越の様子

 この川留めによってうるおったのは、それぞれの店の経営者たちだけではなかった。川越場を管理する役人たちも同様である。役人たちは大井川が通常の流れに戻っても、なかなか川留めを解除しなかったのだ。おそらくそれは、宿場町を支配する顔役(ボス)あたりから、袖の下(賄賂)を受け取っていたものだと想定される。
 いずれにしても大井川の常水は、二尺五寸(約七十六センチ=数字は江戸時代のもの)で、四尺五寸(百三十六センチ)を越すと川留めになった。常水の場合、大井川を渡るためには、川札(川越札、油札ともいい、人足一人を雇うために札一枚が必要)を川会所(かわかいしょ=島田代官から、その庄屋に任命された一人が、先に記した塚本如舟である)で購入しなければならず、旅人はこの川札を買って川越人足に渡し、人足の肩や(肩車)、連台(れんだい)に乗って川を渡った。常水以上の時は手張(補助者)がつくので川札は二枚となり、連台を利用すれば連台の造りによって値段が異なっていた。たとえばイラストで紹介した半高欄連台を頼むと、八枚の川札が必要で、大高欄連台(イラストのように縦棒||だけ、しかも各棒前後1人ずつではなく、横棒||も加え、各棒前後2人ずつの人足がついた)になると、担ぎ手も十六人となって、川札五十二枚もの高値となった。またその時の水深の度合によっても、さらに加算される仕組みになっていた。
 実は一度この私も、この川留めに会った体験があるのである。平成二十六年(二〇一四)十月六日、私は静岡県藤枝市にある市立博物館内で、二回目の講演を行うべく出向いたわけだが、何とその日は、かなり強い台風が東海地方に接近しつつあったのである。これが気ままに行く城巡りの旅であったなら、私は即座に中止したであろう。けれど今日は前もって決められた催し物であったから、それも出来ず、どうしても新幹線で、東京駅を出発せざるを得なかったのである。やがて静岡駅に着いた私は、東海道本線に乗り替え、藤枝駅へと向かった。心配した通り、目的地の周辺には暗雲が立ちこめていた。
「いけませんね」
 私は出むかえに来てくれた、二人の知人にそう声をかけた。この二人は、かつて『米沢日報』で何度か登場したことのあるタラ・マスコンビ(多々良氏と増田氏)である。
「どうします?」
 とタラさんがいった。
「こんな天候では、諏訪原城(静岡県島田市)攻略はちょっと無理かもしれませんね」
天気が良かったら、講演が始まる前にその城へ、案内してもらう予定になっていたのである。
「そうですねえ・・・・」
 私は首をひねった。諏訪原城へはかつて訪れたことがあり、武田流築城技術の集大成ともいえる巨大な三日月堀が残っている城なので、簡単にはあきらめられない気分だった。そんな私の心の動きを読んだのであろう。マスさんがぽつりといった。
「いいじゃありませんか。とにかく諏訪原城近くまで行ってみましょうよ。そんな遠い場所ではないので」
 この一言が決め手となった。そこで三人はふりしきる雨の中を、車で諏訪原城に向かうことにした。二十分ほど経ったのち、
「着きました」
 ほっとした表情で、タラさんが車を停止させた。三人は車から降り、ぬかるみ道のつづく、城内の散策を開始した。やがてこの城の目玉である三日月堀が見えて来た。晴天ならこの見事な遺構を、じっくりと味わいたいところだが、なにしろこの悪天候である。でもタラ・マスコンビは、あくまでもこの私を楽しませたいと、苦心してくれている。二人の気持ちを察した私は、
「雨の城巡りもまた楽しからずですよ」
 軽く笑って、車中へ戻って行った。もう帰りましょうのサインであった。それでも運転手のタラさんは、やはり申しわけないと思ったのであろう。私を近辺にある島田市博物館へと案内してくれた。結果的にはそこで入手したパンフレットをもとに、このエッセイが書けたわけだから、まさに"塞翁が馬"というべきであろう・・・。
 午後になり、講演会会場となる藤枝市博物館へと向かった。講演は二時からである。しかし午前に比べて、雨足が早くなったようである。天を仰ぐ私の心に、一段と不安が増した。
 幸い九月七日に行われた一回目の際は、かなりの人数が私の話を聴きに来てくれた。
 ーでも、今日はこんな状況だものな。何割かの人たちが、キャンセルするに違いない。
 やや暗い気持ちを抱きつつ、私は会場へと足を運んだ。そのとたん、
「何とか」
 とタラさんが励ますようにいった。
「みんな集まってくれますよ」
 うんと、すかさずマスさんが頷いてくれたのが、私には無性に嬉しかった。案の定、会場には前回とほぼ同数の人たちが、席を埋めてくれた。よし!、力を得た私は、一気にしゃべりまくった。それから、一時間半のち、
「ご清聴ありがとうございました」
 そういって頭を下げた私。やがて散って行く聴衆を横目に見ながら、マスさんが近づいて来てこういった。
「まちがいなく今夜台風は、東海地方に上陸します。ですから斎藤さん、あなたはこのまま、東京へ戻った方がいい」
「そうすべきですよ」
 とタラさん。二人の真剣なまなざしが、本気になって、私の身を案じているのが理解出来た。けれど私は、ゆっくりと首を左右に振った。
「いや、予定通り今夜は、藤枝駅前の居酒屋で一杯やりましょうよ」
 それが私の最終的な答えであった。今度の講演が終わったら、三人で歓談する、それが事前に打ち合わせたことだったからである。その約束を、どうしても私は守りたかったのだ。
 こうしてその夜は、楽しい宴となった。したたかに酔った私は、市内のホテルに一泊して、十月七日の朝を迎えた。思ったほどの二日酔いにもならず、ほぼ平常の時刻に目ざめた私は、ホテル内で朝食を済ませ、午前八時三十分ごろ、藤枝駅に向かって歩き出した。だが・・・・であった。タラ・マスコンビが心配したように、東海道新幹線、及び在来線は朝から全面ストップ、それを駅構内の掲示板で知った。しまった!、アフターフェスティバル(後の祭り)か・・・そんな後悔の気持が、私の脳裏にチラついた。
 ーやはり、二人の忠告に従うべきであったかも知れない。
 思い余った私は、近くにいた駅員に尋ねてみたが、いつ復旧するかは、今のところまったく目途は立っていない、との答えだった。弱った!私の胸の中で、大井川を目の前にして四日間川留めを余儀なくされた芭蕉の、困惑した顔が浮かんでいる。
 しかたがないので、しばらく藤枝駅周辺をぶらついて、時間を費やすしか方法はなかった。喫茶店に入ってコーヒーを飲み、大きなスーパーに行って、本屋がないかと捜した。けれど、あてのない散策である。その間の時の流れが、非常に遅いと感じた。こうして、何とか時間を消費することが出来、昼どきになったので、駅前に戻った。何もしなくても腹はすくのだ。どこか手頃な食堂はないかな、そう思って、あたりをきょろきょろと見回した時だった。朝は止まっていたバスが動き出し、私の脇を通り過ぎて行った。そして次の瞬間、"新静岡行き"の車体横のその文字が私の視界に飛び込んで来た。
 ーそうか、この手があった!
 思わずハッとした私は、すぐ近くにあった観光案内所に入って、係の人に質問した。すると在来線は富士川の増水によって止まったままだが、新幹線は運転を再開したという。まさに渡りに舟であった。バスを使って静岡駅まで行けば、そこから新幹線で東京に戻れるのだ。見つけた食堂でランチを注文しながら、やっと私の胸は安堵の気持ちでいっぱいになった。
「馬方はしらじ時雨の大井川」
 俳聖松尾芭蕉はそう詠んだ。それになぞって、この時の私の気持ちを表現すれば、
「旅人はしらじ豪雨の富士の川」
 となるであろう。これが私の"川留め体験記"の実体である・・・・・・。
 (なおこの文章を書くに当っては、島田市博物館発刊の"島田宿大井川川越遺跡"を参考にした。掲載したイラストも同様である)