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歴史寄稿 松姫と八王子千人同心

                             文 斎藤秀夫

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 寄稿者略歴
 斎藤秀夫(さいとうひでお)
 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子市在住。著書『男たちの夢 ー城郭巡りの旅ー』(文芸社)『男たちの夢ー歴史との語り合いー』(同)『男たちの夢ー北の大地めざしてー』(同)『桔梗の花さく城』(鳥影社)『日本城紀行』(同)『続日本城紀行』(同)『城と歴史を探る旅』(同)『続城と歴史を探る旅』(同)『城門を潜って』(同)


 東京都八王子市台町に、曹洞宗の金竜山信松院がある。この寺は、甲斐(今の山梨県)武田家の旧臣で、そののち、徳川家康の家臣となった、大久保十兵衛長安の尽力によって建てられた尼寺だが、ここに眠るのが武田信玄の娘松姫である…。

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金竜山信松院

 彼女は永禄四年(一五六一)信玄の五女(六女ともいう)として生まれた。母は油川氏で、松姫は新館御料人とも呼ばれていた。永禄十年(一五六八)十一月、七歳(当時は数え)になった時、尾張(今の愛知県)の織田信長の嫡男で、十一歳になる信忠と婚約した。いくらこの時代は、早婚であったとはいえ、七歳といえばまだ幼女であり、この婚約が政治的なかけひきによって、生じたことは明白であった。一説には永禄八年(一五六六)に、信玄の息子勝頼に嫁した信長の養女が、長男信勝を出産してすぐ死去したため、その代りに、信長のほうから婚姻を申し入れたとされるが、『織田家雑録』には、
「勝頼に嫁した信長の養女が死去するのは、元亀二年(一五七一)九月十六日」
 となっているので、この婚姻は、駿河(今の静岡県)侵攻を画策する、信玄のほうから申し込んだと考えたほうが正解であろう。
 いずれにしても、未来の良人との甘い生活に、淡い期待を抱く松姫…。だがこの縁談はまもなく破談となってしまった。というのも、元亀三年(一五七二)十二月二十二日、遠江(今の静岡県)浜松城北方の三方ヶ原台地で、信玄は徳川家康と干戈を交えるが、信長が家康を応援すべく三千の兵を派遣したため、怒った信玄が、信長との断交を一方的に宣言したからである。

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木造松姫座像

 以降、この両者の友好関係は修復されることなく、天正三年(一五七五)五月二十一日の"長篠・設楽原の戦い"を経て、天正十年(一五八二)三月十一日、武田家は信長によって滅ぼされてしまうのだが、その間、はたして松姫がどんな思いで日々を送っていたのかは不明である。どうやら彼女は、信州伊那の高遠城(長野県上伊那郡高遠町)のあるじ仁科五郎盛信(信玄の五男、勝頼のすぐ下の弟で、文武両道に優れた彼は、勝頼の信頼も厚かったといわれている)のもとに身を寄せていたらしい。ところが、三月二日、高遠城が織田軍によって攻略されると、そこを逃れて、勝頼を頼ったのである…。 だがそれも、ほんのつかの間のことであった。翌日、今度は勝頼の籠る新府城(山梨県韮崎市にあって、従来の武田家の居館つつじヶ崎館=現在の武田神社=を捨てて、勝頼が新たに築いたばかりの城)が、織田の大軍に包囲されたからである。己の運命を悟った勝頼は、城に火を懸ける前の三月九日、十五歳年下のこの妹を、家臣数名をつけて、八王子方面に逃がしてやったのである。
 こうして松姫一行は、甲斐の国から命からがら武蔵の国の横山領(現八王子市)へ落ちのびて行くのだが、この時相模(今の神奈川県)と武蔵の国境をなす案下峠(今の和田峠)を越えて、四月十六日、恩方高留(現在の八王子市恩方町)にある金照庵という寺に身をひそめた。松姫が勝頼・信勝父子が山梨県塩山市にある天目山田野で自刃して果てたことを知ったのは、おそらく、この寺であったと想定される。
 ーついに、名門武田家は滅亡した…。
 松姫の胸に去来した思いは、いったい何だったのであろうか。そして、その武田家を滅ぼした信長も、六月二日、京都本能寺でこの地上から消え、めまぐるしく変動した天正十年の暮近く、松姫は山を下って下恩方の里にある曹洞宗心源院に入って、そこで髪をおろした。信松というのが、彼女に授けられた法名で、そこで八年間、日々を送った。

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大久保石見守長安陣屋跡

 そうして天正十八年(一五九〇)の晩秋、心源院から東南一里半(六キロメートル)ほど離れた横山村御所水の里(八王子市台町)へと移り、生まれて始めての自立の道を歩むこととなった。そうはいっても、生活は苦しく、松姫は蚕を飼い、絹糸をつむぎ機を織り、染物に精を出して、日々の糧としたのである。
 それを知って心を痛めたのが、大久保長安であった。天正十八年といえば、天下人豊臣秀吉の命を受けた家康が、関東に入府した年だが、江戸城を本拠とした家康は、甲州街道の要衡の地である八王子の代官頭として、この大久保長安を任命したのである。すぐに現地に赴いた長安は、八王子の小門に陣屋を構え(現在の産千代稲荷神社境内)宿場町の建設に着手するとともに、関東十八代官という制度を作り上げた。これは代官頭である長安の手足となる代官を、各方面に配置して、関東一円の治安維持に当らせたのである。

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甲州九口道筋奉行配置図

 そんなある日、信松尼の噂が、長安の耳にも入った。しかも信松尼とは何を隠そう、あの武田信玄の娘、松姫だというのである。もともと長安の父は、甲斐武田家の猿楽師(武士に仕え能という芸能をした人)であったから、その息子(次男といわれている)である長安から見れば、信玄の娘といえば、雲の上の存在であった。その上、その姫君は、
「心優しく、甲斐の男たちは、松姫と弓矢の誉れとどちらを選ぶかと聞かれたら、誰もがたちどころに、弓矢を折り捨てたであろう」
 と称されたほどの女性であったから、その人が生活に困っていると聞いて、放っておけるものではなかった。思いあまった長安は、新たな主君となっている、家康に相談を持ちかけたのである。すると、信玄を尊敬している家康は、即座にうなずいた。家康の耳にも、松姫のつつましい日常の暮らしぶりが、好感を持って知らされていたのである。
 こうして長安は松姫のために"信松院"創立に尽力することになる。そんな大久保長安であるが、一般的には、あまりよいイメージを持たれていない。だが、実際の長安は、非常に優秀な行政官であり、情けを知る男でもあったのである…。
 八王子千人同心、これを組織したのも大久保長安であった。八王子千人同心の前身は、甲斐にあるとされている。当時の甲斐は武田家の治世下にあり、この武田家の中に、小人頭と呼ばれる役職があった。九人の小人頭が各三十人ずつの小人・中間を預かり(そのため、中間頭とも呼ばれていた)信玄の居館つつじヶ崎館の番役(交代で館の警備に当る)や、境口(山国甲斐は武蔵・信濃・駿河・相模と接しているため、その国境には九つの境口が設けられてあった前ページの甲州九口道筋奉行配置図参照)を監視する役目を荷っていたのである。
 ところが、先に記した如く、その武田家は織田信長によって滅ぼされ、その家臣たちは路頭に迷う状況下に追いこまれてしまった。その彼らに、救いの手を差し伸べたのが、新たに関東の支配者となった、徳川家康であった。江戸時代に書かれた地誌『桑都(八王子の意。その由来は、西行法師の"浅川=多摩川の支流=を渡れば富士の影清く桑の都にあおあらし=青葉の繁るころに発生する、やや強い風=吹く、その歌から来ているといわれている)日記』の天正十八年七月の頃に、
「甲州の小人頭を八王子郷に移し、甲州口の保障となす」
 とあり、また同書には、
「この年六月二十三日、城(八王子城)陥りし後、土地未だ静謐(世の中がおだやかに治まること)ならざるなり。ここにおいて小人頭及び小人をこの地に移し、以て警備をなす」
 とも記されている。

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八王子千人同心屋敷跡記念碑

 小田原に本拠を構える北条氏(鎌倉幕府の執権職であった、北条氏とは別の一族)の支城八王子城が陥落し、創業者北条早雲以来百年にわたって関東に覇を唱えていた北条氏は、豊臣秀吉によって滅ぼされたが、まだその残党は八王子周辺にかなり存在していた。したがって、それらの危険分子の動きを封じ、さらには万一、甲州街道を使って敵が攻め寄せた場合、江戸からの援軍が到着するまでの間(八王子と江戸とは、十里=四十キロメートルほど離れている)小仏峠(武蔵と相模の国境にある。現在もこの下を中央自動車道の小仏トンネルが貫通している)の天嶮に拠って、敵を防ぐ観点からも、かつて武田時代、境口の道筋奉行として活躍した九人の小人頭と、総勢三百人(その数は正確には分かっていない)に及ぶ小人・中間たちの力が、家康にはどうしても必要であったのである。そのことは、文化十三年(一八一六)に書かれた『千人組手控古来之訳記』に、
「天正十九年(一五九一)卯春、本多佐渡守殿(老職本多正信=家康の謀臣といわれた人物=)御取次にて、お頭ならびに同心五百人召し出され候」 
 とあることからも読み取れる。つづいて同書には、
「その後、慶長四年(一五九九)亥春、大久保石見守殿(長安)おおせつけられ、在々所々(あちらこちら)にまかりあり候、諸家窮人(生活に困っている人)五百人召し出し、都合千人に遊ばされ、御軍役おおせつけられ候」
 ともある。つまりこの時点で、八王子千人同心が正式に発足したと考えてよい。そして、『新編武蔵風土記稿』が書く、
「千人町へ入ることわずかにして追分あり、右は久保宿(現八王子市日吉町・追分町の一部)左は即ち甲州街道にして、千人町の通りなり、中ほどより北へ折れ、三町ばかりの横町あり、縦横すべて千人頭及び組に属するもの門戸(家の出入口)をならべて許多(沢山)あり」

 そんな状態に落ち着くのである。今でもその一角には"千人同心屋敷跡"と刻まれた、大きな石碑が建っている。そしてそこからは、松姫が静かに眠る信松院も近いのである。
 やはり、彼らにとって、信玄の娘松姫は、心の支えとなる憧れの女性だったのかも知れない。というのも、松姫が歿して六十六年後の延享五年(一七四八)に、千人頭十人が、信松院にある松姫の墓の回りに、玉垣を寄進しているからである。いずれにしてもいい散策が出来た。

(2015年8月24日17:15配信)