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歴史寄稿 「小仏関(こぼとけぜき)散策」

                          文・写真 斎藤秀夫

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 寄稿者略歴
 斎藤秀夫(さいとうひでお)
 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子市在住。著書『男たちの夢 ー城郭巡りの旅ー』(文芸社)『男たちの夢ー歴史との語り合いー』(同)『男たちの夢ー北の大地めざしてー』(同)『桔梗の花さく城』(鳥影社)『日本城紀行』(同)『続日本城紀行』(同)『城と歴史を探る旅』(同)『続城と歴史を探る旅』(同)『城門を潜って』(同)



 二〇一五年の梅雨の時期、台風九号・十号・十一号が立て続けに発生したこともあって、東京地方は一週間ばかり、青空の見えない日がつづいた。いくら、

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甲州街道駒木野宿の石碑

「あじさいの花を愛でるのも、なかなか趣きがあっていいや…」
 と柄にもなく気取ってみたところで、風流心が、そう長く持続するわけがない。いささか、うっとうしさを感じ出してきた七月のある日、めずらしく、太陽が顔をのぞかせた。
「よし、この梅雨の晴れ間を利用しない手はないな」
 そう考えた私は、朝食を済ませると、カメラとメモ帳を片手に、JR八王子駅へと向かった。目ざすは、高尾駅である。西八王子駅の次なので、すぐに着いた。北口からバスに乗り、"駒木野"というバス停で降りた。すると右手に、"甲州街道駒木野宿"と刻まれた、大きな石碑が建っていた。
 前々から、行ってみたいと、考えていた場所なのである…
 −東京にも関所跡が残っている。
 そこに魅かれたからである。もともとこの関所は、現在の"駒木野"バス停から、甲州街道を西へ一里九町(約五キロメートル)ほど登った、標高五四八メートルの小仏峠のてっぺんにあった。『新編武蔵風土記稿』に、「峠の頂に小像の石地蔵あり、故に名とするならん」
 と記されているこの峠は、武蔵(東京都八王子市裏高尾)と相模(神奈川県津久井郡相模湖町)の国境にあって、交通上の観点から見ても(今でも中央自動車道の小仏トンネルが貫通している)軍事上の目的からいっても(近くに八王子城がある)きわめて重要な場所に位置していた。しかし、いつごろから小仏峠の頂上に、関所が設けられたのかは今のところ不明だが、永禄三年(一五六〇)八月二十九日、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)は、関東管領上杉憲政(憲政は天文二十一年=一五五二=一月十日、小田原の北条氏康=早雲の孫=に攻撃され、景虎を頼って越後に亡命していた)の関東帰城のお供をするという名目で、兵を率いて関東攻略に着手するが、この長尾軍に属した岩付城(埼玉県岩槻市)城主太田資正(あの道灌のひ孫)は、翌年二月武蔵の霊場である小仏谷に、

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通行手形を置く手形石

「関越(関東と越後)諸軍勢濫妨(乱暴)狼藉堅停止(ろうぜきかたくていし)」
 という制札を掲げているので、このころにはすでに、関所が設けられ、鉄砲三十挺と、弓三十張りの同勢(人数)が、警備にあたっていたと、いわれている。
 その後、天正八年(一五八〇)に、八王子城城主北条氏照(三代氏康の次男、四代氏政の弟)が、峠の頂上にあった関所を、駒木野に移したとされている。これは、峠のてっぺんでは人家も遠く、関所を番するには不便であったからだが、さらにつけ加えるとするならば、これより十一年前の永禄十二年(一五六九)九月、小田原城の支城である滝山城(八王子市高月町)が、武田信玄に攻撃され、からくも、落城はまぬがれたものの、『北条氏照軍記』に、
「信玄の家臣小山田信茂は、手勢二百余騎、歩卒都(すべ)て九百余人を引率し、北条氏照の領地八王子へ打て出んと、同十月朔日未明に小仏坂を打越、駒木野に出たり」
 そう認(したた)める如くの、状況下に追いこまれたことが、もう一つの移転の要因であったと考えられる。
 滝山城の弱点を認識した氏照は、やがて小仏峠に近い標高四六一メートルの深沢山(八王子市元八王子町)に新しく八王子城を築くが、それが天正八年のことなので、やはり、関所の移転と新城造営とは無関係ではあるまい。
 十年後の天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原攻めによって、その北条氏もついに滅んだ。そして秀吉の命を受けて、関東に新たに入ったのが、徳川家康であった。とはいえ、八王子周辺には、まだ北条氏の残党がかなりの勢力を保有していたから、江戸西方の治安維持のためにも、甲州街道の要小仏関は無視出来ないものがあった。そこで家康は、かつての武田家の遺臣たち、同心衆二五七名(これがのちの"八王子千人同心"の母体となる)を八王子城下へ移住させ、関所の番役を命じたのである。そのことは、江戸幕府の公式記録『徳川実記』に、
「八王子は武蔵と甲斐(今の山梨県)の境界なれば、もし事あらんときには、彼ら(同心衆)に小仏口を拒しめ給はんとおぼして、かくは命ぜられしなり」
 とあることからも読み解ける。

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当時の小仏関の絵

 そののち、関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)の戦いで勝利を得た家康は、同心衆を老中支配の槍奉行の所属とし、小仏関の番役は、道中奉行の支配下に置き、川村帯刀を関守に任命、地元の百姓たちとともに、勤番するようになった。さらに、小仏関は元和二年(一六一六)に、現在の地点に移動された。元和九年(一六二三)以降は、関守も四名に増加され、寛永八年(一六三一)四月からは、それまで無給であった四家に対し、それぞれ二十俵二人扶持(扶持とは下級家臣へ渡す米のことで、一人一日玄米五合と計算して、月一斗五升、一年で一石八斗となり、これを一人扶持と称した。二人扶持なら二十俵のほかに三石六斗の米が支給された)の待遇となった。
「関所の通過は、明け六ツ(午前六時)から暮六ツ(午後六時)までとし、しかも、手形を必要とした。鉄砲手形は老中が、町人手形は名主(関西では庄屋と呼ぶ)が発刊、この手形を番所にすえられた手形石(二枚目の写真奥に見える丸石)にならべ、もう一つの手付石(同写真の手前に見える平石。膝つき石ともいう)に手を付いて通行の許可がおりるのを待った」
 と、小仏関跡に設置されてある解説板にはあった。さらに、そこから十メートルほど先に設置されてあるもう一つの解説板には、
「小仏関は四方を柵など囲われ、東西に門が置かれていた。北に山、南に川という地にあり、当時ここを通過していた人々を、厳重にチェックした」
 そう書かれてあった。三枚目の写真は、その解説板の一部をカメラに納めたものである。また、関所の設計図には、
「関所の前を流れる小川には、横二間、長さ四間の欄干付板橋を架け、渡ると二十五間へだてて東の門となり、西門とその中間右手石垣を前にして、七間半の南向きの番所があった。東の門の傍らには関所条目の高札が建ち、庭には捕物道具や天水桶(防火用として、雨水をためておく桶)を置いた」
 との記述もあった。

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小仏関からの眺望

 取締の中でも、特に厳しかったのが、"入鉄砲に出女"であった。なぜなら、簡単に鉄砲が江戸に流入したり、各大名が人質として江戸に居住させている藩主の妻女が国元へ逃げ帰ったりすれば、幕府への謀反を起こしかねない。その危険性を避けるための処置であった。
 また、手形を所持しないで関所を通過したり、関所を通らずに抜け道をしたりする、いわゆる"関所破り"をする無法者に対しては磔の刑が執行された。『小仏御関所川村家』の記録によると、
「番所より東へ下った小名路の淵付近で六回行われた」
 という。
 今一度私は、最初に撮影した石碑の前にたたずんでいる。この"駒木野宿"は、日本橋を起点とする甲州街道の十二番目の宿場町で、十一番目横山(八王子)宿から、一里二十七町(約五キロメートル)ほど行った場所にあった。沿道には、百三十軒ほどの民家と、本陣一、脇本陣一、旅籠十二軒があったといわれ、また、峠の頂には"相州屋"とか"柏屋""武蔵屋"などの茶店があって、繁盛したとも伝わっている。
 しかし、明治二十一年(一ハハハ)五月に大垂水峠(山梨県東山梨郡牧丘町)越えの国道が開通すると、小仏峠の重要性は失われ、この宿も閉散とした町になってしまった。
 ーだが、間違いなく、この地には歴史が埋もれている。
 そんな思いで顔を上げると、関所跡からは山が望めた。あれが、小仏峠なのであろうか。

(2015年9月8日16:45配信)