hptitle01

〖歴史研究編〗 片倉小十郎に迫る(1/4)

                      米沢鷹山大学市民教授 竹田昭弘

 takedaa 寄稿者略歴 竹田昭弘(たけだあきひろ)
  昭和20年、東京生まれ、米沢市育ち。明治大学政経学部卒業。NEC山 形を経てミユキ精機(株)入社。経営企画室長を歴任。平成19年退社。 米沢市在住。

 
 川西町には「片倉」と言う姓の家が多い。戦国の雄、片倉氏と関係があるのだろうか。地域的な「姓」と言うものがあり、意外と昔との繋がりがあるものである。戦国時代の武門の「姓」は、土地名に根ざしたものが圧倒的に多い。伊達氏しかり、上杉氏等しかりである。その土地の名前を一門の「姓」として、地域支配をより確実なものにしていたし、その土地にある神社・仏閣などとの関係を密にして領民の支配を強めてゆくことなどは当時の定石なのである。片倉氏も例外でなく、そのパターンなのであろう。
 その起源を信州に求めれば「片倉」と言う地名があった筈である。その土地に因んで「片倉」と名乗った可能性が高い。そのルーツに迫りながら、小十郎景綱への収斂を辿ってみたい。戦国の英雄、伊達政宗は彼自身の才幹によるものであるが、多分に右腕片倉小十郎の支えによるものが大であることは万人が認めていることである。右腕は参謀として、あるいは軍師として、あるいは時には師として常に傍らにあって主君を支え続けた。その形は東北では、伊達政宗と片倉小十郎、上杉景勝と直江兼続、津軽為信と沼田祐光、最上義光と氏家守棟、南部信直と北信愛等、いずれもその濃密な関係を構築して家を盛りたてたことで共通している。

 戦国時代の武門は、「個人の命より名誉を重んじた。個人の名誉よりお家を大事と考えた。そしてお家よりも土地(所領)を第一と考えた」、のである。こうして「一所懸命」なる言葉の源は生まれた。だがいくら優れた者でも仕えた主君に、その進言を受け容れる器量がなければ、力を発揮することはできない。温言ばかりでなく苦言をも飲み込む器量がなければ関係は壊れるのである。即ち仕える上司に人間力が無ければ、たとい優秀な右腕と言えども木石に等しい存在となってしまうのが常であった。
 戦国期に於いて艱難労苦を味わい、事を成した武将はこのことをよくわきまえていた。だがその後継者となると苦言に拒絶反応を強くして、家を滅ぼすことになる例は多くあった。その意味で政宗と小十郎の関係は、時には主従関係に、時には上下関係に、又師弟関係にと、多様な変容を見せながら互いに切磋琢磨していった。
 戦国の英雄、伊達政宗が米沢に生を受け、その腹心片倉小十郎景綱も又、置賜に生まれたことは米沢人にとりこの上ない誇りである。「政宗四天王」の他の一人茂庭綱元も米沢に生まれた。鈴木元信も置賜の里で生まれていると言う。では片倉小十郎とはいかなる人間であったのか、迫ってみたい。

片倉氏とは
 片倉氏の起源は二通りある。一つは鎌倉幕府創設に功をあげた加藤判官景廉を祖とする説、もう一つは祖を金刺舎人後裔の諏訪大祝である繁名に求める説である。
 最初の説に立てば、加藤景廉の子孫が信州片倉村に住して片倉氏を称した。建武年間、奥州探題職に任ぜられ斯波氏に従い奥州に入り、天文年間に片倉景時の時代、15代伊達晴宗に仕え世臣(せいしん)となったという。又、後者の説に立てば、金刺為重の時、片倉郷に住したと言う。そして金刺景春が斯波家兼に属したとしている。何れにしても片倉氏が信州に発祥したことは間違いなさそうであるし、足利一門の斯波氏と関わる過程が同じであることが注目される。他には信州佐久に片倉村があり、ここが発祥だとする説もある。
 それは片倉氏の祖先は鎌倉武士の加藤景廉で、その末裔が信州片倉村に住み、片倉氏を称し、諏訪大社の神官になっている。その後、片倉氏は1354年頃、奥州管領斯波家兼に従い、奥州に移り住んだというもの。その片倉村は佐久市片倉であると言う。何れも共通しているのが信州であるから、信州の出であることには違いないのではないか。
 その信州と言えば諏訪大社を抜きにして語れない。信州の民の心源は諏訪大社にあると言って過言ではない。川西町小松に諏訪神社があり、信州との結びつきを物語っている。その過程で片倉氏が何等かの関係をしていたのではないだろうか。当然、片倉氏は諏訪神社と結びついたと見た方が自然である。諏訪氏流として片倉氏の名前もある。
 だが片倉氏が仕えた伊達氏は代々八幡宮信仰を本願としている。多分に9代伊達政宗の妻が京男山にある石清水八幡宮検校の善法寺通清の娘であることに由来していると思われる。この妻の姉は足利義詮の側室となり、足利将軍3代義満を生んでいる。この事で伊達氏は足利幕府将軍家との関係を濃くして、その力を背景に奥州で勢力を拡大増強する要因となった。
 伊達政宗は米沢の成島八幡を崇敬していた。岩出山移封と共に梁川の亀岡八幡をも成島八幡と合祀し、後に仙台城下に大崎八幡を建立、氏神とした。だが臣下となった片倉氏は出身地の神、諏訪神社を氏神として、その繁栄を託したかもしれない。主君筋の八幡信仰とは相容れないものがあったのではないか。
 又、片倉氏には愛宕信仰も深くしている。愛宕信仰は京都の愛宕山山頂に鎮座する愛宕神社から発祥した、火防の神に対する神道の信仰である。愛宕の神は勝軍地蔵を本地仏としている。明智光秀が京の愛宕山に登り、愛宕神社に参詣して信長に対する謀反の決意を固めたところで有名だが、当時、武門にあっては戦の戦勝を祈願して愛宕神社や愛染明王に帰依している。片倉氏が家の繁栄・一族の繁栄を諏訪大社に託し、戦いを愛宕神社に託したとしても不思議ではない。小十郎景綱の子重長の冑の前立には、愛宕権現札がついているのが何よりの証左である。上杉謙信は春日大社を氏神に、そして飯綱権現に戦勝を祈願したと言うように当時の風潮であった。

 伊達氏と結び付き
 それではどうして伊達氏との結びつきができたのだろうか。斯波氏と言うのがキーポイントになっているが、片倉氏は斯波氏とともに奥州へ移り住んだと伝えられている。伊達氏譜代の家柄ではないようである。現代流で言えば伊達氏に「途中入社した家柄」と言えようか。では斯波氏との接点はどうなのかと言うことになる。
 信州にある片倉氏が信州を出でて奥州に来たということなのか。世は建武親政の時代、斯波氏は足利一門にて、足利泰氏の庶子家氏が斯波氏を興した。と言うより鎌倉時代に陸奥国斯波郡を所領とし、宗家から分かれたのに始まる。奥州は斯波氏にとり本貫である。奥州斯波氏は高経の弟家兼が奥羽探題として奥羽に入部し、大崎氏、最上氏等を興したが、一方で高経の子家長が奥州総大将として任じられ、今の岩手県中部に配された。いつ、どこで斯波氏と片倉氏が邂逅したのだろうか、となると考えられるのは信州であるが、この斯波氏の奥州下向の際に片倉氏は同道したと言うことか。例えば伊達氏が奥州に下向した際、常陸国から同道したのが支倉氏であるが、当初、伊藤氏を名乗るが支倉郷に入部して姓を支倉と改姓した。
 前述の如く斯波家長は足利尊氏により奥州に派遣されたが、それは当時、力を増していた南朝方が北畠顕家を陸奥守として多賀城に派遣した。この勢力を北から抑える為に斯波家長が高水寺城に配されたのである。信達地方では伊達氏が勃興し、その勢いは出羽にまでおよばんとしていた。時は天文年間で稙宗と晴宗の父子の争い、「天文の乱」が起きていた。この時、両陣営ともに勢力増強に力を入れた。伊達氏は父子の争いが多発した。それは「成宗と尚宗の争い・尚宗と稙宗の争い・稙宗と晴宗の争い」等である。
 この「天文の乱」に乗じて、斯波氏に属していた片倉氏が伊達氏に鞍替えし、取り入ったと考えるのが妥当ではないだろうか。平時に“取り入ること”は容易でなく、現実的ではない。タイミング良く伊達晴宗陣営に加担することができ、何らかの形で伊達家臣に組み入れられたと見るのが妥当であろう。如何せん、この伊達氏についた経緯が不明である。推察しかないのが現状である。

 弘治2年(1553)の「晴宗公采地下賜録」によれば、片倉氏は式部が小松の内一軒(在家)を賜っているが、式部とは景重であり小十郎景綱の父である。景重の父の景時は既に晴宗に仕えていて小松郷を与えられていたようである。川西町史によれば、「景時の父景広が天文初年(1532)、奥州探題大崎教兼の時に、大崎氏を去って伊達氏についている」と記している。
 当時は伊達氏当主が14代稙宗の時で、稙宗は永正11年(1514)に父尚宗の死去と同時に家督を相続し、天文元年(1532)にそれまでの梁川城から桑折の西山城に本拠を移した頃である。と言うことは片倉氏は伊達稙宗に仕えたと言うことになる。何らかのきっかけがなければ伊達家臣には取り立てらることはないと思われ、幸いにも「天文の乱」と言う父子の争いが片倉氏の中興の契機となったのではないか。「天文の乱」は、子の晴宗側の勝利に終わった。だが片倉氏は稙宗方から晴宗方についた理由は定かでない。

                  1234