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松川に架かる橋(大橋)がかつてあった場所
福田町から吾妻町の方へ昔は“外道坂”と言った
東町と東寺町との交差点 昔は枡形になっていた
制札場「札の辻」案内(米沢市門東町2丁目)
大町制札場跡(米沢市)

歴史探訪【板谷街道編】寄稿 竹田昭弘氏

米沢藩の生命線「板谷街道」を想う(1/4)


takeda 寄稿者略歴
 竹田昭弘(たけだあきひろ)
 昭和20年米沢市生まれ。明治大学政経学部卒業。NEC山形を経てミユ
 キ精機(株)入社。経営企画室長を歴任。平成19年退社。米沢市在住。

1 はじめに
 地元米沢の先人田中憲夫氏が今から30年程前に板谷街道をつぶさに検証し、それを小冊子「板谷街道今昔」にまとめられ後世に残している。これは板谷街道のバイブルになるのではないだろうかと思った。この本を基軸に自分なりに実際に歩いてみた板谷街道を探ってみたい。
itaya1 板谷街道は現在でも粗方は現存し当時の面影を彷彿とさせてくれる。街道は無くなった箇所もあるが、大体において昔のままに現存する。街中や郊外は住宅地になり道が破壊され見当たらないところもある。だが山道や峠には当時のままの道が残っていて、宿場の様子も窺い知ることができる。
 しかし肝心の米沢と福島信夫との国境の部分、産ヶ沢の辺りが不明瞭になっている。ここにはかつて上杉領最前線の関所があった。産ヶ沢は山中の広い河原で、当時この川が国境となっていた。そこまでは行くことが出来る、だが福島側になると地図で追ってもそれらしい道が見当たらない。そこだけ欠落している。板谷から福島側の李平(すもだいら)集落へ抜ける道が分からないのである。ここが開かれれば板谷街道は息を吹き返し、昔の姿を再現してくれるであろうと思うのだが、道は人が通らないと消えて無くなるもの、完全に消滅する前に道筋を探り当てたいものだ。
 奥羽線で電車に乗ると板谷と赤岩の間に、車窓の外に産ヶ沢と思われる辺りが見えてくる。険しい山々の中に広い河原が広がっている。この辺りかなと想いを重ねてみたりする。米沢藩上杉氏は参勤交代で幾度となくこの街道を行き来した。上杉家家臣団や商人達、多くの旅人達など様々な人々がこの街道を行き来した。文字通り生活道であった。
 古くは伊達政宗が軍勢を率いて仙道制覇を目指して駆け抜け、戦雲を巻き起こした。板谷街道は伊達氏の軍道から上杉氏の生活道へと変貌していった。米沢藩第6代藩主上杉宗憲が、享保16年(1731)3月の参勤交代で江戸に上った時の『道中附』と言う記録がある。参勤に随行した祐筆の作によるものだが、板谷街道・奥羽街道を経て江戸日本橋に至る記録で綿密に記されてある。これは現在も板谷街道を辿る貴重な街道記録として生きている。先述の田中氏の街道描写も、この『道中附』に沿って描かれているのかもしれない。

2 米沢に入る5つの街道
 盆地米沢は四囲を2千米級の山波に囲まれている。南に吾妻、西に飯豊、東に蔵王、北に朝日が何れもが連峰をなして一分の山隙もない。峠越えをしなければ外へは抜け出せない、又入ることもできない、まさに米沢は天険の要害の地であった。それ故米沢には領内外との交流に要する街道が大きく分けて5道があった。
 先ず綱木峠越えの会津街道、板谷峠越えの板谷街道、豪士峠越えの茂庭街道 諏訪峠越えの越後街道、中山越えの最上街道(山形街道)であった。敢えて附け加えれば高畠から二井宿越えの仙台街道があった。
 この中で伊達氏・上杉氏の時代に関東へ抜ける道として、会津街道と板谷街道は特別な街道であった。何と言っても会津街道が盆地米沢から関東を臨む主要道であった。どれほど歴史上、数多くの先人達が会津桧原と米沢綱木を往来したであろうか。過去には伊達氏と芦名方穴沢氏との確執から戦いが幾度も行われた。だが上杉氏の米沢移封により3万余の家臣達が会津街道を越えて入部した。当時はまさに米沢から関東へ繋がる、現代で言えば一級国道であった。
itaya2 然し幕藩体制下に参勤交代制度が義務化されると、福島へ抜けて仙道を上江する板谷街道にその主役を奪われてゆく。伊達氏がこの板谷越え街道を開削したと言われる。
 伊達政宗は福島の支城大森城を仙道進攻の拠点として重視し、米沢城と連絡する軍事街道として板谷街道に早くから目をつけていた。後に上杉氏は参勤交代にこの板谷街道を利用する様になった。会津街道に代わる重要街道に位置付けし、街道の整備に注力したのである。会津街道は主要なその役割を終えようとしていた。だが幕末になり戊辰戦役を機に重要人物が往来し再び脚光を浴びることになった。板谷街道は軍勢や人の移動から商売・物流・情報がこの道を駆け巡る様になった。若き上杉鷹山も江戸からこの道を通り米沢に入部した。それ以前、あの前田慶次郎も遠く京伏見からこの道を通り米沢に入っていた。
 米沢藩はもう一つ参勤交代の道を持っていた、茂庭街道である。この街道は豪士峠越えの街道で、川井から馬頭へ、上和田に至り本宮へ向かい、そこから豪士山を越えて摺上川上流の伊達茂庭へ入ると言うものであった。板谷街道の脇街道であった。街道を知ることはその国を知ることである。 街道は単なる途次ではなく、街道が賑わうことなくして国が栄えることはない。伊達氏時代・上杉時代を通して、米沢の城下町形成に大きな役割を担った板谷街道を辿ってみたい。

3 伊達時代
 天授6年(1380)7月、陸奥国伊達郡梁川城に拠点を持つ伊達氏8代当主伊達宗遠は出羽国置賜郡長井庄に侵攻した。桑折から小坂峠を越え七ヶ宿街道を通り二井宿峠を越えて長井庄に侵入すると、先ず高畠に橋頭堡を置き長井氏の居城米沢城を窺った。嫡男儀山政宗と共に長井氏を一気に滅ぼし長井庄を手中にした。奥羽山脈を跨ぎ、伊達氏の伊達郡と置賜郡にまたがる領地支配が始まった。何故、伊達氏は出羽に侵攻したのだろうか。
itaya3 察するに一つには、伊達や信夫地域は阿武隈川の氾濫が恒例の如くあり、その度に田畑が流出されていた。二つ目にはその為に農産物の生産が低く、出羽置賜郡は水も豊富で米の生産性が高かったこと。三番目は位置関係から長井庄は日本海に近く、越後に出ると海を利用し京や上方との行き来ができること等の理由があったのではないだろうか。だがこの伊達氏の統治のお陰で、陸奥と出羽を結ぶた為の街道として板谷街道が開発されたのであろう。天正年間に入ってからだと言われる。伊達氏が本拠を米沢に移したのは天文17年(1548)で15代当主晴宗の時であった。それまでは桑折の西山城を本拠にしていた。伊達氏は初代朝宗の時に常陸国伊佐庄から伊達郡に転入した。高子城を基点にその後は梁川城へと移り、更に地の利を考えて桑折西山城に本拠を移した。
 そもそも板谷街道の開発の目的は、米沢の本城と陸奥側の支城を結ぶ為の軍事街道の整備であった。17代政宗は会津の芦名氏を攻めたり、二本松の畠山氏を攻めるには、戦線の諸城と密な連絡を必要とした。政宗は天正13年(1585)には仙道にて「人取橋合戦」、翌年には「二本松城攻め」、更に「郡山合戦」、そして天正17年(1589)に、最大の激戦「摺上原合戦」と幾度となく戦歴を数え、その度にこの板谷街道を利用した。この時には米沢城から万世梓山、前ヶ沢、水窪、赤浜、板谷と通り庭坂に出ていた。梓山と前ヶ沢の間の峠は関那戸と呼ばれていた。
 庭坂からは大森に出て八丁目に至る、これが最初の板谷街道の全貌であった。大森には伊達氏の支城大森城があった。八丁目は現在の松川町にあり、八丁目城と宿場もあり奥州街道の要衝であった。伊達氏はかなり頻繁に利用した様である。

4【伊達余話】
 伊達氏研究では有名な故小林清治氏によれば、天文年間頃の広義の長井地方は上長井庄・下長井庄南・下長井庄北・屋代庄の四地域に分けられていた。屋代と長井は羽黒川と松川を境界として東西に分かれていた。米沢市東部・高畠町・南陽市域は屋代庄分であった。下長井と上長井を境するのは小松・吉田・洲島を結ぶおよその東西線を含めて、その以北が下長井、その以南が上長井であった。広義の長井地方の中枢は米沢盆地である。
itaya4 この米沢盆地に於ける主要な城館と町は米沢・小松・高畠であった。三者は南・西・東に位置して、一辺約3里のほぼ逆三角形を構成した。高畠は南北期に伊達宗遠・儀山政宗が長井郡に進出した時の拠点であった。そして高畠と小松を結ぶ東西線のほぼ中間に位置する洲島は、鬼面川と松川が合流し洲の島を形成していた。水上交通の要衝であり、陸上交通でも長井中央を横断する東西線の真中に位置し、水陸交通の要を成していた。伊達氏にとり信夫・伊達域では杉目(福島)・梁川が、長井域においては米沢・高畠・小松・洲島が重要性を持っていたと言う。
 現在も洲島には洲島城の遺構が残り、伊達氏以前より古く平安末期に拓かれていた様である。この川西側洲島と高畠側夏刈は、風景が良くて万葉の頃に歌にも詠われていて、藤原為家や西行法師も詠んでいる。現在洲島城の一角には八幡神社・長福寺があり、その屋敷の裏西側に土塁が残っている。
 神伝によれば嘉応2年(1170)には津島村とある。保元の乱や平治の乱の後であるから平家が勃興した時代になる。かなり古い郷であったことが見てとれる。絵図によればこの神社と寺の一角を西辺の小曲輪として、東へ洲島城の城郭がほぼ正方形に大きく形成されていた。周辺は土塁で囲まれていて、城内には更に本曲輪と言うべき小曲輪がやはり土塁で囲まれている。
 今では城内に道があるも住宅が建ち昔の面影は無い。その東辺は最上川(鬼面川と松川が合流して)に接している。天正の頃には東側の城郭に最上川が変流していた。当時この位の規模の城郭が造られていたと言うことは、やはり洲島が要衝の地であったことを示している。洲の島は伊達稙宗方の有力者であった富塚仲綱の所領であったが、晴宗方の功臣湯目氏に与えられた。湯目氏は元来、洲島の東約2・5キロの筑茂城、屋代庄大橋あたりを本拠とし、天文の乱中に晴宗方として軍忠を励んだ。
 伊達晴宗が拠点を米沢にした頃の支配構造は、米沢が伊達晴宗・高畠が小梁川氏・小松が譜代牧野氏・洲島が湯目氏らが中核を担っていた。天文の乱以前の洲島は富塚氏が抑えていた。この様に湯目氏は赤湯大橋にも領地を持ち大きな勢力を持っていた様だ。 大塚城の大塚氏等も併せてかなり古い時代からこの辺りを支配した豪族であったが、伊達氏が米沢に進攻した段階で臣下に組み込まれていく。こうして伊達氏の米沢侵攻は当初の目的を果たしていくのである。

5【上杉時代】
 伊達政宗は芦名氏を滅ぼすと天正18年(1590)会津黒川城に入城した。この時点で岩城の北部と西部、陸奥の南部、出羽の一部を領国支配する大国の主となった。だがそれが頂点であった。天正19年(1591)には秀吉の小田原参陣命令に遅滞したと言う事と同時に、政宗が芦名氏を討った事は秀吉の惣無事令に違反したものであるとの理由で、秀吉により本拠地米沢を取り上げられ、新たに陸奥岩出山に58万石として移封された。苦労して得た領土が凡そ半減したのである。政宗の無念の程が分かると言うものである。
itaya5 だが天下人秀吉に抗戦するだけの器量はなく、唯々諾々として従うしか手立てはなかった。その後、米沢は蒲生氏郷の重臣蒲生郷安の支配下にあり、その7年後の慶長3年(1598)正月には上杉氏が越後春日山城から会津120万石にて移封された。その折上杉景勝により米沢30万石は直江兼続に与えられた。米沢は北の最上氏・東の伊達氏を牽制する戦略上の要地であった。それだけに上杉家きっての智将直江にかける景勝の覚悟の程が見てとれる。しかし上杉氏の会津支配は長くは続かなかった。慶長5年(1600)の「関ヶ原の合戦」に西軍に加担した上杉氏は、東軍の将徳川家康により罰として会津120万石を失った。
 戦の代償は大きかった。そして米沢30万石に激減されたのである。この「関ヶ原の合戦」の際に米沢と福島を結ぶ板谷街道と、米沢と桧原・会津を結ぶ会津街道も改修されたのであろう。万世梓山から水窪を経て板谷に抜ける赤浜道が最初の板谷街道の道程であるが、板谷峠越えの市野々から大沢そして板谷へ至る道程も、以前から間道として既にあった様である。その頃上杉氏の家臣であったのが安倍薩摩だが、藩命により板谷街道を改修したと言う。又、薩摩は信夫郡の各地も開拓している。慶長18年(1613)には李平(すもだいら)宿を開設し旅人の便宜を図った。この安倍薩摩は武士を棄て帰農すると李平に住んで代々問屋の職にあった。それと承応年間には、陸奥側の庭坂から大森街道が参勤交代に使用されなくなる。

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