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本当にあったちょっと怖いお話です(その3)

                              寄稿者  成澤礼夫


「弟Tの霊が兄に教えた真夏の出来事」

◆戦前に渡満した母
 私の兄弟は全部で5人いました。「いました」というふうに書いたのは、すでに私の上の兄2人が亡くなってしまっているからです。私の上の兄4人は、戦前に満州国(現在の中華人民共和国東北部)鞍山(あんざん)市の生まれで、私だけが戦後の日本生まれです。母は昭和13年、結婚と同時に満州に渡り、鞍山市に住みました。
 そこには満鉄と言われた南満州鉄道株式会社の子会社で、昭和製鋼所という大きな製鉄会社があり、母の夫はその製鉄所の警備隊で中隊長クラス(正式な肩書きは不明)で勤務していました。母の夫は、昭和6年9月18日に起きた満州事変に参戦した経歴があるほか、作戦中の偵察行動で金鵄(きんし)勲章をもらうなど命知らずの輝かしい軍歴があってか、警備隊に職を求めたのでした。
 昭和20年8月15日の日本の敗戦を機に、中国にいた日本人は敗戦国民として、昨日までとは180度全く違う立場となり、異国で帰国までの間、悲惨な生活と苦しい引揚を経験することになりました。日本に対して、協力して戦ってきた毛沢東率いる共産党の八路(はちろ)軍と蒋介石率いる国民党軍の間で、日本の敗戦を機に再び内戦が始まり、鞍山市周辺でも昭和21年に入ると、両軍の間で山と山に向かって 、大砲を打ち合うような戦いが始まりました。

◆失踪した夫、そして引揚
 昭和21年3月上旬、母が8年連れ添った夫は、朝、社宅を出て行ったきり戻りませんでした。失踪してしまったのです。この頃の鞍山市の状況を調べると、昭和製鋼所警備隊の上司は、奥さんともども処刑されています。母によれば、夫も八路軍によって戦犯として処刑されたか、両軍のどちらかに参戦して戦死したかと、その失踪の理由を考えています。鞍山市付近で、八路軍が国民党軍との戦いで一時劣勢に立った時に、日本人の失踪にかかわったことが書かれてあったからです。また、血気盛んな日本人が両軍の戦いに加わったことが記されていました。どのような経緯で失踪したのかは依然不明です。
 母とその子供たち3人(1人は乳児で既に死亡)は、敗戦から引揚までのおよそ10か月もの間、会社に預けていた預金がすべて引き出し不能となったため、手元にあった着物を売りながら食べ物を買って帰国の日を待ちました。母は3人の子供を抱えて必死になって生きたのでした。中国人は、日本人の子供を見ると、「育ててあげるから自分たちに下さい」と言いましたが、母は全員を日本に連れて帰ると、そうしませんでした。もし、そうしていたら兄たちは「日本人孤児」となっていたわけです。
 昭和21年6月、蒋介石軍が鞍山一帯を勢力下に押さえました。蒋介石は日本人に対して、引揚を認めてまち単位での引揚が始まりました。母は1個の遺骨箱を胸に、背中には赤ん坊、両手に2人の子供を引き連れ、引揚者の集合場所であったコロ島を目指しました。LSTという米軍の船が引揚船でした。そして7月30日に無事に舞鶴港に着き、生きて祖国へ帰りました。母や3人の子供たちにとっては、ほかの引揚者同様に、それからが苦難の人生の始まりでした。

◆ひたすら夫を帰国を待った母
 母は子供を連れて、夫の実家のあった山形県庄内地方の藤島渡前(現在の鶴岡市藤島町渡前)に帰りました。その家は農家でしたが、子沢山でした。母はそこで1年間、農家の仕事を手伝いながら、夫の帰国をひたすら待ちましたが、結局は戻って来ませんでした。夫が消息を断ったときに、夫を見かけた人がいると聞いては訪ねて歩いたそうですが、失踪の状況は依然として不明なままでした。
 戦後の貧しさの中で、子供が3人もいては暮らしていけないということで、長男を夫の実家に、次男を手元で育てることにして、四男のTは、鶴岡市内で大工を営む子供のいない夫婦の養子に出すことになりました。昭和24年3月、戦時に失踪した人は3年で死亡と見なす戦時特別立法措置により、母は夫の籍から離れることになりました。私は母の再婚後の子供です。
 養子に出されたTは、まだ満2歳の乳飲み子でした。母が小学生の頃にそのTに会いに行くと、自分の母親とも知らず、「おばちゃん、おばちゃん」と呼んでいたそうです。養子先は大工の家でしたので、跡継ぎができたと大変に喜び、養父母の期待も大きく育っていきました。カラーテレビが出始めた頃に、養父母はTに買ってあげたというほど、大変なかわいがりようだったそうです。

◆海水浴に来て溺死したT
 Tが中学3年の夏のことです。それはとても暑い日が続く真夏の盛りの8月4日でした。Tが海に遊びに行きたいというので、養父が湯野浜海水浴場に連れて行ったのです。聞くところによれば、Tはろくろく準備運動もしないで、海に飛び込んだそうです。そして運悪く、心臓マヒを起こして溺死してしまったのでした。母が満州から命がけで連れて帰ったTは、あっけない15年の人生を閉じました。養父母の嘆きは大きかったと聞きます。

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 母の元で暮らしていた次兄は、その日、高校のクラブの合宿があって、別の海水浴場で宿泊をしていました。皆と夕食を終えて床に就く前に一人で便所に行きました。用を足しながらふと外を見ると、窓越しに外に何かしら白いものがふわふわと宙を浮いているのが見えました。とても驚いた次兄は、おしっこも途中で部屋に逃げるように戻りました。次兄が帰宅して母にその事を知らせると、逆に母からTが海で亡くなったことを知らされたのでした。母や次兄は、あの白いふわふわしたものはTの霊がお別れの挨拶にきたのだと理解したそうです。
 母は私に「8月4日はTに呼ばれるから海に入ってはいけない」というのが口癖でした。私は今もその言いつけを守っています。
 満州からやっとの思いで帰国した母や兄たちのことを思うと、海で亡くなったTが家族に対してどれほど強い思いを感じていたか、この霊が示しているように思います。
(平成16年6月6日「米沢日報紙」掲載のものに加筆修正)

(2016年5月22日12:35配信)