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歴史寄稿 高幡城と日野宿


saitohideonew  寄稿者略歴
 斎藤秀夫(さいとうひでお)
 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都在住。著書『男たちの 夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)『男たちの夢—歴史との語り合い —』(同)『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)『桔梗の花さ く城』(鳥影社)『日本城紀行』(同)『続日本城紀行』(同)『城と歴史を探る旅』(同)『続城と歴史を探る旅』(同)『城門を潜って』(同)


 東京都八王子市の隣りは日野市だが、そこに、千葉県の成田山新勝寺・神奈川県の雨降山大山寺と並ぶ関東の三大不動の一つである高幡山金剛寺(高幡不動)がある。そこで秋のよく晴れた日、ぶらりと行って見ることにした。そうはいっても私のことだから、別に不動明王(この本尊は足利時代は"汗かき不動"と呼ばれ、広く戦国武将の尊崇を集めていた)を拝みに訪れたわけではない。金剛寺の裏山が、中世の城址であることを城関連の本を眺めていて、認識したからである…。
 国の重要文化財に指定されている仁王門を潜ると、左脇に総高45メートルある五重塔がデーンと控えていた。平安時代初期の様式で建てられた美しい塔である。その右手には納札堂があり、そこで城址の所在場所を聞くと、五重塔の左側にある、八十八ケ所入口から山道を登って行くと、その一番高いところの不動ケ丘、すなわち、そこが城址だと教えてくれた。ただし…、とその人はいった。遺構はおろか、城址を示す標識すらない。つまり、何もないということだった。
それでも『新編武蔵風土記稿』に、
「根小屋(ねごや=山上に城のある城下町=)金剛寺の山根の通りなり」 
と書かれ、東京地図出版発刊の『城巡礼・東京48ヵ所めぐり』にも、
「戦国時代、北条氏照(うじてる=小田原城主北条氏康の三男、四代目氏政の弟で八王子城城主でもある)の家臣高幡十右衛門が居城としていた」
 ともあるので、金剛寺の裏山が、城址であることは間違いはなく、私はさっそく散策を開始した。
 山道のところどころには、弘法大師像が祀られていて、そのそばには、番号を記した表札が建てられてあった。天気がよいので、参拝に見える人々の数もかなり多い。やがて、二十七番と書かれた表札と、弘法大師像のある地点までやって来ると、道が三方に分かれていたが、私は長年の経験から、中央の一番険しい山道を進めば、最短距離で高幡城の本郭にたどりつけることを確信した。そこで急坂を、一気に駆け上がった。と、思った通り、広い空間に出逢った。今は雑木林によって、視界はさえぎられているが、下をのぞくと、鋭い崖になっていることが読み取れた。新人物往来社発刊の『日本城郭大系、埼玉・東京編』を調べると、
「主郭の長径は約35メートル。全郭の長さは170メートルになる。主郭から北に向かって二つある裾郭は3〜5メートルと低くなるが、もっとも低い最北の郭からも、前面の浅川はもちろん、遠く北方の多摩川を完全に見下せるほどの高さと遠望が得られる」
 とあった。やはり、いい場所に高幡城は築かれていたことになる…。
 享徳(きょうとく)三年(1454)十二月二十七日、関東公方(かんとうくぼう=鎌倉府の長官として関東を支配したことから、鎌倉公方とも呼ぶ=)足利成氏(しげうじ)が、関東管領(かんとうかんれい=室町幕府が、関東の政務を総管させるために鎌倉に設置。関東公方が任命した)上杉憲忠(のりただ)を誅殺する事件が起きた。世にいう"享徳の乱"がこれである。これによって成氏と上杉との対立は深刻化し、康正(こうしょう)元年(1455)正月五日、その上杉氏を征伐すべく軍を発した成氏は次の日、相模国(さがみのくに)島河原(現在の神奈川県平塚市)で扇谷(おおぎがやつ)上杉氏(当時上杉氏は、山内・扇谷などいくつかにわかれていた。ちなみにあの太田道灌は、この扇谷上杉家の家宰=家老=である)の持朝(もちとも)らと干戈を交えた。だがこの時は決着がつかず同月の二十一日から二十二日にかけて、成氏方一千騎、上杉方二千余騎が分倍河原(ぶばいがわら=東京都府中市、今もJR南武線の駅名にある)・立川河原(同立川市)で再び戦った。数の上では上杉方が優勢であったが顕房(あきふさ=持朝の子=)と犬懸(いぬがけ)上杉家の憲顕(のりあき、憲秋とも書き、禅秀=ぜんしゅう=の子)が負傷して、憲顕は金剛寺に入って自刃して果てたと伝わっている(武蔵国池上=東京都大田区=で果てたとの説もあるが)今も広い境内の一角には、彼を祀る"上杉堂"が建てられている。その上杉憲顕の墳を見つけた時、私はこの地を訪れた甲斐があったと思い、カメラに一枚収めることにした。
takahata1 ーこれだから、城址巡りはやめられなくのだ。
 心の中でそう呟いた私は、京王線の高幡不動駅まで足を伸ばして、その周辺で昼食を取ることにした。駅からは、日野行きのバスも出ている。
 ーよし、時間はまだ早いから、兵糧攻めがすんだら、今度は日野宿に行ってみよう。
 そう考えて、手ごろな食堂に入り、新たな作戦を練った。しばらく休んだのち、駅前からバスに乗って日野宿を目ざした。三十分ほどで、第二の目的地に着いた。
 この日野宿は江戸から離れること九里二十六町(約40キロメートル弱)余り、当宿で通常負担していた人馬は、一日二十五人、馬二十五疋(頭)までであった。また日野の名の由来は、飛火野(とびの=古代の軍制の中で、有事の際にのろしをあげた場所=)から来ているとされている。しかし、飛火野という文字ではきなくさい印象を与えるというので、和銅(わどう)三年(710)に、もっとめでたい文字を使えという勅命によって、日野に改められた。もう一説あって、多摩川と浅川の河川にはさまれた日当たりのよい台地だったので、日野と銘々されたのだともいう。
 天正(てんしょう)十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めによって、北条氏(鎌倉幕府の執権職、北条氏とはまた別の一族。稀代の風雲児、伊勢新九郎を祖とする)が五代(新九郎=早雲=・氏綱=北条氏を名乗るのは彼の代から=・氏康・氏政・氏直)で滅亡すると、これに替わって関東へ入封した徳川家康は、江戸を中心に放射線上に交通の要衡を結ぶ、街道整備に着手した。中でも重要視したのが東海道・中山道(ちゅうざんどう)甲州道中・日光道中・奥州道中の、いわゆる五街道であった。そして、甲州道中の代官頭(長官)に任命されたのが大久保長安(ながやす)で、彼は八王子の小門(おかど)に陣屋を構えると、街道及び多摩地区の開発・活性化に力を注いだ。戦国末期の日野について触れた『佐藤家文書』(挨拶目録)には、
「慶長(けいちょう)十年(1605)大久保石見守(いわみのかみ=長安=)様より隼人(佐藤隼人=美濃〈今の岐阜県〉から日野に移住し、このあたりの落武者や野武士を追っ払って、農民たちを助けた功によって名主に任命された人物)殿など召され、此の村を継場(つぎば=宿場町=)に御取立ての書付御見せ成され候(そうろう)」
 とあって、日野が甲州道中(現在の甲州街道)の継場に指定されたことを証明している。さらに天保(てんぽう)十四年(1843)の『甲州道中宿村大概帳(しゅくそんおおむねちょう)』には、
「宿内の町並みは東西九町(約1キロメートル)家数四百弐拾三軒、宿内の人別は千五百五拾六人」
 とある。またそれより四年前に記された『諸渡世議定連名帳(しょとせいぎじょうれんめいちょう)』には、
「質屋七軒、居酒屋十二軒、食物屋二十軒など、八十軒ほどの商店が立ち並んでいた」
 とある。繁華街は形成されなかったと、つづけてあるので、ま、八王子には及ばないものの、それなりのにぎわいを見せる宿場町であったことが想像される。
hinojuku2 そんな町並を、新宿方面に向かって5分ほど歩いて行くと、日野宿の本陣を見つけた。写真からも分かるように、なかなか重厚な感じの建物だが、ただしこの建物は、元治(げんじ)元年(1864)に再建されたと、門の右脇に設置されてある解説板にはあった。うなずいてふとうしろを向くと、本陣のちょうど真向かいに"甲州街道日野宿、問屋場・高札場跡"と刻まれた石碑が建っていて、この中宿(日野宿は西の方より、上宿・中宿・下宿とに別れていた)が、宿場の中心部分であったことを物語っている。
 けれど日野といえば、どうしても見落とせないものがある。それはこの宿が、幕末に活躍した、あの新撰組の発生の地であるということである。18世紀の末、遠江国(とうとうみのくに=今の静岡県=)の出身者に、近藤内蔵助(くらのすけ)という剣豪がいた。立身出世を夢みて江戸に出向いて来た彼は、やがて剣術・棒術・柔術・合気術などを合わせた武術"天然理心流"を創始して、寛政(かんせい)の頃(1789〜1801)江戸両国薬研堀(やげんぼり)に道場を構えるまでになった。その上で彼は、近隣の農村にも出向いて行って、多摩地域にも多くの門人を得た。内蔵助の引退後、二代目を継いだ近藤三助(内蔵助の高弟)は、戸吹村(現八王子市戸吹町)の出身であったから、大久保長安によって組織された八王子千人同心の人々にも、天然理心流は広く受け入れられるようになった。
hinojuku3 だが三助は後継者を決めないまま、四十六歳で急死したため、しばらく近藤宗家を継ぐ者がいない状態がつづいた。やがて、
「せっかく内蔵助殿があみだした天然理心流を、このまま衰退させてはまずい」
 との声が門人のあいだから高まり、小山村(町田市)の名主の三男嶋崎周助が、近藤家の三代目を継ぐことになった。新たに当主となった彼は、道場の発展のために八王子より東の地域の門人を求めることにした。というのもそのあたりには、武士へのあこがれ、あるいは自分の命を守るためには武術が必要である、そう考える豪農や農民たちが何人もいたからである。それを象徴するような出来事が、日野宿で起きた。嘉永(かえい)三年(1849)正月十八日、折からの北風に煽られて、日野宿が火事となった。人々が消火作業に当っていたその時、一人の男が突然に名主佐藤彦五郎(先に記した、佐藤隼人の子孫であろう)宅を襲い、彦五郎の祖母と、組頭一人を殺害して、さらに宿場内を暴れ回った。そのため消火に当っていた人々は、その男を捕まえるために必死となり、火消し作業がおろそかになった。その結果、さらに火事を大きなものにしてしまったのである。
 ーこれも、宿の治安体制が弱いからだ。
 その事実を痛感した佐藤彦五郎は、自宅に道場を設けて、同好の士を集めて剣術稽古に励むとともに、治安の向上に力を注いだ。少しずつ、道場へ入門する若者が増え、やがて名のある剣士の、指導を仰ぐことにした。その時、佐藤道場の稽古に出向いて来たのが、十六歳で天然理心流の近藤周助に望まれてその養子となった、上石原村(調布市)の豪農宮川久次郎の三男、勝五郎であった。その後勇と称した彼は、三多摩を中心として相模(さがみ=今の神奈川県)あたりまで、出稽古の範囲を広げて行った。やがて石田村(現在の日野市)生まれの歳蔵(のちの土方蔵三、彼の姉ノブがいとこに当る佐藤彦五郎に嫁いでいる)らとともに、あの新撰組を結成して行くことになるのである。
hinojuku4 日野宿の散策をさらにつづけていると、今度は八坂神社の入口で、貴重なものと出逢った。それが安政(あんせい)五年(1858)八月、近藤周助の門人二十五名が剣術の上達を祈願した奉納額であった。写真では分かりにくいのだが、名前をよく読んで行くと一番最後に、嶋崎勇の名があった。養子に入った周助の姓が嶋崎であったため、このころはまだそう名乗っていた。正式に四代目に就任した時(万延=まんえん=元年=1860)に、近藤と改めたのである。さらにうしろから二番目にあるのが、女性ファンの多い沖田惣次郎(のちの総司)である。ただし土方蔵三の名がないが、彼が正式に道場に入門するのは、この翌年のことだからである。
 写真を撮って、しばらくその場に立ちつくす私の耳に、その時、道場で稽古をする若者たちの鋭いかけ声が、ふっと聞こえたような気がした。現場に立って、そこに流れる歴史の息吹きを感じ取る…。まさに、それを体験できた一瞬といってよい。

(2016年2月1日13:30配信)