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歴史寄稿 甲府城散策


saitohideonew  寄稿者略歴
 斎藤秀夫(さいとうひでお)
 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都在住。著書『男たちの 夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)『男たちの夢—歴史との語り合い —』(同)『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)『桔梗の花さ く城』(鳥影社)『日本城紀行』(同)『続日本城紀行』(同)『城と歴史を探る旅』(同)『続城と歴史を探る旅』(同)『城門を潜って』(同)


 私の生まれは、山梨県甲府市である。けれど、それはただ単に、その地で出生したというだけの話で、古里のイメージとはほど遠い。そうはいっても、甲府には私の好きな城址があるので、秋の晴れたある日、ぶらりと、甲府城を散策してみることにした。  現在私が住んでいる、東京都の八王子からだと、"スーパーあずさ"に乗れば、一時間足らずで到着するが、別にあわてる旅ではないし、車窓から移り行く秋の景色も楽しみたいので、普通列車で行くことにした。八時四分にJR八王子駅を出発し、十時ちょうどに、酒折(さかおり)駅を通過した。すると、
「まもなく、甲府、終点甲府に到着します」
 との車内アナウンスが流れ、すぐに進行方向の左手に、壮大な石垣が目に入った。つまり甲府城は、駅のすぐそばにある。広島県福山市にある福山城も、駅の至近距離にあるが、甲乙つけがたい近さだった。列車から降りて駅の改札口を出た私は、まっすぐ目的地へ向かった。甲府城を訪れるのは今回で三度目だから、迷うことはなかった。
  この城のある山梨県は、かつては甲斐国(かいのくに)と呼ばれていた。そして甲斐といえば、どうしても武田信玄を思い描く。事実甲府駅前には、床几に腰を降ろして右手に軍配を持ち、あたりを睥睨(へいげい)するような、巨大な信玄像が設置されている。従って甲府城も、その信玄の居城であったと思われがちだが、信玄が日常生活を送ったのは、甲府城とは反対方向にあるつつじが崎館(現在の武田神社=永正〈えいしょう〉十六年〈1519〉信玄の父信虎が、それまでの石和館〈いさわやかた〉から新たに、現在の甲府駅北方に当たるつつじが崎の地に、館を築いてそこへ引越し、城下町を整備した。そして、甲斐の領国経営の本拠地にふさわしいようにとの願いから、甲斐府中、甲府と命名した)であって、この甲府城とは関係はない。
 信玄は生涯自国に城を構えることはなく、堀一重だけの、決して堅固とは呼べない館で、三十二年間暮した。それでも甲斐国は彼が生存している間は、一度も敵軍の進入を許してはいない。そんなことからあの有名な、
「人は石垣、人は城」
 その言葉が生まれたのであろう。
 三分ほど歩くと、やがて内松陰(うちまつかげ)門が見えて来た。これは二の丸と本丸の間にある門で、その門を潜ると、虎口(こぐち)に出逢う。虎口というのは、門に枡形(ますがた)を作り、曲がって出入するようにした要所の出入口のことである。そうすることによって、攻め入った敵が直進出来ないようにし、側面から矢や鉄砲を浴びせるのである。そこを無事に過ぎると、いよいよ本丸となる。広さは東西60メートル、南北50メートルほどあり、その奥に天守台があった。東西17メートル、南北22メートル、北西隅が突出した不等辺五角形をした穴蔵構造の天守台だが、その上に天守が築かれることは一度もなかったと、これまではいわれていた。けれど、最近の発掘調査の結果、浅野家時代に、金箔瓦葺き(きんぱくかわらぶき)の天守があったことが、確認されている。いずれにしても、古式な技法の、粗割石を寝かせた石垣が見事なので(何でもその規模は、関東では江戸城に次ぐといわれている)いい角度を選んで、一枚カメラに納めた。
 さらに本丸から一段下がった東北の方角には、稲荷曲輪がある。もともとそこには、五穀をつかさどる倉稲魂(うかたみたま)を祀る稲荷神社があったとされ、曲輪の隅には、残された絵図・古文書などを参考にして、寛文(かんぶん)四年(1664)の建築当初の姿で復元された、稲荷櫓が建っていた。再建にしてはなかなかいいので、もう一度カメラを構え、写し終って近くのベンチに腰を降ろした。改めて二重二階(高さは10メートルほど)の櫓を見上げ、持参した資料を、少し読んでみることにした。
kofu1 天正十年(1582)三月十一日、信玄の後を継いだ武田勝頼は、織田信長の軍に攻められて、天目山田野(てんもくざんたの=山梨県甲州市=)で自刃し、こうして名門武田家は滅んだ。けれど、それから三ヶ月後の六月二日、その信長も家臣の明智光秀の謀反にあって、京都本能寺ではかなく死んだ。それによって生じた壬午(じんご)の乱(信長の領地であった甲斐・信濃=今の長野県=をめぐって、徳川家と北条家とがくりひろげた抗争)で氏直(うじなお=北条家五代目当主=)に勝利して、甲斐を手にした徳川家康は、家臣の平岩親吉(ひらいわちかよし)に甲府城の造営を命じた。信玄以来のつつじが崎館は北に片寄り過ぎており、しかも手狭で荒廃も進んでいたので(そのため息子の勝頼も天正九年=1581=に、新府城=山梨県韮崎市=を築城している。父の使っていた館では、すでに守りきれない時代となっていたからである)家康は『甲斐国志』に、
「古人伝え、昔時、甲府盆地が洪水にさいし、この地に一巨石あり、赤甲石ととなえ、赤甲一条城(平安・鎌倉時代に、甲斐源氏の嫡流一条次郎忠頼=ただより、新羅〈しんら〉三郎義光〈よしみつ〉から四代目に当たる武田信義〈のぶよし〉の次男=の館があった)の名が冠せられていた」
 と記されている標高300メートルの一条小山に、新城を築くことにしたのである。さらにこの時家康は、滅んだ武田家の旧臣八百余を召し抱え、そのなかでも特に武勇の優れた者百二十人余を井伊万千代(直政)の直属とした。これが勇名をはせた"井伊の赤備え"となるのである。
kofu-2 しかしながら、その家康も天正十八年(1590)小田原城を包囲して北条家を滅ぼして、天下人となった豊臣秀吉の命によって、関東への移封となり、代わって秀吉の甥で養子の秀勝(姉ともの次男、長男が秀次)が、甲斐・信濃を与えられて甲府城に入った。小田原の役(えき)における、武功が高く評価されたのである。けれど、京都に住む秀勝の母とも(瑞竜院=ずいりゅういん=)が、
「甲府は僻地(へきち=かたいなか=)で、息子と遠く離れて暮らすのはさみしい」
 そう弟の秀吉に泣きついたので、それからわずか半年後の天正十九年(1591)二月、美濃(今の岐阜県)の岐阜城主に移され、新たに赴任して来たのが、加藤光泰(みつやす)であった。彼は美濃の生まれで、最初は斎藤竜興(たつおき=まむしと呼ばれた、道三の孫=)に仕えていたが、隣国尾張(今の愛知県)の織田信長によって斎藤家が滅ぼされると、信長、さらに秀吉に仕え、天正十年"山崎の戦い"(信長を討った光秀と、秀吉とが覇権をかけた争い)で功を挙げ、大垣城(岐阜県大垣市)・佐和山城(滋賀県彦根市)の城主を歴任して、今度の人事となったのである。その年の三月、光泰は六百七十人の家臣すべてに武装させ、旗差物(はたさしもの)もにぎやかに、まだ工事なかばの甲府城に乗り込み、大広間に家臣を集めて、酒宴を開いてめでたきよき日を、大いに祝ったと伝わっている。その光泰が文禄(ぶんろく)の役(文禄二年=1593=に秀吉が起こした、朝鮮への出兵)に従軍した際、甲斐の国家老に宛てた書状が残っていて、
「其国ふしん、土手、ひがしの丸、石かき出来候(そうろう)や、比表事(このおもてごと)、上様御存分に申付候」
 とある。わかりやすく書くと、
「甲府城の普請工事の進み具合はどうだ。土塁や東の丸(稲荷曲輪)、石垣は完成したか。この城はとても重要であるから、秀吉様からもしっかりと工事を進めるよう命じられている」 
 となって、確かに加藤光泰が、甲府城主であることを物語る内容となっている。そんな彼がその年の八月に、朝鮮の陣中で没してしまったので、秀吉は正室のおねの妹を妻にしている浅野長政に、二十二万五千石を与えて甲府城主とした。秀吉が信頼する長政をこの地に封じたのは、家康に対抗させるためであり、その役目は嫡男の幸長(ゆきなが)の代になってもつづけられた。けれど…、太閤秀吉が慶長(けいちょう)三年(1598)八月十八日、京都の伏見城で死去すると、二年後の九月十五日、天下分け目の"関ヶ原の戦い"が起きた。そして、勝利を得た家康は、先に引用した『甲斐国志』に、
「慶長五子年(ねどし)ののち、御領所になり、再び平岩親吉城代たる時、猶又(なおまた)修理を加ふと云」
 そう記述される状況を作り出すのである。
 何といってもこの甲府城は、徳川の本拠地、江戸城の西の外郭となる重要な地点にあったから、勝手知ったる親吉に、一段と堅固な城に作り直せという指示を与えたのである。同時に家康は、江戸と甲府との中間に位置する八王子に、
「諸家(しょけ)窮人(きゅうじん=生活に困っている人=)五百人召し出し、都合千人に遊ばされ、御軍役おおせつけられ候」
 と『千人組手控古来之訳記(せんにんぐみてびかえこらいのわけき)』にあるように、"八王子千人同心"を配備して、二重の防衛体制を敷いたのである。
 慶長八年(1603)になると家康は、九男義直をもって、甲府城主とした。ただ義直はまだ五郎太を名乗る四歳の幼児であったから、国事は従来通り親吉が行い、慶長十二年(1608)閏四月、その義直が尾張に転封となると(これが"徳川御三家"の一つ、尾張徳川家の祖となる)親吉もその付家老として十二万三千石を賜って犬山城(愛知県犬山市)へ移り、甲府城は幕府の直轄(天領)となった。
 元和(げんな)二年(1616)になると、二代将軍秀忠の次男忠長(長男が三代将軍となる家光)が十一歳で甲府城主となった。けれど、忠長が寛永(かんえい)十年(1633)十月、兄家光(この時はすでに将軍になっている)から切腹を命じられ、この城はしばらく城番制となるが、寛文(かんぶん)元年(1661)閏八月、家光の次男綱重(つなしげ)が新たな城主に任命されてもとの状態に戻った。さらに延宝(えんぽう)六年(1678)綱重の子綱豊(つなとよ)が甲府城に入り、その彼が宝永(ほうえい)元年、五代将軍綱吉の養子に乞われ、やがて家宣(いえのぶ)と改名、六代将軍となって江戸城へ入ると、かわって武蔵川越城(埼玉県川越市)を預かっていた柳沢吉保(よしやす)が甲府城主に任命された。
 山梨県埋蔵文化財センターが発刊している『舞鶴城(松の樹間に狭間〈はざま=矢・鉄砲などを放つために、城壁に設けた穴=〉を持った白壁が、南北にちょうど、鶴が翼を広げたように見えることから、甲府城のことをそう呼んだ)公園』というパンフレットによると、
「柳沢氏は、子の吉里(よしさと)にいたるまで、約二十年間甲斐国を治めた。そして、御殿の新築や石垣の改修、城下町の再整備を行なった」
 とある。また、別の文献には、
「城の外掘を以(もっ)て、郭内と郭外とを明確にし、多くの町を開いた」
 ともあるので、現在我々が眼にする甲府城及び甲府市の町並みは、このころに完成したと見てよいであろう。
 ーなるほどね…
kofu-3 納得して、資料をまたポケットに戻した私は、ベンチから腰を上げて、再び城内の散策を開始した。広場を横切ってしばらく進むと稲荷曲輪門に出逢う。この門も稲荷櫓と同時に復元されたもので、ここでもカメラを構えることにした。ごらんのように切妻造で、本瓦葺きの高麗門(こうらいもん)である。高麗とは朝鮮を意味する言葉だが、本場の韓国にはこの類型がまったくなく、文禄の役の頃に、日本人が考案した最新鋭の城門なのである。門前方には石段があって、そこを下って行くと、今は自由広場となっている、鍛治曲輪に至った。広さは東西230メートル、南北40メートルほどの細長い形をしており、中央部分に年貢や作事、普請・土木に関する事務を取り扱う会所(勘定所)があった。鍛治というのは、金属を打ち鍛えて種々の器物を作ることだから、会所のそばには、そんな器物を生産する工場があったのかも知れない…。今は何もない空間だからこそ、いろいろ想像することが出来る。そこに城址巡りの楽しさがあるといってよい。
 そこから石垣の続く坂道を登り、右に曲ってもう一度同じ動作をくり返すと、これも復元された鉄門があった。しめたと思って、シャッターを押す。けれど動かない。そうなのだ。もうフィルムは残っていなかったのである。しかたなく、一番最初に眺めた内松陰門まで戻った私は、甲府駅前で昼食を取り、帰路に着くことにした。これで今回の旅も終りとなるが、最後に、ちょっと面白い話をしよう。宝暦(ほうれき)年間(1751〜64)に書かれた『裏見寒話(うらみかんわ)』には、
「温泉、御城内、楽屋曲輪(現在の山梨県庁構内)の御門前水道に湧出つ、旱天(かんてん=ひでり=)には湯煙たつ、御城内なれは、何症に応するといふ事は分からず、眠気によしとの云伝へあるよし」
 とある。つまり、昔、甲府城内には温泉が湧出ていて、何の病気に効くかはわからないものの、脚気(かっけ)や眼病に、どうやら効果があるという記述になっている。もしそれが本当なら、城内で温泉が楽しめ、まさに殿様気分にひたれるという、何ともうらやましい城であったということになる…。

(2016年2月29日18:40配信)