newtitle

画像04が表示されない
竹田 歴史講座

▲トップページへ戻る

歴史寄稿「備中高松城水攻めの実体」斎藤秀夫氏


saitohideonew  寄稿者略歴
 斎藤秀夫(さいとうひでお)
 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの 夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)『男たちの夢—歴史との語り合い —』(同)『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)『桔梗の花さ く城』(鳥影社)『日本城紀行』(同)『続日本城紀行』(同)『城と歴史を探る旅』(同)『続城と歴史を探る旅』(同)『城門を潜って』(同)


 天正(てんしょう)十年(1582)六月二日、京都本能寺で、織田信長が家臣の明智光秀の謀反にあって、あっけなく死去するという大事件が起きた。この、日本史上あまりにも有名な〝本能寺の変〟が起きた時、その信長の命を受けた羽柴秀吉は、備中高松城(岡山県岡山市)を攻略中であった。しかも彼は、
「この地に高さ7.2メートル、幅約21メートル、長さ3キロメートルにも及ぶ、大堤防を築いて…」
 と、たいていの文献ではそう記す、壮大な作戦を展開中であった。けれど…、本当に秀吉の築いた堤防は、そんなにも大規模なものであったのだろうか?。
「いえいえ、それはね、秀吉一流のはったりですよ」
 そう強調するのは、長年地元で郷土史を研究していた林信男氏である。彼の話によると、〝備中高松城水攻め〟は、その十分の一程度の長さの築堤で、十分可能であり、それを証拠立てる資料も手元にはいくつかある。そう林氏は力説したのである。

takamatsu-1
 

 幸い私は、その林氏とは二度ほど逢ったことがあり、彼の車で、備中高松城の周辺を、案内してもらった体験を持つ。だが、悲しいかな、林氏はすでに故人となってしまった…。そこで、わが師とも呼ぶべき彼の遺志を受け継ぐという意味も含めて、改めて〝備中高松城水攻めの実体〟を、私なりに検証してみようと、考えた次第である。
 私は城址巡りの旅が好きで、全国の城郭を散策することを、無上の楽しみとしている。そんなことで、林氏と巡り合ったわけだが、最初に出逢った時、私はその林氏から、衝撃的な映像を見せつけられてしまった。それが1番目に紹介する、2枚の写真である(撮影したのも林氏本人)2枚の写真のうち、下の写真は、日本のどこにでもある、のどかな田園風景を写したものにしか過ぎない。しかし、一度集中豪雨が発生すると、備中高松城周辺は、すぐに上の写真のような状態に、なってしまうのである。(もっとも21世紀の今日では、排水ポンプの設置によって、冠水はしなくなったという。それだけに貴重な資料といってよい)

takamatsu-2
古川古松軒の絵図

 次いて、2番目に掲載した絵図に注目して欲しい。これは江戸時代の地理学者、古川古松軒(こしょうけん)が記述したものだが、絵図の一部を拡大して見ると、堤のようなもの(黒く塗った部分)が描かれていることがわかる。旅の帰りの途中(城のあるJR備中高松駅から東京まで戻るには、吉備線を使って岡山駅まで行く必要がある)に立寄った岡山県立図書館には、原寸大の絵図(たぶん、複製であろうが)が保管してあり、係員に頼んで閲覧させてもらうと、その堤を描いたすぐ下の部分に書き込みがあって、

takamatsu-3
絵図の拡大図

「龍田(たった)村、此(こ)の所に新堤を築く」 
 と読めた。古松軒が、この絵図を完成させたのは、寛政(かんせい)三年(1791)のことだが、安永(あんえい)九年(1780)にも『吉備(きび=今の山陽地方=)之志多道』という著書を残していて、その中に「水攻めの時に、松山往来(岡山県高梁=たかはし=市には現存天守の一つ、備中松山城があるが、そこへ通じる街道で、絵図にも描かれている)の近くに堤を築き、せき止めし処(ところ)」
 とあった。また、天正十年六月二日(まさに〝本能寺の変〟が起きた日だ!)秀吉と敵対している毛利方の武将、吉川元春(きっかわもとはる=毛利元就の次男で、吉川家の養子となる)が、家臣の今田經高(いまだつねたか)へ陣中(元春は備中高松城の守将、清水宗治らを応援すべく、城近くの庚申山=こうしんやま=に、約一万の兵を率いて布陣していた)から送った手紙(吉川家文書)が残されていて、
「高松の儀、水を仕掛候(しかけそうろう)、而(しかして)下口(しもくち)をつき塞(ふさ)ぎ候て責申(せめもうし)候」
 そう書いて、敵将が備中高松城を水攻めにしている様子を、本国に報告している。
「いいですか、斎藤さん」

takamatsu-4
高低差を60倍にした図

 私が最初に林氏に逢った時、彼は自分の書斎に、この私を招き入れてそういった。書斎の本棚には城関連の本が、びっしりと並べられてあった。
「先ほどの写真を改めて眺めれば解かるように、備中高松城は、山々に囲まれています。つまり、大きなお盆の底に位置しているといってもよく、それを科学的に証明した人もいるのです」
 そこで一度言葉を切った林氏は、新たな資料を私の眼の前に提示した。それが、3番目に掲載した図である。
「その図は、城周辺の標高を何ヶ所か測り、その高低差を、コンピューターで60倍にして表示したものです」
 なるほど、お盆の底のような場所に、備中高松城が存在していることが、一目で理解出来た。
「だから、備中高松城周辺は、大雨が降るとね、1番目の写真のようにすぐに水没してしまう」
「…」

↓大鳥居   ↓蛙ヶ鼻築堤跡
ootorii

「しかし、どんなに冠水した状態にあっても、一晩たつと、すうっと退いて行ってしまうのです。図の右はしの下の部分が、一段と低くなっていますよね?そのあたりを我々は、蛙が鼻(かわずがはな)と呼んでいますが、そこはいわば、風呂桶の排水口の役目をする場所なのです。そこから水が、すうっと退いて行く。でもその蛙が鼻に、古松軒の絵図にあるような堤を築いたらどうなるか?、答えは明らかなはずです…」
 その蛙が鼻周辺を、林氏が車で案内してくれたのは、私が彼と、二度目に対面した時だった。〝国指定・蛙が鼻築堤跡〟と書かれた標識近くの駐車場に車を止めた林氏は、私を堤の上に案内した。登ると、7メートルほどの高さがあり、そこから、大鳥居が見えた(4番目に掲載した写真参照、ただし、これだけだと鳥居とははっきり認識出来ないので、冠水した時のものと、通常の時のものを、つづけて紹介しよう。鳥居の根元部分から田畑までの高低差は6メートルほどだから、あたり一帯が水没しても、7メートルの堤があれば、水は十分に貯えられる計算になる)
「ここから、あの大鳥居までの間を、我々は蛙が鼻と呼んでいます。しかし、この築堤跡から大鳥居まで、あなたの眼で測ってみて、3キロメートルもあると思いますか?」
「いいえ、せいぜい300メートルほどといったところですかね」
 私がそう答えると、林氏は満足そうにうなずいた。

takamatsu-6
冠水時の大鳥居周辺

「我々も県教育委員会の協力を得て、実際の距離を測ってみました。その結果は、あなたの推測した通りでした」
 ーあの、古川古松軒の絵図は正解であった!
 改めて私は、そう思った。同時に、元春の手紙にあった下口とは、蛙が鼻を指すのではないかと感じた。そこで、林氏にその点を問い正すと、
「そうです。同じ意味になります。水越しとも表現します。

takamatsu-7
通常時の大鳥居

大雨が降った時、水が松山往来(現在の県道長野稲荷山線のことか?、5番目に掲載した、右の写真参照)の上を越して行くことから、その名が付いたのです」
 そう丁寧に教えてくれた。
「いずれにしても、堤の長さは、定説(3キロメートル)の十分の一(300メートル)程度の規模でしかなかった!」
「やはり秀吉は、誇大宣伝がうまかった。そういうことでしょうかね?」
「…」
「ところでもう一つ、私が疑問に思っていることがあるのです」
 えっ?、という顔で相手の顔をのぞき込んだ私を、林氏はしばらく見返していたが、やがて、訴えるような口調でこういった。
「羽柴秀吉は備中高松城の南方に長大な堤を築き(これは、林氏の検証で否定的になったが)近くを流れる足守(あしもり)川を堰きとめ、川の水を堤の内側に流しこんだ。おりからの豪雨で、足守川の勢いはすさまじく、城はみるみる水浸しになった、と。これが、一般的な解釈ですが、しかし、私が撮影した写真を見る限り、備中高松城水攻めは、そんなことをしなくとも、十分に達し得たのですよ」
「…」
「斎藤さんもご存知のように、私の家は備中高松城の本丸内にあります」
「確かに」
 と私は静かにいった。最初に城を訪れた時、本丸の一角に売店があるのを見つけ、暑さで乾いた喉を潤そうと、その店に立寄ったのが林氏を知るキッカケとなった…。
「でも、1985年6月25日(最初の写真の上の1枚参照)に集中豪雨があった時、足守川の堤防は、破れてはいません。それでも城周辺は水没した。これはどういう意味でしょうかね?」
 私が返事に詰って黙っていると、林氏はおもむろにつづけた。
「要するに、備中高松城は、足守川の水を注ぎこまなくても、十分に水没させることが出来たのですよ。さらにここに、貴重な文献があります」
 林氏は右手でズボンのポケットを探ると、折りたたんである紙切れを取り出して、私の眼の前で広げて見せた。
「1枚目は、徳川家康の家臣である、松平家忠が書いた日記(家忠日記)の一部をコピーしたものです。読みますとね、天正十年は、四月二十九日から五月五日までの六日間、毎日雨であった。さらに、堤を完成させて、本能寺の変が起きるまでは、十四日間(工事開始を五月七日、完成を五月十九日と計算して)ありますが、日記には、五月二十一日・二十四日・二十五日・二十六日・二十九日と、六月一日・二日の計七日、降雨であったと書かれています。もう1枚の方は『中国兵乱記』という書物からの抜粋ですが、そこには、たびたび霖雨(りんう)す、そう書かれています。霖雨というのは、何日も降りつづく雨、長雨の意味ですからね、家忠の著述とピタリと一致します。つまり、秀吉が備中高松城を水攻めにした時は、私が体験したのよりももっと激しい雨が、毎日のように降り注いでいたと想定されます。恐らく秀吉は…というより、彼の参謀である黒田勘兵衛(如水=じょすい=)がといった方がいいかも知れませんね、なぜなら勘兵衛は、現在の岡山県瀬戸内市の福岡の生まれとされていますからね(ちなみに、そこから備中高松までは、直線にして30キロメートルほどしか離れていない)この備中高松城周辺が、大雨が降るたびに水没するということを、地元の農民たちなどから聞いて、知っていたのではないかと思うのですよ」
「そして、それを主君秀吉に進言した?」
「ではないかと。勘兵衛なら、秀吉にずけずけとものがいえる立場に居ましたからね」
「…」
「それはそれとして、これが私が長年かかって調べ上げた、秀吉による、備中高松城水攻めの実体なのです」
 ー敗けた!、と、その時私は、心の底からそう思った。だがそれは、みじめな屈辱感ではなく、すがすがしい感動であった。
 ー素晴らしい人に、私は出逢えた!
 その気持ちは十年過ぎた今でも、色あせることなく、常に私の心の中にはある。そして、その林氏に対する尊敬の思いが、この文章を書かせたといってよい。同時に、林氏が、
「その現場に立ってみなければ、歴史の本当の姿は見えて来ない」
 と、無言のうちに、私に教えてくれたとも感じている。座右の銘としたい。

(なお、この作品に使用された写真・絵図などは、拙著『続・日本城紀行』からの引用であることを、つけ加えておく)

(2016年10月3日19:35配信)