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寄稿「大久保長安という男」斎藤秀夫


saitohideonew  寄稿者略歴
 斎藤秀夫(さいとうひでお)
 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの 夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)『男たちの夢—歴史との語り合い —』(同)『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)『桔梗の花さ く城』(鳥影社)『日本城紀行』(同)『続日本城紀行』(同)『城と歴史を探る旅』(同)『続城と歴史を探る旅』(同)『城門を潜って』(同)


 現在私が住んでいる八王子は、平成二十七年(2015)四月に、東京都では初めてとなる、中核都市の指定を受けた。これは、政令指定都市よりは小さいが、一般の都市よりは大きい、要するにちょうど、両方の中間に位置しているという意味になるが、今日の八王子市発展の礎(いしずえ)を築いた人物といえば、まず八王子城を造営した北条氏照(ほうじょううじてる=小田原に本拠を構える、北条氏三代目、氏康の三男)を挙げねばなるまい。
 しかしそれと同じくらいの重みを持って、大久保長安(おおくぼながやす。ちょうあんともいう)の功績も忘れてはいけない。ところが、この長安がこの世を去る慶長(けいちょう)十八年(1613)四月二十五日のわずかその三ヶ月後に、長安の遺子七名が、死罪に処せられているのは、なぜであろうか?。
 生前の彼は、慶長六年(1601)に甲斐(今の山梨県)の甲府代官、慶長八年(1603)には石見(いわみ=今の島根県)銀山奉行と、佐渡(新潟県)金山奉行を兼務し、慶長十一年(1606)には伊豆(静岡県)の金山奉行を歴任するが、その役職を利用して、秘かに莫大な資産(『大久保家記別集』にも、「金は七十万両、ほか銀銭=ぎんせん=の類同じく数知れず」とある)を蓄積したというのが、遺子処断の理由であった。
 さらに彼は、キリシタンに接近し、幕府転覆を図ったともいわれている(あの独眼竜政宗が、これに一枚からんでいたともいう。慶長八年二月六日、徳川家康は六男忠輝(ただてる)を北陸の抑えとして、信州(今の長野県)川中島に十二万石をもって封じるが、この時忠輝の財政上の後見人となったのが、この長安であり、忠輝が妻にしていたのが、伊達政宗の娘五郎八(いろは)姫であったことから、先の陰謀説が生じたのであろう。確かに長安の財力と、政宗の野心、それにキリシタン勢力とが一つに結集したら、幕府の脅威となったであろう。
 そんなわけで、大久保長安という男…、一般的には、あまり良い印象を持たれてはいない。だがしかし、本当に長安とは、そんなに危険な人物であったのであろうか?。八王子にはその長安の足跡がいくつか刻まれており、それらの遺跡を訪ねて行くうち、ふと、そんな疑問を抱いたのである。そこで、この男の生い立ちと、業績について、少し触れてみることにした。

 大久保長安は天文(てんぶん)十四年(1545)大蔵大夫の次男として、この世に生を受けた。父の大蔵大夫は、甲斐の武田家の猿楽師(さるがくし=能役者)であったが、長安は成長するとともに、持っていた己の才能を開花させ、武田信玄によって武士に取り立てられて、租税や食糧などを担当する、民政官となった。さらに、天正(てんしょう)十年(1582)三月十一日、名門武田氏が衰亡すると、
「十九歳の時、故(ゆえ)あって大蔵家を出、駿河(するが=今の静岡県)に趣(おもむ)く、東照大権現様へ御奉公」
 と『大蔵大夫家系図』にあるように、家康の家臣となったのである。彼を推挙したのが、家康の重臣大久保忠隣(ただちか)であったため、その姓を授けられた。
 同年六月二日、"本能寺の変"によって織田信長が横死したことによって、甲斐を手にした家康は、その領国経営に乗り出すが、長安は武田家時代に地方(じかた=農政)を担当した経験を買われて、伊奈忠次(いなただつぐ=家康が新たな政策を実施するため、検地・知行・年貢制度改革の責任者に任命した人物)を補佐して業績をあげて行った。
—こやつ、使える!
 そう感じたであろう家康は、天正十八年(1590)小田原の北条氏を滅亡させた豊臣秀吉の命を受けて、関東へ国替えとなった際には、この大久保長安を、関東十八代官の代官頭(長官)に任じた。長安の生い立ちを考えれば、大出世と呼んで良い。主君の抜擢に感激した長安は、やがて、武州小門(おかど=現八王子市小門町)に陣屋を構えた(掲載した一番目の写真参照)そしてその規模は、六反二畝十五歩(約6200平方メートル)もある広大なもので、さらに三方に土塁を築き、東と北に代官屋敷、西に千人同心屋敷、北と南に寺院を配置した。千人同心というのは、

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大久保長安陣屋跡

「この年(天正十八年)六月二十三日、城(八王子城)陥(おちい)りし後、土地いまだ静謐(せいひつ=世の中がおだやかに治まる)ならざるなり。ここにおいて小人頭(こびとがしら)及び小人をこの地に移し、以(もっ)て警備をなす」
 と『桑都(そうと)日記(江戸時代に記された地誌。桑都とは、養蚕が盛んであった八王子を美称した言葉)』にもあるように秀吉に滅ぼされたとはいえ、八王子周辺には、まだ北条氏の残党たちがかなりの勢力を保っていた。そこで家康は、その危険分子を押えるべく、甲州道中(現在の甲州街道)の要(かなめ)八王子に、軍隊を配備し、その司令官に長安を据えたのである。その人数も最初は五百人程度であったが、その後、「慶長四年(1599)大久保石見守(長安)おおせつけられ、諸家窮人(しょけきゅうじん=生活に困ってる人)五百人召し出し、都合千人に遊ばされ、御軍役おおせつけられ候(そうろう)」
 と『千人組手控古来之訳記(てびかえこらいのわけき)』にあるような、強力な治安維持部隊へと発展して行くのである。そんな彼らの屋敷は、今の追分町から日吉町一帯にあったといわれ、甲州街道と陣馬街道が分岐する交差点(それで追分の名が付いた)のすぐ近くには、二番目に掲載した解説板が立っていた。『新編武蔵国風土記稿』にも、
「縦横すべて千人頭及び組に属するもの門戸(もんこ=家の出入口)をならべて許多(あまた=沢山)あり」
 そう書かれている。

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八王子千人同心

 さらに長安は、甲州道中の整備にも力を注いだ。私の住んでいる明神町近くの新町(しんちょう)には、"竹の鼻一里塚跡"が、現在も残されているが(掲載した三番目の写真参照)、この制度を考案したのも彼の功績といってよい。一里塚というのは、慶長九年(1604)二月に、日本橋を起点として、一里(約4キロメートル)ごとに塚を築き、その地に何本もの木を植え、旅人の指標とした。それを目安に人々は旅を続け、時には大樹の陰でしばし休みを取り、次の宿場町(駒木野=こまぎの、その先には小仏=こぼとけの関所がある)を目ざしたという。

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一里塚跡(八王子市新町五番)

 この竹の鼻一里塚は江戸から十二里(約48キロメートル)の地点にあって、八王子十五宿(ただし『武蔵国風土記稿』には「十五宿の内、横山宿その第一なるを以て、すべて此所=このところ=を横山宿と呼ぶ」とある)の東の入口に当っていた。もっとも当時の甲州道中は一里塚の先で、直角に左に曲っていたことが、残された絵図から確認されている。一里塚跡は最近では"竹の花公園"として開放され、その片隅には、
「蝶(ちょう)の飛ぶ ばかり野中の日かげかな」
 そう刻まれた芭蕉の句碑が建っていて、静かに私を迎え入れてくれた。また八王子宿(横山宿と書くべきか)の一つ手前には日野宿があって(ここにも"万願寺の一里塚"が残されている。つまり日野から八王子までは、ちょうど一里という距離になる)この宿場町を整備したのも、長安であった。元禄(げんろく)十六年(1703)三月に作成された、甲州道中日野宿の成立の様子を記述した『挨拶目録』によると、
「慶長十年(1605)大久保石見守様より隼人殿(名主を勤める佐藤家の当主。彼の子孫である佐藤彦五郎の妻が、幕末新撰組副長として活躍した土方歳三=ひじかたとしぞう=の姉と言われている)など召され、この村(日野)を継場(つぎば=人馬の継立てをする場所=、宿場町)に御取立ての書附け御見せ成され候」
 とあり、その事実を証明している。
 また、若干年代的には前後するかも知れないが、"石見土手"と呼ばれる堤を築いたのも、この長安であった。実は八王子には、長安が町立て(まちだて=都市計画)を行う上で、どうしても克服しなければならない、難問が横たわっていたのである。標高599メートルの高尾山を水源とする南浅川(長さ138キロメートルにもなる大河、多摩川の支流)は、大量の雨が降り注ぐと、すぐに氾濫する暴れ川であった。その被害は陣屋を構えた小門宿(八王子十五宿の一つ)にも及んだというから、とても人々が、安心して暮せる場所ではなかったのである…。
 この事態を重く見た長安は、どうすれば八王子を水害から守れるか、その対策に頭をひねった。ある日長安は、御所水(ごしょみず)の里(現八王子市台町)と呼ばれる小高い丘に登って、あたりの景色を眺めやった。すると、北と西と南の三方が山、東だけが開けている眼の前の地形が、過去に自分が住んでいた、甲斐国の首府、甲府によく似ていることに気づいたのである。
—水さえ制御出来れば、この地は大いに発展出来る!
 それを確信した長安は、家臣たちに、
「どのあたりが洪水を起こしやすいのか、それを領民たちに聞いて廻れ」
 という指示を与えた。こうして集められた情報をもとに、計画案を作製した長安は、まず南浅川の流れを大きく曲げ、それを北浅川に直角にぶつける、瀬替え工事に着手したのである。この作業を始めたころは、
「本当にうまく行くのかね?」
 と領民たちの間には、そんな不安の声も少なからずあったのだが、工事が進むにつれ、さらに長安が、一日働いた者には、きちんと扶持米(ふちまい=給料の代わりとなる米)を渡しているのを見て、いつしか自ら進んで、労働に従事するようになったと伝わっている。さらに彼は『新編武蔵国風土記稿』が、
「八王子の島坊宿(これも十五宿の一つ、現元本郷町)、浅川の岸通り案下(あんげ)への往来(現陣馬街道)にあり、長さ、南の方八十八間(約160メートル)、北の方百八十八間(約340メートル)にて、当宿にかかること四十五間(約82メートル)なり、初め大久保石見守が指揮にて、築きしゆえこの名あり」
 そう記述する"石見土手"を作り上げた。そして、高さ七尺(約2.2メートル)幅三間余(約6メートル余)あったとされるこの土手には、一つの特色があった。"霞提(かすみてい)"と呼ばれる技法である。それは土手のところどころに、あらかじめ切れ目を入れ、同時に浸水しそうな場所を、遊水地として確保しておく。そうすることによって、水の勢いを分散させ、大きな決壊を防ごうというものであった。さらに、濁流が収まり、遊水地にたまった水が退いたあとの土壌は、山の栄養分を豊富に含んでいるので、作物がよく育つ…。
 長安はこれらの知識を、かつて仕えていた武田信玄から学んだものと思われる。信玄も永禄(えいろく)三年(1560)に、富士川の上流釜無(かまなし)川と、御勅使(みだい)川の堤防"信玄堤"を築いているからである。長安の造営した"石見土手"の一部が、千人町にある宗格院に残っているというので、この前行ってみたのだが、これは残念ながら、確認出来なかった。どうやら寺の庫裏(くり=台所)あたりにあるようなのだが、気楽に入れる雰囲気にはなく、あきらめざるを得なかったのである。

 以上が長安の、八王子時代の重な業績だが、もう一つ加えておくと、昔の彼の主君信玄の娘と孫とを、八王子で手厚く保護したのも、この長安であった。天正十年、信玄の後を継いだ勝頼は、織田信長の軍隊に攻められて天目山田野(てんもくざんたの=山梨県韮崎市)で自刃して果てるが、その戦禍を避けるため、松姫(信玄の五女。かつては信長の嫡男、信忠の婚約者であった)は姪に当る四歳(推定)のこごう(勝頼のすぐ下の弟で、高遠=たかとう=城〈長野県伊那市〉城主、仁科盛信=にしなもりのぶ=の娘、勝頼が自刃する少し前、この高遠城も、信忠の率いる織田軍に攻められ陥落、盛信は自決した)を連れて、八王子へと逃れたのである…。
 ある日長安は、松姫とこごうが、先っきも少し記した御所水の里にいることを知り、陰に陽に、彼にとっては雲の上の存在ともいえる、信玄の娘と孫とに、援助の手を差し伸べたのである。長安が小門に陣屋を構えてからは、陣屋から南西へ四町(約430メートル)ほど行った上野原宿(これも十五宿の一つ。現八王子市台町)に立派な草庵を建ててやり(今も信松院として残り、松姫が眠っている)二人が静かに暮らせるよう、計らったのである。さらに、こごうが成人した折には、これとは別に、横山宿(現八王子市元横山町)に庵(いおり)玉田(ぎょくでん)寺を造営して、彼女に寄贈したのである。玉田院(こごう)の他界後、元禄(げんろく)年間(1688〜1704)玉田寺は廃され、正徳(しょうとく)五年(1715)仁科家の子孫資真(すけざね)によって、彼女の墓石は、近くの極楽寺に移されたという。満開の桜に魅せられ、その寺に立ち寄ったことによって、この事実を知った…。
 いずれにしても、大久保長安とは、そういう男であったのである。

 ところで、大久保長安の遺子が処断されたさらなる理由だが、まず一つには、長安本人が、あまりにも有能だったことが挙げられるであろう。八王子での彼が残した業績から見てもわかるように、長安は確かに、優れた民政官であった。けれどそれと同様に、彼にはもう一つ特殊な才能があった。鉱山開発の技術がそれである。当時の鉱山開発は、出水が大きな課題であったが、長安は坑道堀削や水抜き(これが"霞提"の発想に結びついたのであろう)といった新技術を導入し、さらに選鉱に〝水銀流し〟(西洋のアマルガム法=金銀鉱石を水銀に接触させて柔らかくさせ、これを蒸留して、金や銀を回収する)を使って、飛躍的な増産に成功している。これが認められて長安は、石見銀山・佐渡金山・伊豆金山奉行を歴任し、莫大な富を蓄積することになるのだが(大久保家の記録でも、それは認めている)
 この長安の尽力によって、出来たばかりの江戸幕府の財政は、ゆるぎないものとなった。しかも当初は、この長安の能力を使いこなすことによって、己の権力基盤を固めた家康であったが、あまりにも巨大化したこの長安を、やがて嫌悪するようになったと考えられる…。さらに長安は、いつしか、強力な派閥を形成しつつあったことも、見逃すことは出来ないであろう。彼の嫡男藤十郎の妻は、信濃(今の長野県)松本城主石川玄蕃頭(げんばのかみ=家康の家臣から秀吉に通じた石川数正の子・康長)の娘であり、次男外記の妻は、播磨(はりま=今の兵庫県)姫路城主池田輝政の三女であった。そして他の息子や娘たちも、全国の有力な武将たちと、閨閥(けいばつ)で結ばれていたからである。その上嫡男藤十郎は、父に劣らず、いやひょっとしたらそれ以上の傑物であったとされ、長安の晩年には、父に代わってその業務を、ばりばりと処理して行く人物であった。
 —これはまずいぞ!
 ふいに家康は、そう感じたに違いない。
 —大久保一族に二代にわたって繁栄されては、幕府にとって、ゆゆしき問題となろう。
「殿、ご相談したきことがございます」
 その時家康の耳元で、そっとささやいた人物がいた。家康の謀臣、本多正信その人である。というのも、この正信は、長安を家康に推挙した、大久保忠隣とは、政敵の関係にあったからである。忠隣が武骨で言葉少なく、忠誠心の厚い武人であるのに対し、正信は弁舌さわやか、頭の回転の早い、優秀な文官であった。(このあたりは、加藤清正・福島正則といった武将たちと、石田三成との対立関係に良く似ている)しかもこのころは、大久保忠隣が年寄衆(後半の老中に当るであろうか?)の首座で、正信は次席であったから、
 彼は政敵の追い討ちを図るとともに、その与党とも呼べる、大久保一族抹殺計画を、主君の家康に進言したという気がする。その証拠として長安の死後すぐに、彼の配下を含めた、生前の不正の調査を、家康が命じているからである。いずれにしても、この事件の背後には、幕閣同士の、権力闘争があった…そう捉えるのが、一番真実に近いのではなかろうか?。

(2017年1月21日15:20配信)