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寄稿「上杉景勝神指城を築く」斎藤秀夫


saitohideonew  寄稿者略歴
 斎藤秀夫(さいとうひでお)
 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの 夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)『男たちの夢—歴史との語り合い —』(同)『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)『桔梗の花さ く城』(鳥影社)『日本城紀行』(同)『続日本城紀行』(同)『城と歴史を探る旅』(同)『続城と歴史を探る旅』(同)『城門を潜って』(同)



 『三公外史(さんこうがいし)福島市史資料叢書(そうしょ)』によると、慶長(けいちょう)三年(1598)正月、
「秀吉命令を下し景勝公の御旧領越後国を転し、奥州会津若松城百二十万石を賜ふ」  とある…。
 天正(てんしょう)十二年(1584)三月に愛知県北西部の小牧で行なわれた合戦で、局部的とはいえ、徳川家康に敗れた羽柴秀吉(彼が豊臣姓を賜るのは天正十四年)は、その戦い以降、この家康の存在が、常に気になってしかたなかった。そこで秀吉は天正十八年(1590)、かつての自分の主君であった織田信長が、その器量を高く評価していた蒲生氏郷(がもううじさと)を、奥州の要(かなめ)に位置する黒川城に配して、関東を領する家康の背後から、その動きを監視する役目を任せたのである。ところが、文禄(ぶんろく)四年(1595)二月、京都伏見の屋敷で四十歳の若さで氏郷は病死してしまい、その跡を嫡男秀行(ひでゆき)が継いだのだが、彼はまだ十三歳と若かったから、老臣たちを押えることが出来ず、領国経営もままならない有様であった。
 −これではとても、家康には対抗出来ない。しかも、会津の北には、あの曲者の伊達政宗が控えておる…
 そうした、厳しい社会状況を憂慮した秀吉は秀行に替えて、上杉景勝を会津に配置することにしたのである。先の『三公外史』に付属した形で発せられた秀吉の朱印状にも、
「家中の侍は申すに及ばず、中間(ちゅうげん)小者に至るまで、奉公人たるもの一人も残さず召し連れ候(そうろう)」
 そう書かれていて、いかに秀吉がこの上杉景勝に、期待を寄せていたかが解る。
 秀吉の内命を受けてから三ヶ月後、景勝は新しい領国会津に赴いた。すぐに領内の諸城に重臣たちを配した上で(この時、米沢城をまかせられたのが、直江兼続である)会津若松城へ入った。文禄元年(1592)に蒲生氏郷によって大改修が加えられ、名前も黒川城から会津若松城と改められたこの城は、東山山地から続く西端にあって、三重の掘が巡らされた東北屈指の要塞であった。けれど、残念なことに、一つだけ大きな弱点があった。市内門田町黒岩(もんでんまちくろいわ)の東に位置する標高372メートルの小田山の存在がそれであった。この地点は、
「小田山とられて戦(いくさ)するな」
 といわれたほどで、会津若松城から直線距離にして、わずか1.5キロメートルしかない。そのため、この小田山に大砲を据えられ、そこから攻撃を受けたら、一たまりもなかった。事実、後年の"戊辰(ぼしん)戦争=1868年に起きた="の際、この小田山を占拠した新政府軍は、同年の九月十四日から、射程距離3キロメートルはあるアームストロング砲を始めとして、大砲十六門を設置して、多い日で一日二千六百発の砲弾を、会津若松城の天守目掛けてぶちこんだのである。その結果、最初に掲載した写真(これは去年、この城を訪れた際、復元された天守の入口附近にあった、解説板を写したものである)のように、ぼろぼろにされてしまい、九月二十二日午後十時、ついに、
「これ以上の抵抗は、皇恩(こうおん=天皇の恩)に報いる道ではない」
 そう判断した城主松平容保(かたもり)は、ついに降伏を決意したのである。まさに、景勝の予想が的中したといって良い。それはそれとして、当初景勝は、河沼郡にある北田村(きただむら、現湯川村)を城造営の候補地とするのだが、その後の調査でこの地が、たびたび水害に見舞われやすいことを知り、会津若松城の北西3キロメートルの地点にある神指原(こうざしはら)に新城を築くことにしたのである。
kouzashijou-1 総奉行に直江兼続を任じ、慶長五年(1600)二月(文献によっては三月)から、工事は開始された。その築城に当っては、神指の十三ヶ村の人々を強制的に移住させるとともに、
「会津・中通り・苅田・米沢・庄内・佐渡の上杉領全土から十万から十二万ともいわれる人夫を動員して工事が進められた」
 と『会津四家合考』はそう記している。
 その神指城へは米沢在住の知人と、今年(2017)の青葉のまぶしい季節に行って見たのだが、その際撮影した写真から、その立体像を紹介したい。
kouzashijo-2 2番目に掲載した写真は、この城の縄張図を写したものだが、本丸は東西百間(約180メートル)南北百七十間(約306メートル)ほどの規模があり、北と東(大手口)それに西口の三ヶ所に虎口(こぐち=曲輪の入口、通常この虎口には、城門を建てる)が設けられ、四方を高さ六間(約10.5メートル)の土塁で囲った。しかも、この土塁は大方石垣で出来ており、それらに使う石材は、若松城下の東にある慶山村(けいざんむら=現会津若松市東山)から運びこまれた。また、石垣の積み方は、3番目に掲載した写真にも記してあるように、
「穴太積み(あのうずみ=織田信長が安土城〈今の滋賀県近江八幡市にある〉を築いた際に比叡山延暦寺の麗〈今の滋賀県大津市坂本〉の出身で、穴太衆と呼ばれる石工集団が考案した技法=)」
 で築かれていた。
kouzashijo-3 ただし、寛永(かんえい)十六年(1639)時の会津藩領主加藤明成(あきなり)は、神指城の本丸に使われていた石垣すべてを、会津若松城に運び入れてしまい、現在では4番目に掲載した写真が示すように、土塁のみしか残ってはいない。さらに、本丸を囲む二の丸は、東西二百六十間(約468メートル)南北二百九十間(約522メートル)ほどの広さがあった。2番目に掲載した写真でも解るように、二の丸の西口部分が欠けているのは、後年の洪水によって、消滅したためと伝えられている。外堀・内堀には大川(阿賀川)の水が引き入れられ、本丸の戌亥(いぬい=北西の方角)には、5番目に掲載した写真のような、大天守と小天守とが連立して築かれる予定であった…。けれど、その雄姿は地上に一度も出現することなく、会津若松城の二倍のスケールはあったとされる、神指城造営は中止となった。この築城をもって、
「上杉景勝に謀反の兆しあり!」
kouzashijo-4 との口実を家康に与えてしまったことが、建設中止の原因であったとされている。
 しかし、本当にそうだったのであろうか?。三池純正(みいけよしまさ)氏はその著書『守りの名将・上杉景勝の戦歴』(洋泉社発刊)の中で、こう述べている。
「もし、景勝が前々から家康を迎え撃つことを想定していたとしたら、要害性の最も低い平野の真ん中に(現場に足を運んで見れば納得するのだが、標高はほとんどない)領民を大動員して、新たな城を築くなどまったくの無駄である(中略)その事からも解かるように、景勝はここに会津の中心、若松城に代わる領国経営の拠点となる城を築こうとしたのであろう」
 と。
 さらに、城内の一角に設置された、観光客用のパンフレットが入った箱から一枚頂戴した資料を読んでみると、
kouzashijo-5「景勝(進言したのは、恐らく兼続であろうが)の構想では、二の丸西口門あたりの船付場から、高瀬舟で大川(阿賀川)を塩川村(この地は米沢街道の宿場町として発展し、会津盆地北部の経済上の要地であった)の湊まで下り、さらに帆掛船で阿賀野川(福島県を流れる間は阿賀川、新潟県に入ると阿賀野川と名が変化する。長野県を流れている間は千曲川、新潟県に入ると信濃川となるのと同じ理由である。ちなみに、この阿賀野川以北を本拠地とした豪族が揚北衆=あがきたしゅう=と呼ばれる集団であった)を下って日本海に出て、諸国との貿易を盛んにし、百二十万石の領国を、より豊かにしようと考えた」
 とある。確かに、景勝はまだ越後(今の新潟県)の領主であった天正八年(1580)六月に、信濃川に沿う河井(現小千谷市)からの船一艘の自由通航を許可する書状(歴代古案)を発給しており、阿賀川航路の開発に意欲を示した可能性は、十分に考えられる。だが、しかし、であった…。
 慶長五年(1600)九月十五日、岐阜県不破(ふわ)郡にある関ヶ原盆地で行なわれた"天下分け目の戦い"に勝利した徳川家康は、景勝を自分に弓引いた男と断定して、会津百二十万石を没収、米沢三十万石への国替を命じたのである。その際景勝は、
「このたび、会津を転じ、米沢に移る。武命の衰運、今に於(おい)ては驚くべきに非(あら)ず」
 ぽつんと一言、そういったのみだったという。いかにも無口な、彼らしい感想といって良い。こうして神指城は完成を待たずして廃城となり、本丸の石垣はすべて破却された。
 今こうして、その城址の一角にたたずんでいると、戦国時代の栄枯盛衰の有様が、ひしひしと私の胸に迫って来る。そして、過去にも一度、同じような体験をしたことがあるとふと思った。
 −そうだ、あれはかつて石田三成が居城としていた、佐和山城(滋賀県彦根市)を訪れた時のことだ。少しずつその時の情景が、私の脳裏によみがえって来た。標高233メートルあるその城の本丸跡に立って、眼下を眺めると、JR東海道本線の線路をはさんだ向う側に、こんもりとした丘が見えた。直線距離にして2キロメートルほど。そこに築かれたのが彦根城だ。慶長八年(1603)井伊直継(なおつぐ=直政の嫡男)は、この城の造営に取りかかるが、この際彼は、佐和山城にあった建物や石垣など、使える資材はすべて新城建築のため、根こそぎ運び去ったのである。
 つまり、関ヶ原の戦いを境にして、世の中が、豊臣の時代から徳川の時代へと大きく変わって行く、それを如実に示す現象が、この神指城でも起こったのである。4番目に掲載した写真は、見た限りでは何の変哲もない土塁にしか過ぎない。けれど、しばらくその場に留まっていると、歴史の激しいうわりが、そこから見えて来るのである。それを教えてくれたのが、上杉景勝が築きあげようとした、この神指城といって良いかも知れない…。


(2017年6月26日14:45配信)