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寄稿「上杉景勝と関ヶ原の戦い」斎藤秀夫


saitohideonew  寄稿者略歴
 斎藤秀夫(さいとうひでお)
 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの 夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)『男たちの夢—歴史との語り合い —』(同)『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)『桔梗の花さ く城』(鳥影社)『日本城紀行』(同)『続日本城紀行』(同)『城と歴史を探る旅』(同)『続城と歴史を探る旅』(同)『城門を潜って』(同)



 慶長(けいちょう)三年(1598)八月十七日、一代の英雄児豊臣秀吉がこの世を去った。享年六十三歳と伝えられている。その秀吉の死を知って、
 ーさんざん待たせおって…
 そう呟いた男がいる。徳川家康その人であった。天正(てんしょう)十年(1582)六月二日、京都本能寺で織田信長が、家臣の明智光秀の謀反に会い、あっさりと殺されるという事件が起きた。その報に接して、
 ー信長殿の跡を継ぐ者は、このわししかいない。
 そう家康は考えたのだが、何と秀吉なる人物が、あっという間に台頭して来て、気がついた時には、自分の上位を占めるようになっていたのである。家康は歯ぎしりするほど悔しかったが(なぜなら、秀吉は信長の家臣であり、自分は長年の同盟者、いわば信長とは対等の関係にあったからだ)それでもじいっと耐えた。幼いころからこの人物は、我慢することには慣れていた。それが、秀吉の死によって、
 ーいよいよ、わしの番が来た!
 そう思った時から家康は、"律義者の三河殿"から"天下簒奪(さんだつ)の鬼"に変身したと表現しても良い。その証拠に、文禄(ぶんろく)四年(1595)に秀吉が定めた"大名同士の私婚禁止令"を無視して、ひそかに伊達政宗の娘五郎八(いろは)姫を、六男松平忠輝に、豊臣恩顧の大名福島正則の子正勝に養女を、同じく加藤清正の子忠広に養女を、嫁がせる約束を交わしたりしだしたからである。天下人秀吉の遺法は、五大老筆頭の家康が、まず守るべきものであり、それを破ることは、秀吉に対する背信行為であった。そんな家康の変貌に危惧をいだいたのが、秀吉の側近石田三成と、その盟友直江兼続の主君、上杉景勝であった…。
 とはいっても景勝は家康と同じ五大老の一人であり、表立っては、家康と敵対することは出来ない。しかも、秀吉が在命中に残した負の遺産、"中国大陸からの兵撤退"という重要な仕事が残っているから、容易に国元へ帰ることは許されなかった。やがて、どうにか戦後処理を済ませ、一段落ついた慶長四年八月、景勝はやっと、国元へ戻ることが可能となった。
 会津へ戻った景勝は、すぐさま執政の直江兼続を呼び出し、
「まず、地力の回復に努めよ」
 そう命じたのである。しばらく国元を離れていたので、橋や道路の痛みがかなり見られ、その補強なくして、国の発展はあり得ない、そう景勝は考えたのである。その上で軍事の充実を心がけるよう、そう申し渡したのである。もとより、上杉景勝は無口な男であるから多くを語りはしない。だがそれでいて、
「沈毅(ちんき=落ちついていて物に動じない)にして断あり、豪邁(ごうまい=気性が強く衆にすぐれている)にして大胆」
 と『名将言行録(岡谷繁実が記述した)』でそう称された男であったから、家康にとってはそんな景勝が何を考えているのかわからない不気味な存在に映ったに違いない。その上彼の背後には百二十万石の石高と、先代謙信が育て上げた、上杉軍団が控えていたから、
 ーこいつには、気をつけないといけない。
 と家康が強い警戒心を景勝に抱いたとしても、何ら不思議ではなかった。そんな折、隣国越後(今の新潟県)の大名堀秀治(ひではる=秀政の嫡男)から、
「景勝は領内に神指城(こうざしじょう=この城については『米沢日報デジタル・上杉景勝神指城を築く』を検索されたし)なる城を造営し、弓・鉄砲などの武器の調達、浪人たちをしきりに召抱えている様子。さらに、旧領の越後において、一揆を起こすべく画策している気配あり」
 との書状が届けられたのである。さらに、慶長五年(1600)三月になると、上杉家の重臣で、津川城(新潟県東蒲原郡阿賀町)の城主藤田信吉が、妻子、家臣ら二百名を率いて、上杉家を出奔するという事件が起きた。そして、信吉からも、
「景勝に、謀反の兆しあり!」
 との情報が寄せられたのである。事態を重く見た家康は、すぐに詰問使を会津に派遣することに決め、景勝にその真意を問い正すことにした。そのあたりの様子を、『上杉家御年譜』では、こう記述している。貴殿に、謀反の疑いがあるがどうなのだ?もし、そうでないというのであれば、
「霊社の起請文をもって申し訳せよ、早々に上洛して千言万句申し述べられよ」
 そう迫った。これに対して景勝は、
「謀反の企てなどない。道路や橋を整備するのは、亡き太閤殿下の遺命に従ってのことであり、また、新たな城を築くのは、今使っている会津若松城が狭くなったがゆえである」
 そう答え、
「それでも我が事を疑い、家康公が会津表まで兵を進めるのであれば、それは是非ないことである」
 そうつけ加えたと、先の文献にはある。要するに、攻めて来るなら、いつでもお相手いたす、そう開き直ったのである。まさしく、
「沈毅にして断あり」
 そんな景勝の性格を、むき出しにした瞬間であった。
 慶長五年七月七日、江戸城二ノ丸に諸大名を召集した家康は、"軍中条目=ぐんちゅうじょうもく"を発した。要するに、会津の上杉を討つ!、そう宣言したのである。すでに、家康の有力な対抗馬になりうる前田利家はこの世を去っており、その跡を継いだ利長には父ほどの器量はなく、母芳春院(ほうしゅういん)を人質として江戸へ送り、家康へ誓詞を差し出すことによって、前田の家を保つのがやっとの状況であった。さらに、もう一人の五大老の宇喜多秀家も内紛を抱えていて、その処理に頭を悩ませており、この時点で、家康に異を唱えられる勢力は、上杉家と毛利家ぐらいしかいなくなっていたから、家康はまずその一つを叩くことにしたのである。同月二十一日、諸大名を率いて江戸城を出陣した家康は、鳩ヶ谷(埼玉県鳩ヶ谷市)・岩槻(同さいたま市岩槻区)・古河(茨城県古河市)にそれぞれ一泊したのち、二十四日小山(栃木県小山市)に着陣した。一般的には、
「石田三成挙兵!」
kagekatsu1 その報を家康が入手したのは、この小山においてであるといわれているが、実際はその前日の、古河であった可能性の方が高いと、最近では考えられている。というのも、家康は七月二十三日、山形城の最上義光(よしあき)に宛てて、
「石田三成、大谷吉継らが触状(ふれじょう)を廻しているが、ひとまず、米沢口からの進撃を中止して後命を待つように」
 との指示を与えているので、家康はこの段階で、上方からの情報を得たものと思われる。いずれにしても、この小山において、家康が諸大名を集めて"小山評定"を開いたことだけは確かであろう。『板坂卜斎=ぼくさい=覚書』にも、
「三間(約4.8メートル)四方の御殿御造(おんつく)らせ、此(この)広間へ大将御集(おんあつ)まり」
とあり、小山市役所のすぐ前には、1番目に掲載した石碑が建てられてあった。
kagekatsu2 一方、上杉景勝の動きであるが、慶長五年正月、伏見にあって上杉藩留守役を勤めている千坂対馬守より"会津攻め"の報告を受けた景勝は、家臣たちを集めて一致団結を強調、
「すぐさま、防戦の準備をせよ!」
 そうきつくいい渡した上で、領内に長大な防塁を築くことを計画した。白河小峰城(福島県白河市)の南およそ5キロメートルの地点に"革籠原(かわごはら)"という広大な湿地帯があるが、そこに防塁を構え、さらに阿武隈川(あぶくまがわ)の流れを堰止めて水を流しこみ、一気に敵を壊滅させようという作戦である。その防塁跡は今でも残っていて、私も一度訪れたことがある。(その時写したのが、2番目と3番目の写真である)ただし、3番目に掲載した写真でも解るように、平成十八年(2006)に"鍛治屋敷"のすぐ西で中学校建設に伴い、発掘調査が行なわれた際、芳野宿(よしのじゅく)と推定される集落跡と、その集落内を通っていた中世の奥州街道が発見された。
kagekatsu3 この事実からしてこの遺構は、街道沿いにあった芳野宿を囲むための堀ではないのか、しかも、これを防塁跡とするならば、その中世の奥州街道を遮断しなければ意味がなく、平行線に掘られているこの遺構は、どう考えても防衛線としては不自然である…。三池純正(みいけよしまさ)氏はその著書『守りの名将・上杉景勝の戦歴』(洋泉社発刊)の中でそう指摘している。さらに、この遺構を散策したあとに寄った、白河市歴史民俗資料館の学芸員の方も、
「昔は防塁跡とした記した文献はありましたが、今ははっきりとは断定出来ないので、パンフレットの発刊は中止しています」
 そう述べていたので、どうやら"革籠原防塁"は幻だった可能性の方が高い。そうはいっても、『東国太平記』に、
「近辺の在々里々(ざいざいさとさと)を焼き払い、山林竹木を切り取り道を作り、地をならし、三里四方一面に畳の上の如(ごと)くにして待ち掛け(受け)たり」
 とあり、さらに『歴代古案』にも、
「景勝七月初旬に白河表普請督励(とくれい)」
 との記述が見えることから、景勝が何らかの策を講じたことは事実であるに違いない。先の三池氏は『上杉家御年譜』の中に、
「南は高原峠(栃木県日光市、当時は上杉領)山王峠・火玉峠(両峠とも栃木県から会津に通じる)と云い、三つの難所あり。麓の横川宿という所に大国但馬守(たじまのかみ)に兵士を差し副(そ)え守らしむ」
 そうあることから、景勝の築いた防衛施設は、このあたりではなかったかと推定している。なるほど、但馬守とは直江兼続の弟大国実頼(さねより)のことであり、彼は山王峠と火玉峠の中間にあって、標高749メートルの愛宕山(鴫山=しぎやま)を中心に築かれた鴨山城(福島県南会津郡田島町)の城将に命じられているので、主君景勝から、何らかの指示があったと考えられる。こうして、敵を待ち構える体勢を整えた景勝であったが、ついに敵は進軍して来なかったのである…。
 七月二十四日、小山で軍議を開いた家康が"上杉征伐"を中止し、
「石田三成を討つ!」 
 そう諸大名に宣言して、その矛先を上方へと向けたからである。この時、直江兼続が、
「この機に乗じて、御馬を出(いで)され追懸(おいか)け候はば(中略)勝利目前にあり、一時も早く御出馬なさるべく候」
 そう進言したのに対し、
「いや、それはわが上杉家の軍法にはない」
 そう答えて、景勝は兼続の意見を退けたと『北越軍記』では書いている。一方、
「徳川家康が西へ向かった」
 その情報をつかむ前に、果敢に動いた武将がいた。岩出山城(宮城県玉造=たまつくり=郡岩出山町)に居を構える、伊達政宗その人であった。七月二十四日早朝には白石城(宮城県白石市)を包囲し、午後二時には城攻めを開始した。白石城は慶長三年以来、上杉氏の支配下となっていたが、もともとは伊達氏の本貫地(ほんがんのち)であり、旧領回復の意図を秘めた、政宗の電撃作戦であった。そのため、攻城戦は熾烈(しれつ)をきわめ、その日の夜半に城は落ちた。この報を受けて景勝は色めきたったが、直江兼続が、
「白石城攻撃を見逃しても、政宗と和を結ぶべきです」
 そう説いた。彼の胸中にはすでに、最上攻めが計画されていたからである。
 もともと最上義光(よしあき=政宗の母保春院の兄)は、北奥羽の諸将(南部利直の五千、秋田実季=さねすえ=の二千六百、戸沢政盛=まさもり=の二千二百、その他を含めて計一万一千余)と山形城で合流した上で、"上杉攻略"を命じられていたのだが、突然の作戦中止となり(それは前に紹介した家康の手紙からも読み解くことが出来る)それぞれの国元へ戻って行ったから、山形城には自軍の六千五百の兵数のみとなってしまった。
「そこを討つべきです」
 と兼続は主張するのである。
「よし!」
 景勝はやがて腹を決め、二万数千(諸説あり)の兵を兼続に預けて、最上領への進軍を開始させた。まず上杉軍が向かったのは、上杉氏に対する最前線基地となる畑谷城(山形県東村山郡山辺町)であった。これに対し、城内には、
「随属の勇士一騎当千の者百余人籠城す」
 と『上杉家御年譜』にあるように、城主江口五兵衛光清(あききよ)以下、わずかの兵しかいなかったから、主君義光は、
「すぐさま撤退して山形城へ入れ」
 との指令を出していたのだが、五兵衛はこれを拒否、あっという間に、落城となった。この時の様子を兼続は、秋山伊賀守に宛てて、こんな書状を送っている。
「城主江口五兵衛父子共首五百余討捕候(うちとらえそうろう)と。たった一日で畑谷城を陥落させた兼続は、あくる日の九月十四日、今度は『羽源記』に、
「四方嶮岨(けんそ=けわしい所)にして峰高く、腰には川流あり頗(すこぶる)深し」
kagekatsu4 そう称された長谷堂城(山形市長谷堂)を攻めるべく、菅沢山(すげさわやま)に本陣を構えた。そこから長谷堂城までは、直線にしておよそ一キロメートル。兼続が本陣を構えた場所からは、長谷堂が良く見えた(4番目に掲載した写真参照)
 九月十六日、兼続は味方の兵に対しkagekatsu5、突撃命令を下した。だが、4番目の写真でも解るように、城の前方には、今でも田圃が広がっている。合戦のあった当時は新暦に直すと十一月上旬に当り、すでに稲は刈り取られていたに違いない。それに畦道(あぜみち)は狭く、その上、5番目に掲載した写真が示すように、帯曲輪などが随所に築かれていたから、上杉軍はなかなか攻略出来ないでいた。これに対し、最上軍は廻りの地形に精通しており、ゲリラ戦法で上杉軍に対抗した。この敵軍の執拗な抵抗に、兼続は焦燥を覚えた。前にも記したように、彼の胸中には山形城攻めという戦略が描かれており、一刻も早く長谷堂城を陥落させ、最上家の本城への進軍を開始したかったからである。そんな折、兼続のもとに、
「関ヶ原(岐阜県不破郡=ふわぐん)において、東軍勝利!」
 の情報がもたらされたのである。最近、上杉景勝の家臣で"会津三奉行"の一人安田能元(よしもと)宛ての兼続の書状が発見され、
「只今(ただいま)白河より申来候(もうしきたりそうろう)は、上方散々に罷り成り(まかりなり=敗北)候由(よし)」
 と記してあって、その日付が九月二十一日となっていることから、兼続はその段階で盟友石田三成の敗戦を知ったということになる。やがて、景勝から、
「早急に撤退すべし!」
 との命令が下った。兼続としては無念であったろうが、主君の命には逆らえず、十月一日、本国への引き上げを開始した。
 これを知った最上義光は、この時とばかりに上杉軍の背後から襲いかかったのだが、兼続は何とか、逃げ切ることが出来た。これを見て義光は、
「さすがは直江、見事、勝ちに乗ったわが軍に損害を与えつつ、つつがなく帰陣したのは、謙信以来の武勇の伝統」
 そう絶賛したという(片桐繁雄氏著『北天の巨星・最上義光=最上義光歴史館発刊』より引用)
 こうして、上杉景勝にとっての"関ヶ原の戦い"は終りとなるのだが、戦後徳川家康から会津百二十万石を没収され、米沢三十万石への国替えを命じられたのは、衆知の通りである…。

(2017年9月7日14:45配信)