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戊辰戦争150年歴史評論 『家康の想定外の瑕疵』

                        米沢鷹山大学市民教授 竹田昭弘
takeda 寄稿者略歴 竹田昭弘(たけだあきひろ)
 昭和20年、東京生まれ、米沢市育ち。明治大学政経学部卒業。NEC山形を経てミユキ精機(株)入社。経営企画室長を歴任。平成19年退社。米沢市在住。


「徳川幕府は薩長など西国雄藩によって倒されたのだろうか。否、徳川家そのものである御三家の水戸徳川家に倒されたとも言えるのではないか。謂わば自壊である。さすがの家康もそこまでは想像もしていなかったに違いない。あろうことか、"獅子身中の虫"が水戸家であったのだ。鳴りを潜め幕末に表に出た。いわば幕府は創設時より叛乱分子を抱えて動き出したのである。」
 
boshin1 慶応3年(1867)10月、一橋慶喜(水戸徳川斉昭の子)は政権を朝廷に返還した。所謂、「大政奉還」である。実に幕政264年間の総仕上げであった。水戸家出の将軍がしたのである。これを遡ること7年前の安政7年(1860)3月、強権で水戸藩を抑えていた幕府大老井伊直弼が、水戸脱藩浪士らによって桜田門外に於いて暗殺された。皮肉にもこの事により幕府の弱体化が進み、崩壊へと転じるきっかけとなる大きな事件であった。                       (写真=井伊直弼が暗殺された
                              旧江戸城桜田門)

boshin2 だがその2年前の安政5年(1858)8月には孝明天皇の密勅(討幕の)が水戸藩に下賜されるという大事も起きていた。これが井伊暗殺の引金になったのである。幕府のお膝元の御三家がそもそも徳川幕府を倒そうとしたのである。尾張藩も宗家を倒そうと尊王に傾いていたが、水戸藩とは異質なものであった。紀州藩のみが幕府の意向に沿った。で井伊直弼は紀州藩から将軍を迎えている。謂わば「真の敵」は西国雄藩ではなく、徳川家の身内そのものにあったとも言えるかもしれない。(写真左=井伊直弼の墓)

boshin3 果たして水戸藩の尊王思想の芽はいつ萌芽したのだろうか。御三家を設けた時まで遡るのである。御三家水戸家は家康11男の頼房を始祖として興された。その2代目光圀は若き頃より尊王に目覚めていた。光圀は「大日本史の編集に取り掛かる。その主旨は、「日本国は天皇(朝廷)を中心にして成り立ってきた、幕府が中心ではない」という考えである。それはややもすれば徳川家と幕府そのもを自己否定しかねない危うさを抱えるのであった。だがそこには討幕という意識はないのだが、その間隙を狙われる危険はあった。幕末にそこを衝かれることになる。(写真上=旧水戸城)

boshin4 光圀は藩主になると尊王思想が強く、徳川幕府下に身を置きながら天皇(朝廷)を自らの上に置くという考え方を有した。所謂、「先朝後幕」思想だが、天皇の委託を受けて幕府が天下の仕置を行うのであって、徳川家と幕府が朝廷の上に立つものではないとしていた。これらは「水戸学」とも言われ、天皇に忠誠を尽くすことにあって幕府が望む学問ではなかった筈である。水戸藩は幕末にこれを藩論として展開し、幕府とは一線を画すことになる。(写真右=水戸藩初代 徳川頼房の墓)
boshin5 その主たる人物が藩主水戸斉昭であり、その意を受けて理論武装してゆく藤田東湖や会沢正志斎という藩の学者たちにより強固なものになってゆく。その考えに共鳴したのが西国雄藩の者達であった。特に"徳川憎し"に燃える長州藩や薩摩藩に影響を及ぼした。長州藩は吉田松陰を開明の先駆けとして藩政に大きな影響を及ぼし、薩摩藩では藩主島津斉彬が自ら藩論をリードした。(写真=水戸光圀の墓)
boshin6 即ち、東の水戸藩と西の西国雄藩の急接近が起きることになる。水戸学の噂は西国にまで知れ渡り、薩摩藩の西郷吉之助、長州藩の桂小五郎らの耳に入り、本家水戸家へ出向きその本筋を直に学ぶという挙に出るのである。もともと水戸家の尊王論は先述の如く討幕を意図したものではなく、「朝廷を守るために幕府があり、その幕府を統御するのが徳川家である」というものであったが、しかし時代が下り幕末の頃になると、その意図するところを西国雄藩の士達らが尊王の水戸藩に学ぶと、自分達の都合のいいように形を変えてゆくのである。それは「倒幕・討川」という悲願でもあった。(写真上=水戸斉昭の墓)

boshin7 西国雄藩は幕府を倒すために朝廷を担ぎだし、朝廷の云うことには服しながら幕府を刺激した。天皇は"外国嫌い"であったという。そこから「外国人を打払う攘夷」という思想を前面に出すことで、幕府が指向する「開国という国策」と対峙する。本来なら幕府が攘夷の立場である筈である。幕府は創設時より鎖国を国是としてきたことから、押し寄せる外国船や異人に対して進入を拒絶すべきものだったが、幕臣にも開明的な人々がいて外国人を追い払うことの愚劣さを知り、開国して外国と共存すべきと進言すると幕府の見解として、開国を早々に打ち出していた。ここに幕末に於いて日本中が攘夷派と開国派が正面から激突するのである。(写真=藤田東湖生誕地)

boshin8 攘夷派は朝廷を後ろ盾にした。だが後に西国雄藩の筆頭薩長両藩は英国との所謂、文久3年(1863)の薩英戦争、元治元年(1864)の長州馬関戦争を体験することで、外国の脅威を体感し攘夷の難しさ・愚かさを認識した。それ以降英国との関係を見直し、友好関係に変えてゆく。当然の如く最新兵器の調達にも手を下し、幕府との対決に優位性を見出してゆくのである。
(写真右=東京都世田谷区にある松陰神社)


 しかしながら西国雄藩の狡さ・卑怯さは実はここにある。自らが標榜してきた「攘夷思想は間違っていた、幕府が主張する開国思想が適切な時世観である」という見解を表明することはなく、これをひた隠して一気に方針を転換した。それが尊王討幕である。やっと本音が見えてくるのである。当初から「幕府を倒すという目標を持ちながら、それを正面切って云いださず、天皇(朝廷)を担ぎ挙げて尊皇とし、その権威を利用して攘夷論を展開した。
boshin9 幕府はさすがに天皇(朝廷)を敵とすることに躊躇した。その権威の傘の下に見え隠れする不穏分子を取り除くしか手立はなかったのである。朝廷とその不穏分子にあろうことか水戸藩が結び付いた。まさに家康が想像もしていない事態が起きるのである。
(写真左=吉田松陰の墓)

 では徳川家康はどのように幕府をつくり、又徳川家を守ろうとしたのだろうか。
 御三家は幕府を側から補佐し、徳川宗家を支えさせる為に設けたのであるが、うまく機能せず中期に於いて8代将軍吉宗が御三卿を新設してこれに代えようとした。家康は3代までは何が何でも持たせようと考えていたという。その後については預り知らぬこととしていたと言われる。それで、家康は徳川家とその後については秀忠に託し、幕府は家康の落胤とも言われる老中の土井利勝に託したというのである。
 家康は今川義元亡き後の駿河・遠江の取り合いを武田信玄と争い、勝頼とも抗争しこれを得た。天正10年6月、「本能寺の変」が起きて、織田家の手が離れた甲斐・信濃に間髪を入れずに侵攻して、ここも手中にした。即ち、「本能寺の変」は家康にとり転機となった。武田家が治めていた甲斐・信濃は武田家が滅亡して以来、織田家の河尻秀隆、滝川一益などが統治していた。しかし信長が死んだことでこの地域において武田家旧臣が扇動した一揆が起きる。河尻は殺され、滝川は信濃を逃げ出し、統治不在の状態に陥った。徳川家康はこの機を逃さず、甲斐・信濃へ侵入し迅速に占領したのである。このことで家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5ヶ国を領す太守となった。
 だが信長の後継を目指す羽柴秀吉の勢いは凄まじく、ライバル柴田勝家を倒して信長の後継者となった。東国にて着々と領地拡大をする家康と天下を競うこととなるのだが、秀吉の方が実力が上回っていた。家康は秀吉の下にあって次を狙うことする。
 東国への覇権をかけて秀吉は小田原城を囲み、北条氏討伐の作戦を実行する。天正18年7月についに北条氏が倒されると、秀吉は家康を関東へ移した。家康が領している5ヶ国を取り上げて、北条氏の領土であった関東へ体のいい追い出しをはかったのである。家康は是非もなくこの申入れを受けた。拒否することはできなかったからである。秀吉に対抗できる力量が無かった為である。
 しかし家康は広い関東平野と湿原の江戸に将来像を描いた。江戸に腰を落ち着け、新府江戸の構築に取り掛かったのである。大坂にあった秀吉と遠く離れた江戸であったので、腰を据えて取掛かることができた。こうして徳川家と幕府の永遠の拠点ができあがるのである。

 今流に云うならソフトとハードの両面から家康が打った手を検証してみたい。
 先ずソフト面で見ると、徳川家と幕府を長く存続させるためにどうしたかである。徳川家に見れば、家康は徳川宗家と旧姓松平の並存を考えた。宗家としての徳川家は主体として存続させるために、幕府の棟梁たる将軍家とそれを支える御三家という補完体制をつくった。御三家は将軍家・宗家に何かあればそれを補佐し支え幹たる将軍家を維持する役目を担っていた。それも家康が晩年にもうけた9男義直に尾張家を、10男頼宣に紀州家を、そして11男頼房に水戸家を興して当主とさせた。家康は子沢山であったが、嫡男信康を苦渋の末に失っている。次男秀康は秀吉との和睦の証に人質として送られて結城家に入った。一番頼りになうべき嫡男とそれに次ぐ次男を徳川家から失った。凡庸だが実直の秀忠に家督を譲り2代将軍とした。
 家康は何故、多くいる子供等の中で8男までの間に御三家をつくらなかったのだろうか。長子次子は上述の如くで不可能である。4男以下にその器量にふさわしい人物がいなかったのであろう。4男忠吉は関ヶ原の戦いの傷がもとで病死した。5男信吉は家康の命により旧武田家に入るが、後年は水戸家に封じられ病没した。6男忠輝は家康に嫌われるが、猛々しく戦国時代の静謐期にはとてもむかない。幾多の変遷を経て諏訪にて亡くなる。7男松千代は生後間もなく養子に出され夭逝した。8男仙千代は生まれるとすぐに平岩親吉のもとに養子に出され、やはり夭逝している。
 こうしてみると「関ヶ原の戦い」がひとつのきっかけであることが分かる。この戦の後に家康は早々に幕府を江戸に開いた。平和な時代の到来という状況下で、9男以降は御三家創設による恩恵を受けて徳川家護持の任務を負うこととなる。

 徳川家が主人たる幕府は江戸に置かれ、政治の府として機能してゆく。幕府の将軍位は徳川家のものしか就くことができない。例え御三家の者であっても幕閣に入ることはできない。幕府を支える官僚は譜代大名と決められた。それも知行は薄く幕閣の老中でさえも多くて10万石程度であった。下役には旗本も起用した。これは家康が決めたもので、政治権力を握るものは財力を押えるという巧みな差配であった。
 一方で外様大名には知行は多く与え財力大であるも、幕府内における政治権力は持たせないやりかたで臨んだ。しかしながら外様大名は藩主として国許にあれば自領の政治権力は一手に握ることができた。所謂、政治権力と財力の分離をはかる幕府の根幹政策であった。このため例え100万石の加賀藩藩主前田家でも、幕府に於いては10万石の老中やそれ以下の旗本らに頭を下げねばならないということになる。
 幕府の組織は三河時代に在地土豪として松平氏が存在したときの形を踏襲した。老中や若年寄、奉行など家康は以前巧く機能していた職制をそのまま幕府にも転用したのである。それと幕閣は将軍が代われば顔ぶれが変わるということにして、悪い温床を作らせない仕組にしたのである。将軍の下で長く政治権力を持っていると、淀みができてとろくなことが無いという悪弊を防ぐ為である。そして幕閣(老中・若年寄等)には譜代大名が自藩から出仕して仕えるというシステムを作った。有能な人物を譜代大名の中から抜擢し、統合体である幕府の任務に就かせたのである。幕閣は一旦幕府を辞して藩に戻れば、藩主として領内の藩政に就かねばならない。このことで、将軍が例え器量が無くとも、その下の幕閣(老中)らがいい仕事をしてくれれば幕府の機能は十分に働くということを示したのである。
 幕府は中央政府機能を担い各藩が個別の国々を治める。自主性を認めた上でである。中央と地方の共存を指向した幕藩体制を布いた。豊臣政権が布いた中央集権制は自由裁量の余地が無く、何れ行き詰まるとみていた家康は新しい仕組みを考えた。それが幕藩政治であり、盤石の政治体制と期待した。幕府ができあがると家康、秀忠、家光の3代は厳しいルールで体制をガードしようとした。それは武家諸法度・禁中並びに公家法度・寺社法度であり、徳川家・幕府に害となる存在を規制した。
 理由はどうであれ徳川の時代は250年余の間、国内での戦争が起きなかったことを見れば、家康の指向したものは成功したとみていいだろう。
      
boshin10 もう一つのハード策とは何か。それは幕府が政治を行う拠点を江戸とし、その府たる江戸城を護持する為に城下の整備と江戸城外の戦備エリアの構築であった。
 すなわち江戸城を守る為に濠を二重三重にまわし、城外には多摩川、隅田川、荒川、江戸川を大きな外堀として機能させ、外輪の堀として利根川までその防御線とした。(写真右=旧江戸城坂下門)
 家康が天正18年8月、江戸に移ると、譜代の家臣らをこの関東の周囲に配した。そこには家康を支えた武勇の才覚者を配した。房総半島の大多喜藩10万石には本多忠勝を、榊原康政には館林藩10万石を、酒井家次に下総臼井藩を、平岩親吉には上州前橋藩を、井伊直政には高崎藩を、小田原藩には大久保忠隣をというように家康を護る為には捨身の勇将達が関東一円に配された。
 それはその外側に存在する外様大藩を牽制する為のものであった。佐竹、伊達、上杉、最上、前田らの北国の外様大藩を牽制させたのである。そして何より水戸家、尾張家、紀州家に外様大名や時として譜代大名さえも監視する役目を担わせた。このように譜代と御三家が複雑に入り組み、外様大名に反抗の隙を与えないというものであった。

 江戸の守りはこれだけではなかった。江戸に入る街道筋に要となる城を配して、敵の進攻を食い止めるべく居城を整備した。遠く大坂城を幕府の直轄管理下に置き、城代を配して幕府の意向が直に伝わるように守りを固めている。西国の想定敵に備えるべく紀州に御三家を置き、大坂城と紀州藩で畿内に敵をとどめるべく任務を負わせていた。そして東海道を関東へ下れば、名古屋城で敵を叩こうとした。そこに御三家の尾張藩を置いた。紀州藩と尾張藩で西国の敵の侵攻を阻止するという役目である。尾張から江戸までの間には譜代大名を配して、幕府に歯向かう勢力の侵攻は困難であった。箱根を越えると小田原城があり、天下の巨城が関東を守る仕掛けである。
 外様大名は江戸から遠く北関東や東北方面に追いやられた。西では大坂以西に外様大名が多く配された。所為、外様大名は江戸から遠ざけられたのである。もし東北から江戸を攻めるとなれば、利根川や荒川を渡河し、譜代大名の所領を攻め抜き、隅田川や多くの堀割に出くわし、江戸の町に入ると寺町や旗本屋敷を攻め抜き、最後に外濠を渡ると譜代大名の屋敷が並ぶ一画に入る。それでやっと江戸城の足元に辿りつけるという実に堅固な守りに力が尽き果てるのである。江戸はこの他に意外にも坂が多いのである。武蔵野台地の先端には上野、本郷、麹町、麻布、品川等の台地の先端が江戸城の周りまで伸びていた。攻める側にすれば体力消耗を強いられる地形であったに違いない。

 慶長8年(1603)に家康は幕府を開き、その府を江戸に置いた。以来、江戸を攻めた軍勢はない。江戸から西を目指したのは徳川軍であり、西からも北からも江戸に攻め入った軍勢はないのである。それだけ江戸は盤石であった。
 だが幕末にようやく征討軍が江戸に攻め寄せた。しかしこれとて戦をせずに江戸城を開城し江戸の町が火に包まれることはなかった。刀槍・銃火器の軍勢の侵攻ではなく、「思想」という次元の違う軍勢が幕府を攻めて倒した。その思想、尊王は水戸家に始まり水戸家で終わったといってもいい。その経緯の中で主君たる徳川宗家を討つという予想外の歴史事件で終わるのである。
 家康は前述のように、信長や秀吉とは違った独創的な政治の仕組を考えて実行した。又、物理的には超大な縄張りというべき江戸城防衛網を構築した。その効果もあり家康が目論んだ通りに徳川家の護持が成し得たと見られるが、"上手の手から水が漏れる"の例え、子孫の代においてまさか自分の足元から崩れるとは想像だにしていなかったに違いない。家康の成功ストーリーの陰に隠れた唯一の「瑕疵といってもいいだろう。しかし平和な時代を260年も維持した徳川幕府は世界でも稀であろう。瑕疵を補っても余りあると思われる。どうであろう。

(2018年2月1日14:30配信)