newtitle

戊辰戦争150年歴史評論 明治維新とは何だったのか

                        米沢鷹山大学市民教授 竹田昭弘
takeda 寄稿者略歴 竹田昭弘(たけだあきひろ)
 昭和20年、東京生まれ、米沢市育ち。明治大学政経学部卒業。NEC山形を経てミユキ精機(株)入社。経営企画室長を歴任。平成19年退社。米沢市在住。



 今から150年前に戊辰戦争(徳川幕府勢力×西国雄藩連合勢力)が起きた。その結果は西国雄藩連合勢力が勝利した。260年も続いた徳川家による江戸幕府と諸藩による幕藩体制が、たった1年余の戦いにより呆気なく崩壊した。勝利した西国雄藩勢力は天皇(朝廷)を国の中心に据え、かつて南北朝時代における後醍醐天皇による天皇親政の国家政体に復した。
boshin2-2 明治維新は英語では〔Meiji restoration〕とも〔Meiji revolution〕とも訳されている。
前者は「復元」、後者は「革命」の意味がある。一般的には日本では明治維新は「revolution」と言われているが、果たしてどうであろうか。近代西欧国家ではこの日本の劇的な体制変化を「restoration」即ち、「復元」と捉えていたのではないか。抑々「維新」という言葉が使われだすのが明治13年頃だとされる。それ以前は「御一新」と言われていたようである。(写真上=吉田松陰が教えた松下村塾、山口県萩市)  
 結論から言えば、「市民が蜂起して武器をとり、血を流して体制を転覆させるのが革命である」と言う点で、日本の場合は「武門が武門を倒した政権交代」と見るのが妥当でなかろうか。市民に関与は見られず、徳川家による長き支配構造に異議を唱え、政権の交替を企図して組織化されたのが西国雄藩連合であり、その武力決着が戊辰戦争である。その後の政体構築が凡そ5百年前の天皇親政を目指したということであり、その証左に新政府は「太政官」という前時代的な呼び方で始動している。このことから明治維新は武門による「政権交代」であり、その後に「旧体復元」を指向したのであって「革命」と言えるものではなかった。

【政権交代の経緯】
 日本の中世から近世にかけて、何回かの政権交代が行われた。平氏政権から源氏政権へ、次が後醍醐天皇の朝廷政権へ、又武家政権に戻り足利政権へ、これ以後ずっと武家政権が続く。即ち織田政権、豊臣政権、徳川政権へと言うように繰り返してきた。明治維新は朝廷政権への逆行を意味していた。即ち「復元」という表現が妥当なのではないだろうか。
 近世から見てみると足利政権から織田政権への政権交代がある。元亀4年(1573)織田信長は室町幕府15代将軍足利義昭を京都から追放した。足利氏から織田氏へと政権移譲がなされたのである。延元元年(1336)足利尊氏が後醍醐天皇を吉野に追いやり京の室町に幕府を開くと、自ら初代征夷大将軍となる。以来240年を経て幕を下ろしたのである。8代将軍義政の頃、既に幕府の体をなさず、「応仁の乱」が勃発し幕府は形骸化に拍車がかかる。世は乱れ下克上の嵐が全国に吹き荒れ、強き者のみが生きる権利を掴みとるような時代を迎える。
boshin2-13 ここに尾張の虎狼、織田信長が登場し旧態の象徴、室町幕府の15代将軍足利義昭を追放し幕府の崩壊を齎した。義昭は山陽筋に毛利家を頼り福山は鞆の浦に隠棲する。
(写真右=広島県福山市の鞆の浦)

 信長はこの政権交代を改元をもって表わした。永禄から天正へと改元したのである。だがこの織田政権も長くは続かなかった。信長の「天下布武の勢威はたちまちのうちに畿内を席巻し広く支配域を拡げて、文字通り天下統一に王手をかけた矢先、信長の独裁的政治手法は多くの怨み憎しみを醸成していたが、それが為に、寵臣明智光秀の謀叛の刃に斃れるのである。家督を継ぐべき嫡男信忠も討たれ織田政権は脆くも崩壊した。義昭を追放して以来僅か9年であり、義昭を擁して上洛し政権の認知を得て以来でも14年という短命政権であった。
 この機を好機ととらえた秀吉はたちまちのうちに光秀を討ち、宿敵柴田勝家を葬り事実上の羽柴政権を打ち立てた。ここに織田氏から豊臣氏への政権交代が成されるのである。だがこの豊臣政権も長く持たなかった。秀吉は信長の政治を踏襲した。しかもより強い中央集権制を指向した。全国の大名達は秀吉の一挙一投足に怯える。だが秀吉は慶長3年(1598)8月に病没し、豊臣政権は形だけが残った。
 関東の雄、徳川家康が満を持して登場、関ヶ原の合戦に勝利すると一気に徳川政権を打ち立てた。慶長8年(1603)のことである。江戸幕府の開設である。秀吉の子秀頼の存在は無視された。ここに完全に豊臣政権から徳川政権へと移行した。豊臣政権も短命で終わった。
 家康は2人の天才的先人や甲斐の信玄から多くを学んだ。それぞれの政権の良し悪しを実体験を通して血肉とした。徳川政権に長い寿命はひとえに家康の学習効果によるところが大である。封建制は鎌倉時代から続く日本の社会構造である。江戸幕府による政治も260年も続くと綻びが随所に出てくる。だが依然として武家社会の継続していたが幕末に至り、関ヶ原の戦いの怨念で復讐に燃える西国雄藩の長州藩、薩摩藩等が徳川政権打倒を目指して藩勢を増強し、ついに幕府に大政奉還の自壊を行わせしめる。これが徳川政権から西国雄藩連合政権への政権交代である。
 然しながらこれとて"武門が武門を討つ"という構造にかわりなく、「民が主役」の倒幕とはとても言えない。あくまで現状否定の武門どうしの政権交代の一つにしか過ぎないのである。片や徳川政権が260年も続いたことは驚異に値する。国内で国を二分するような大きな内乱は起きなかった。戦いをさせなかった「幕府のしたたかさ」が垣間見える。
 幕藩体制そのものを否定し、西国雄藩の都合のよいプロパガンダに踊らされたのが明治維新ではないのか。いたずらに「維新」という言葉を前面に出し、殊更自分達の都合の悪いことは隠蔽したのではないか。その最大の「嘘臭」が西国雄藩は幕府に対して「我々の攘夷論は間違いであった」と一言も言ってない。あくまで「尊王攘夷」は幕府を倒す為の方便にしか過ぎないということがよくわかる。

【西国雄藩の藩政】
 徳川幕府に対峙したのは西国雄藩連合である。だが長州、薩摩、土佐等の成り立ちは異にしている。ただ倒幕という点で目的が一致していた為に、小異を捨てて大同についた。長州藩毛利家は関ヶ原の怨みを骨髄にしまい込み、倒幕・討川の機会を長い間待ち続けた。
boshin2-10 薩摩島津家は秀吉により九州の隅に追いやられた。薩摩藩は家康によりそれが踏襲された。息をするのがやっという仕置にその恨みは長州藩と同様であった。幕末期に斎彬という開明的な藩主が登場し、薩摩藩は自主防衛を藩論とした。さらに幕府へも強兵政策を建言し影響を及ぼす。この思想は西郷や大久保に共鳴をもたらし幕末に公武合体へと時世をリードすることになる。
(写真右=薩摩藩鶴丸城跡、鹿児島市)

 土佐藩山内家は長州や薩摩とは異にしていた。外様でありながら家康に多大な恩義を持ち親幕府の立場をとらざるを得なかった。山内家が土佐に入部する前は長宗我部氏が土佐を治めていたが、盛親が関ヶ原の合戦で反徳川の旗幟を示したため、処刑されて長宗我部氏は滅んだ。その旧臣が土佐に残り山内家の土佐藩の下で郷士として組み込まれ、土佐藩山内家家臣の下で郷士が這いつくばって生きていた。この郷士の中に坂本龍馬や開明的な者が声をあげ、下から藩政改革を訴える。土佐藩は幕府寄りの藩として、且つ西国雄藩連合の一員として生き抜く。
boshin2-5 特に西国の外様大名の中でも先導的役割を果したのが長州藩毛利家であった。毛利家はそのルーツをたどれば大江氏に繋がる。鎌倉幕府創設に功績のあった大江広元は源頼朝の右腕として幕政にあたった。これにより広元は各地に所領を賜り四男季光を厚木毛利庄に配した。季光は三浦氏が北条氏に叛旗を翻した「宝治の乱」に加担し一族の多数を失った。だが一子経光は越後にあって生き延び、子の時親が安芸に移り毛利氏として台頭する。後年に毛利元就が郡山城を拠点に中国全土を席巻する戦国大名として登場した。一方越後に生きる一族はやがて北条氏・安田氏を輩出して上杉謙信旗下の武将として働くのである。(写真上=維新三傑の一人木戸孝允の生家、山口県萩市)

 毛利氏は豊臣政権下では当主輝元が重きをなし、慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」では、秀吉の寵臣石田三成の甘言に乗せられて西軍総大将となり、大坂城に秀頼を守る立場に至った。このことで後に家康の戦後処理の案件となり、120万石の大領が37万石に減封され広島城から萩へ移されることとなる。一族の吉川広家は大の秀吉嫌いから家康と誼を通じていて、見かけは西軍方につくも内実は参戦せず、南宮山に籠り日和見を通した。家康の東軍が勝利の暁には広家は自分の功を投げ打ち、毛利本家の本領安堵を家康と約したと言われた。
 だが蓋を開けて見れば毛利本家は大幅に削封、輝元は萩に追いやられ自分も周防岩国の小領に甘んじた。家康に反古にされたも同然であったが、拒絶することもできず唯々諾々として従わざるを得なかった。この事が毛利家の怨念として代々当主に引き継がれ、幕末に至り徳川討滅に燃えた復讐戦へと踏み出すのである。以後長州藩では徳川家追討・徳川幕府打倒が藩是となる。

boshin2-4 西国の各藩事情を少し詳しく見てみると、長州藩も時代の経過ともに藩内が守旧派と革新派に分かれ、抗争を繰り返しながら幕末を迎える。このことが他の西国雄藩とは違っていた。薩摩藩や土佐藩では武士の上下間に苛烈な格差を有していた。長州藩毛利家も身分制は厳しく下級藩士の不平不満は藩の重臣達に向けられたが、それ以上に藩内における守旧派(幕府に誼を求める)と革新派(朝廷を奉賛する)の対立の方が激しかった。吉田松陰に導かれた若手の革新派が藩論をリードし始め、毛利家当主が代々抱き続けていた"徳川憎し・幕府討つべし"の思想と同調してゆく。やがて長州藩は朝廷を担ぎ徳川幕府を討とうという明確な目標を鮮明にするのである。(写真左=松下村塾の地に立つ碑、山口県萩市)

 ここが薩摩藩島津家のように公武合体を標榜しながら、坂本龍馬による薩長連合が成ると途端に尊王攘夷、尊王倒幕へと舵をきる変幻さを見せるのとは異なっていた。長州藩は当初から一貫して尊王攘夷を唱えていた。時に幕府に接近し、時に朝廷を向いたりの首尾一貫しない薩摩藩とは相容れぬものがあった。
boshin2-9 だが薩摩藩は幕末に斉彬という開明的な藩主を得た。斉彬は富国強兵策を取り、薩摩国は自分らの手で守る自主防衛を訴えた。そしてこの思想を幕府にも求めた。この事に刺激を得、薫陶を受けた下級藩士の西郷や大久保等が立ち上がり、自藩の刷新と国の改革に燃えてゆく。薩摩藩は長州藩のように学者が藩論をリードしたのとは違い、藩主自らが改革を先導するという、当時の日本においては稀有な姿であった。(写真右=維新三傑の一人西郷隆盛の像、鹿児島市)

 土佐藩も又少し事情が違っていた。家康に恩こそあれ幕府に弓を向けるという理由は無かった。始祖山内一豊そのものが、家康より関ヶ原の功により土佐を賜って以来、土佐藩が続いていたからである。だがここでも武士の上下間の格差は苛烈であり、坂本龍馬のような郷士が下から藩の上層部を突き上げた。その度に吉田東洋という頑迷な参政に跳ね返され苦難の末に、後藤象二郎という若手の重臣を抱き込むと、藩主容堂を動かして幕府に対し穏便な政権移譲を迫らせた。薩長の強大な勢力の前に土佐藩の主張は霞んでしまう。
 だがこの様な風土の中にあって板垣退助の如き気鋭の政治家を生まれる。西国雄藩ではあくまで武士達が前面に立ち、宿敵徳川氏と幕府を討つ行動をとった。市民がここに加担し倒幕の一翼を担うなどと言うことは無かった。長州藩で高杉晋作が功山寺にて奇兵隊を結成し、広く農民、町民等を参画させて、幕府の征長軍や外国軍隊と戦うことになったのが唯一の市民戦線であった。主体は武士であり藩であり、市民が介在することは無かったのである。

【仏露の市民革命】
boshin2-14 革命と言えば仏露の革命をぬきにして語れない。1789年のフランス革命、1917年のロシア革命が直ぐに思い起される。
(写真右=国立音楽アカデミー、パリ市内)

 この2つの革命こそその主体は市民であることが共通であった。フランスでは倒したのがブルボン王朝であり、ロシアではロマノフ王朝という絶対君主であった。フランス革命の少し前にアメリカでは「独立戦争があり宗主国イギリスからの独立を勝ち取った。またロシア革命の少し前にアジアでは中国大陸で1911年に孫文らによる「辛亥革命」が起きて、清朝が滅んで中華民国が生まれている。
 20世紀前半には世界のあちこちで「体制の変革」を望む市民の声が大きくなって、木霊のように響き合っていた。ただそれらが穏便に平和裏に行われることは望むべくもなく、出血を伴う武力闘争でしか実現できなかったところに限界があった。まさに「市民が主役」の革命とはこういうものであろう。"目の前に立つ王朝を倒してその国王の命を絶つ"血を見る体制の交代こそが革命と称されるものである。これらは自然と日本にも情報として西国雄藩に齎されたことは疑いないことであり、開明的な藩士らはこれに刺激を受け血を湧かせたことは容易に想像できる。
boshin2-15 フランス革命をみてみよう。その歴史を辿ればブルボン王朝は別名ルイ王朝とも言われた。絶対王政で名高いルイ14世は「朕は国家なり」と高言した。"自分自身が国そのものである"という高慢な意識の下で、国民の存在は無きに等しかった。豪勢なベルサイユ宮殿や華やかな時代を物語り、王族や貴族が優雅な生活を送っているのに、多くのフランス国民は貧困に喘ぎ、その結果1789年にフランス革命が勃発するのである。(写真左=ルーブル美術館、パリ市内)

 その後ナポレオンにより帝政時代を迎えるが、ロシア遠征等の失敗が響き失脚すると、再びルイ18世が即位してブルボン王朝が復活する。だが1830年に7月革命が起きてブルボン王朝が終焉するという、王朝が出現して終焉まで凡そ240年にわたりフランスを支配した。抑々ブルボン王朝が誕生したのは1589年、アンリ4世が国王の時代で絶対王政の最盛期である。だが国民の不満が爆発し革命が起きる。その時の革命の旗が後にフランス国旗となる。ルイ16世やマリーアントワネットの他1千人以上の人が処刑されブルボン王朝が終った。
 日本で見れば豊臣秀吉が天下を統一し、徳川氏の江戸時代の末、天保期にあたる。日本でも長い徳川氏による支配の時代から新たな西国雄藩連合の国造りへの転換期に相当する。西欧と極東でで似たような状況が起きたのである。

boshin2-16 フランス革命はブルボン王朝を倒した市民革命であるとされてきた。このことで市民社会の形成を齎した。時代は18世紀後半、当時のフランスはブルボン王朝が市民を圧制の下に置いていた。だがルソーやボルテールなどの自由を求める啓蒙思想が国民の間に広まっていた。フランスはルイ14世の頃から対外戦争やアメリカ独立戦争支援などで多額の出費に追われた。この為莫大な財政赤字を抱えていたのである。
(写真右=モンマルトルの丘から眺めたパリ市内)

 この解決の為には広い階層に多額の増税を課すしか手段はなく、当然の如く市民にもその軋轢が重くのしかかる。このような不穏な状況下に火の手が上がった。1789年7月14日、パリのバスティーュ牢獄を民衆が襲撃する事件を契機に革命が発生し、時の国王ルイ16世が処刑されて絶対王政は廃止された。するとジャコバン党が権力を握り急進的な施策を行う。それは反対勢力を次々と断頭台に送り民衆を煽るという恐怖政治であった。王妃マリーアントワネットも連座によりコンコルド広場の断頭台に露と消えている。今のコンコルド広場ではとても想像できない。
 まさにこの時「革命」は血を見たのである。その後ジャコバン党による恐怖政治の混乱があるも、後にこの党も粛清され体制の転換点を迎える。そしてフランスはナポレオンの帝政時代が動き出し、ナポレオンは皇帝となって国外への侵攻も躊躇せずフランス帝国へと進展する。市民革命はその後の王朝を再びもたらすことになった。文字通りの市民が主役の政治体制〔共和制〕の確立を見るまで未だ時間を要するのである。

【ロシア革命と日本の対応】
 日本の隣国ロシアの革命は他人事ではなかった。ロシアの南下策は新興国日本の大きな脅威になると見た明治政府は武力による迎撃作戦を敢行する。これが日露戦争の本質であった。
 ロシア革命は長い間圧政に苦しめられた市民が地下運動をしながら、蚕食のごとく王朝を蝕んでゆく。その地下活動に日本の陸軍武官明石元二郎が手を貸し、ロシア政府の懐深く革命の手を伸ばしていた。1917年帝政ロシア、即ちロマノフ王朝政権を倒したのである。だがこれは長い時間を要した。日本は無謀にも当時最強の陸軍を有していた帝政ロシアに戦いを挑んだのである。世界は驚いた、世界は当然の如く日本の滅亡を予想した。だが日本政府はあらゆる手段を講じて戦略構築に臨んだ。
 当時の明治新政府の政治家達は日本の軍事的実力をしっかり把握していた。大正・昭和の精神論に基軸を置いた軍部達の戦争指導とは異なっていた。ロシアに勝利することは奇跡に近かったが、総力戦の末には「戦いを五分々にまで持って行けると踏んでいた。「戦い」は兵糧の物量差が物を言う。「戦いを五分々の線」までいったところで外国の力を借りて、講和に持ち込むという基本戦略が起案された。戦は兵の戦闘だけで行うものではない。海軍の軍艦、陸軍の大砲等、これら兵器の整備とこれを操作する兵の資質が伴わなければ遂行できない。そして何よりも戦争遂行には莫大な金がかかる。

 当時の日本の政府はロシアと仲の良くなかった英国に接近した。そして1902年には日英同盟を結ぶことになる。新興国日本の外交の冴えの一端が見える。日本は国内では佐幕か尊王かで分かれ、戊辰戦争という国乱を経験した。この時幕府はフランスの軍制に軸を置いている。一方西国雄藩は英国等と「戦い」を経験を通して攘夷の困難さを痛感するも、英国に接近し近代兵器の調達へと漕ぎつけた。これで軍政改革が一気に進み、対幕府戦に自信を得た。
 これにより後に明治新政府は海軍の軸足を英国に置き、陸軍の軸足を欧州で台頭しつつあったプロシャ(ドイツ)に置いたのである。日英同盟を結ぶまでには左程時間を要しなかった。このことが対ロシア戦で優位に立つ布石となった。然しながら、できたばかりの日本には金がなく、最初から借金で戦費を賄うしか方法は無かった。その任務は蔵相の高橋是清に託されたのである。髙橋はその調達先を西欧諸国に的を絞り国債を買って貰うにした。この作戦は見事に達成された。実際には国債の売れ行きは戦況次第で揺れ動くという難しさがあった。惜しいかな、この髙橋是清は昭和に入り2.26事件で凶弾に倒れた。
 さらに新興国らしからぬ外交の巧みさで国際戦略を見せたものがある。それはロシアに武官明石元二郎を派遣し内部からロマノフ王朝を揺さぶるという行動に出たことである。ロシア国民の間に萌芽しつつあった王朝打倒の地下活動に資金援助をし、革命に至る速度を速めようという諜報活動であった。この任務には陸軍武官の明石元二郎が充てられた。勿論内外極秘の内に行われた。明石はレーニンら地下活動家に接触し、国の予算の相当額の資金を提供した。
 ロマノフ王朝は日本との戦いを遂行しながら、国内に反政府の不満分子の暴発にも留意せざるを得ないという苦しい状況下に追い込まれていた。まさに内憂外患にあった。これは日露戦争が終った後にボデーブローのように体制に効いてきた。そしてついに1917年、ロマノフ王朝は市民の手によって倒された。ここでも「革命の血を見たのである。

 もう一つは"戦争をいかに終わらせるか"で見せた明治新政府の外交の冴えがあった。新政府は日露開戦にあたりこのことに苦心する。戦争を始める時は、同時に如何に終わらせるかが大変重要な事と思われる。この点でその後の日本の政治家・軍人らは失格とも言えるのではないか。
 日露戦争の際、明治外交の一策が功を奏した。金子堅太郎という政治家がいたが、彼はハーバード大留学時代に米国大統領セオドア・ルーズベルトと同窓であった。この縁を利用して新政府は金子にロシアとの講和の仲介の労を取って貰うよう働きかけさせるのである。これも見事に功を奏して、奉天会戦時の日本陸軍の優勢局面と日本海海戦の完勝の機を逃さず、米国を動かしロシアを講和のテーブルにつかせることに成功するのである。明石大佐の諜報活動が長い時間の経過を経て功を奏するのは違い、切羽詰まった外交局面での大殊勲とも言えよう。
 結果、ポーツマス講和交渉が持たれる運びとなる。この時の外相は飫肥藩出の小村寿太郎であり、大国ロシアを相手に一歩もひけをとらずに交渉する。だが日本は完全な戦勝国には非ずして、不平不満が残る交渉に終始するが、このことに国民は暴発し日比谷事件を誘発する。小村は非難の的となった。まさに明治の政治家は命がけであった。日本は対ロシア戦に臨み、無益な期待を排除した。自分の力量を正しく把握し、然るべき手段を総力を挙げて駆使した。ロシアは日本との戦に劣勢となると、国民の支持も得られず革命への好機と判断され、ロマノフ王朝は窮地に追い込まれた。結果、時を経ずして革命が起きるのである。首都サンクスペテルブルグは「革命の血」を呼び込んだのである。明石元二郎の地下活動は帝政をひっくり返した。レーニンらが表舞台に登場、以後共産党による社会主義国家の建設に繋がるが、さらにスターリンという独裁者を見ることは想像できなかった。

【結論】
boshin2-12 この2つの市民革命を見るに、「その主役は市民である」ということが分かる。ここに於いて「日本の明治維新」が、果たして革命と云われるだろうか、市民を登場させ、市民に主役をやらせ、市民に歓喜の声をあげさせているだろうかという素朴な疑問が湧いてくる。(写真右=維新三傑の一人大久保利通の像、鹿児島市内)
 フランス革命・ロシア革命は、市民が決起し血を流して歓喜を齎しているのとは本質的に違うのである。戊辰戦争は単に同じ土俵にある武門が歓喜にむせんでいるに過ぎないのである。民にすれば国の為政者が徳川氏から薩長土肥のお武家様に代替わりした、単なる権力闘争であると映ったであろう。
 戦後、御一新と呼ばれ江戸幕府から京都朝廷に政権移譲されたのである。ご丁寧に京都から江戸に朝廷を移し、東の京都とした。しかも江戸城を御所にした。徳川家の本拠に天皇が住むことになったのである。"徳川は滅んだのである。これからは朝廷が世を統べるのである"と云わんばかりにである。
 その朝廷の背後には、天皇を前面に出してそ知らぬふりをする西国雄藩の武門の顔がちらちらするのを民は見るのである。まさに武門による政権交代そのものの姿であった。「維新」の真の姿は杳として見えない。市民・国民が主役の政治は太平洋戦争終結後にやっと見るのである。明治維新は戊辰戦争から78年後の昭和20年8月15日以後にやっと真の姿を現すことになる。

(本文中の写真:米沢日報デジタル撮影)

(2018年2月20日17:00配信)