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米沢日報デジタル主催 戊辰戦争150周年記念座談会

テーマ「米沢藩の戊辰戦争、あの戦いから何を学ぶか」

【開催日】 平成29年11月13日
【於】   上杉伯爵邸(米沢市)
【出席者】
・前米沢市長・おしょうしなガイド 安部三十郎氏
・米沢温故会会長 種村信次氏
・歴史探訪家・米沢市民大学教授 竹田昭弘氏
・鷹山公と先人を顕彰する会会長 小嶋彌左衛門氏
(司会)米沢日報デジタル社長 成澤礼夫

 米沢日報デジタル新聞版(平成30年1月1日号より転載)


【座談会開催趣旨】

  平成30年は、戊辰戦争からちょうど150年という節目の年となる。当時、東北・越後の諸藩は奥羽越列藩同盟を結び、薩長を中心とする官軍に対して戦いを挑んだが、近代的な武器と戦闘方法、数に勝る戦闘員など、その戦力において圧倒する官軍に完璧なまでに敗れ去った。米沢藩は総督色部長門をはじめ、総勢280人余が戦死するという痛ましい結果になった。今、あの戦いから私たちは何を学ぶことができるか、米沢市で歴史関係団体の代表など務める方々に集まっていただき座談会を開催した。

◆平成30年は、多くの国民が戊辰戦争や明治維新を見直す年に

26-5司会 本日は、「戊辰戦争150周年記念座談会」にご出席を頂き誠にありがとうございます。
慶応3年10月14日の大政奉還、王政復古の大号令に続き、翌慶応4年1月3日の鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争が幕を開けます。東北や越後の諸藩は奥羽越列藩同盟を結び、官軍に対して戦いを挑みますが、米沢は9月2日に降伏しました。米沢藩ほか、越後、東北諸藩はこの幕末から明治への転換期に大きな戦乱に巻き込まれました。
 平成30年は戊辰戦争から150年となり、大河ドラマも「西郷どん」が放映予定であり、歴史ファンは言うに及ばず、多くの国民も戊辰戦争や明治維新に大きな関心を寄せ、改めてその意義を見直そうという年になるのではないかと思います。
まずは幕末から明治時代を扱った小説が世に出ていますが、好きなものをあげて頂きたいと思います。
(写真上=熱い話し合いが行われた座談会)

26-1種村氏 私は本が好きで幅広く読んできましたが、歴史小説といえば、何と言っても司馬遼太郎、藤沢周平ですね。司馬作品の中では、「峠」、「竜馬が行く」、「坂の上の雲」、藤沢作品では「雲奔る」があります。特に「峠」は、奥羽越列藩同盟の一つ、長岡藩の河井継之助を取り上げていて大変に面白く読みました。「坂の上の雲」は明治維新後の人々が生き生きと描かれています。「雲奔る」は、米沢藩士雲井龍雄を描いていますが、明治維新という新しい時代に乗り遅れてしまった龍雄の焦りのようなものが感じられ、米沢出身だけに彼の短い生涯は惜しいなという思いで読ませて頂きました。
「結局、米沢藩は戦さを城下にまで持ち込まなかった=種村氏」

26-4安部氏 私は綱淵謙錠の「斬」という小説をあげたいと思います。主人公は幕府の首切り役人である山田浅右衛門です。そこにはいろいろと処刑される人が登場し、雲井龍雄も描かれています。当時17歳の浅右衛門が、後に話したことをもとにしていますが、すごい迫力と真実味があって胸に迫ってきます。
藤沢周平では、「回天の門」が好きですね。策士清川八郎の心の動きや、何故、清川八郎が策士なのかが理解ができます。読後に、生誕地である庄内町清川にある清川八郎神社を訪れました。
小説ではありませんが、「ある明治人の記録」(石光真人編著)という本があります。会津藩出身の陸軍大将柴五郎が著したものを石光真人が書き直したもので、会津戦争の様子、その後の会津人の生き方を綴っており真に迫まるものでした。
「米沢市民には、新潟にある色部長門の碑を訪ねて欲しい=安部氏」

26-3竹田氏 私は半藤一利が書いた昭和史や星亮一の幕末史が好きです。星亮一は仙台出身で、薩長政府にとても疑問を持っていて、どちらかというと会津側に立ったような書き方をしています。また歴史小説では、司馬遼太郎が好きで、「坂の上の雲」を愛読しました。その影響で、満州とソ連国境で勃発した日ソ戦のノモンハン事件の現場も見てきました。
 明治時代の人は日本の国力を客観的に分かっていて、昭和時代の神がかり的な軍人と違って、どのあたりで戦いを終結するかを始める前にちゃんと描いて戦さをしたのです。さすがだなと思います。
「米沢藩は、洋学を政治的利用するということがなかった=竹田氏」

26-2小嶋氏 司馬遼太郎の「峠」が歴史に興味を持つスタートでした。毎日新聞首都圏版の夕刊に連載されていました。それまでは司馬遼太郎も河井継之助も知らなかったのですが、この連載を通して、戊辰戦争の際に長岡で壮絶な戦いがあったことを知り、それからというもの司馬遼太郎の小説を始め、郷土史にも関心を持つようになりました。
 司馬遼太郎は、歴史の中で生きた漢(おとこ)を骨太に描き、人間の生き方の点で大いに参考になりました。歴史は様々な見方があることを学びましたね。
「官軍と戦いを継続すれば米沢藩が壊滅すると判断した=小嶋氏」

◇会津戦争を前に、米沢藩は新潟での戦いで勝負ありと判断

26-7司会 率直に言って、米沢人にとって戊辰戦争は思い出したくない歴史のように感じられます。それは奥羽越列藩同盟の中心的な米沢藩が官軍に敗れ、早々に降伏を決めたことや、会津の救援要請に対して応じず、降伏後はすぐに奥羽越列藩同盟の荘内藩を攻め、米沢藩の戦争責任を戦死した家老色部長門に一身に負わせたなど、義の上杉と名乗るには少々恥ずる思いが背景にあったように思うのですが、いかがでしょうか。
(写真右=幕末頃の米沢藩に、上杉謙信の義は存在したか?)

26-8小嶋氏 安部三十郎市長(当時)から依頼されて、米沢観光物産協会(現米沢観光コンベンション協会)として、新潟高校前にある戊辰公園で色部長門碑前祭を行ったことがあります。新潟市の歴史ガイドさんに方々を案内して頂いて分かったことは、米沢藩は会津戦争の前に新潟で官軍との激戦を繰り広げたことや、幕末の政情不安の時に新潟港を中心として全面的な治安維持を図ったのです。ですから、新潟の人たちは今でも米沢人にすごく感謝しています。その証拠に、新潟の人たちが自分たちで色部長門の慰霊碑を建立し、未だにその維持管理を行っていることで、色部長門碑前祭をすると、50〜60人が集まり、新潟市副市長らが必ず出席します。我々、米沢人が考える戊辰戦争の様子と、新潟の人たちが米沢藩や米沢人を見る目に違いがあるということをまず知っておくべきだと思います。
(写真上=官軍の前線本部の今町の永閑寺)(写真提供 竹田昭弘氏)

26-9長岡城は、官軍によって一度落城しましたが、それをもう一度取り返しました。その時に米沢藩が全面的に関わり、かなりの戦死者を出しました。米沢藩は最前線で戦い、戊辰戦争を通して280名以上の戦死者を出しています。会津藩からの援軍要請を受けた時は、米沢藩は新潟から撤収してきて、もう戦いは勝負ありと判断しているのです。
 あの時に米沢藩が会津へ援軍を送れば、米沢城下も会津同様に官軍の総攻撃を受けてメチャクチャにされたと思います。米沢藩兵が長岡や新潟での戦いを経験し、戦国時代とは全く違う近代戦の破壊力を目の当たりにしたわけです。官軍と米沢藩の軍備の違いは大きく、このまま官軍と戦いを継続すれば米沢藩が壊滅すると判断したものと思います。
(写真上=米沢藩守備隊が壊滅(新潟関屋戊辰公園))(写真提供 竹田昭弘氏)

26-10種村氏 私も全く同感です。歴史の中では、支配した側と支配された側のギャップは、どこの国でもいつの時代でも起こります。それは今の中国や韓国を見ればよくわかります。会津も同様かなと思っています。
米沢藩と会津藩にはかつて姻戚関係があったとしても、当時の藩というのは、独立した国家ですから、会津藩からの救援要請に関して、米沢藩がかかる状況の中で、真に進むべき道を判断するのは当然だろうと思います。その判断が、結局、米沢城下まで戦さを持ち込まなかったわけです。
 当時の米沢人は、米沢藩士280数名が戦死したことに対して、「自分たちのためによく頑張ってくれた」という感謝の気持ちを込めて松が岬公園の地に立派な「招魂碑」を建立しました。米沢藩軍参謀を務めた斎藤篤信が「招魂碑」と揮毫しています。戊辰戦争については、私たちはもっと色々と掘り下げて、多面的にその経過や事実を知っておく必要があるのではないかと思います。
(写真上=昭和34年、米沢市制70周年記念事業の一環として、色部長門の武勇をたたえ、その大恩に報いるため、色部長門顕彰会が追念碑建立を提唱し、同年8月に建立された。(NHK米沢ラジオ中継放送所敷地内))

26-19安部氏 米沢藩が会津藩へ援軍を送らなかったことや、救援要請に来た会津藩士堀粂之助が切腹して果てたことは、やはり米沢人にとって忘れることのできない「痛恨の出来事」だったのではないかと思いますね。私はそのような心の傷をそのままにしておいてはいけないと思い、米沢市長就任(平成15年)の翌年から、職員たちと墓所のある米沢市の竜泉寺でお墓参りを始めました。毎年9月5日が命日ですが、会津市役所からも毎年部長らがおいでになりました。昨年からは、米沢市民有志による慰霊祭という形をとり、住職に供養して頂きました。昨年も、鎌倉市と水戸市に住む堀粂之助の末裔の方がおいでになり、米沢での慰霊祭開催に感謝を述べていました。
(写真上=堀粂之助の子孫も参加して行われた慰霊祭、平成29年9月5日、竜泉寺にて)

竹田氏 米沢藩士にとって、越後(新潟)は父祖の地ですから特別な思いがあると思います。新潟を守りたいというのが、その民に対する思いに繋がったと思います。長岡城での熾烈な戦いを支えたのは米沢藩兵でした。
色部長門は、新潟の金鉢山で戦死しますが、ここは新潟での最大の戦いが行われた場所です。一方、長岡の郊外における大黒・八町沖の戦いでは、米沢藩は多大な犠牲を出しています。新潟の民は、米沢藩士が実に紳士的で戦さで苦労したことを知っていました。それが色部長門慰霊碑の建立となっています。米沢側からの見方だけでなく、色々な視点でこの戊辰戦争を眺めてみる必要があるのではないかと思います。
 戊辰戦争前に、新政府は東北諸藩の中で徳川に恨みを持つ藩をピックアップして、色々な指令を出しています。秋田藩、天童藩などはその通り動きました。倒幕に動いたのは、長州、薩摩が中心で、先祖が関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に敗れた藩でした。260年前の恨みの歴史が背景にあったのです。長州では、元旦に家老が「戦いの準備ができましたが、幕府を討ちましょうか」と藩主に尋ねる密かな行事がずっと続いていたそうですから。
薩摩でも同じ様なことが今もなされています。「妙円寺参り」と言って、関ヶ原の戦いに於いて、島津義弘が強行突破して奇跡の生還をしたことに由来して、積年の恨みを忘れずにいることでした。長州も薩摩も、このエネルギーはすごいものがありました。

◇戊辰戦争で降伏も、危機管理に優れたリーダーに恵まれた米沢藩

26-11司会 米沢藩士の宮嶋誠一郎は、戊辰戦争の敗戦処理を見事に行いました。この人のことは早稲田大学に宮嶋誠一郎関連の文書があり、数々の研究書が出されていますが、米沢人にもっともっと知られていいと思います。どちらかというと、誠一郎の息子の宮嶋大八(詠士)の方が書家として、今知られているような気がします。
不思議なのは、平田東介、山下源太郎などを始め、敗れた米沢藩の出身者がその後の明治政府で重職に就いたり、「米沢海軍」と言われる高名な軍人になっていることです。存亡の危機に際して、組織内に危機管理に優れたリーダーがいるかどうかは大事なことです。その点、米沢藩は幕末から明治にかけて、稀有な人材がいたということは幸運だったと思いますが、他に紹介したい人物はおられますか。
(写真上=『招魂碑』戦没者芳名復刻事業実行委員会(種村信次委員長)が新たに芳名刻字石板を設置(平成21年5月24日 松が岬公園))

26-12安部氏 戊辰戦争の敗戦処理には関連しませんが、雲井龍雄の友人に、宇加地新八(うかじしんぱち)という人がいます。この人は明治に入って慶応義塾を出た人ですが、明治7年に明治政府がどのような国づくりをしたら良いかを募集した際、建白書を出して、我が国で初めて「憲法草案」を提言した人です。そこには、「男女同権、婦人参政権」など、当時の欧米諸国でもやられていないことが唱えられています。
 戊辰戦争で米沢は負けたけれども、新しい目がちゃんと生まれていたと言えるのではないかと思います。それは明治という新しい時代のシンボリックな米沢人であると思いますね。
(写真上=式典に出席した色部長門の末裔(左)、上杉邦憲氏、安部三十郎市長(当時))

26-14竹田氏 当初は戦う意思のなかった東北諸藩に対して、薩摩の陰謀で始まったとも言える当地での戊辰戦争で、米沢藩の志士雲井龍雄は「倒薩の檄」でその非を唱え、それは奥羽越列藩同盟の精神的な支柱になりました。
新徴組の母体となった浪士組を作った志士清川八郎はかなり知られていますが、一方、雲井龍雄のことは日本全国に名前が届いていません。米沢として、このような志士がいたことをもっとPRした方がいいと思います。庄内の藤沢周平が、米沢藩士雲井龍雄のことを書いているのですが、地元でもっと盛り上げる必要があると思いますが、どうでしょう。
(写真上=長岡城本丸跡 現上越新幹線長岡駅)(写真提供 竹田昭弘氏)

26-13小嶋氏 戊辰戦争の戦後処理としては、総体から見て米沢藩が一番軽かったかは承知していませんが、別格的な扱いだったようです。米沢藩は死人に口なしで色部長門に全責任を押し付け、藩士の中で処罰された者はいません。他藩では家老が藩主に代わって切腹させられています。ですから、米沢藩で戊辰戦争を指揮した人たちは、色部長門に対して引け目を持ったと思います。
 ただ米沢藩の負けた方としては、何とかかんとか致命的なダメージを避けて、難局を乗り越えたと言えるのではないかと思います。
明治時代はまだ、薩長政府への遠慮があったと思いますから、公に色部長門を顕彰することはできなかったと思います。NHK米沢ラジオ中継放送所の場所にある色部長門慰霊碑は、米沢市制70周年を記念して昭和34年に建立されたものですが、私は米沢藩のために、戦い、その名誉を捧げた色部長門を米沢として顕彰し続けなければならないと考えています。
(写真上=会津軍が官軍を迎撃したが突破された母成峠)(写真提供 竹田昭弘氏)

26-15種村氏 その慰霊碑は、色部長門顕彰会会長の赤井運次郎氏、実行委員長西條信哉氏の二人が発起人となって建立したものです。その経緯についてはきちんと残っています。いつか、そのことをお話ししていかなければならないと思っています。
私は米沢藩士斎藤篤信(あつのぶ)を取り上げたいと思います。初代山形県令の三島通庸が栗子トンネルを掘る時に、斎藤篤信は三島に依頼されて大変な協力を行っています。当初、反対する人も多くこのトンネルを掘る人足が集められなかったのです。そこで、斎藤篤信は自らの私財を投じて800人分を寄贈しています。
 戊辰戦争の際には、斎藤篤信ははじめ中隊長、大隊長、参謀となり、長岡城での奪還では精力的に戦った人です。降伏後は官軍に対する米沢藩の交渉役となっています。また初代の山形県師範学校校長を務めました。
維新から時代は下がるのですが、明治時代に元県議会議長、両羽銀行頭取をした池田成章も米沢市、山形県にとって大きな働きをなした人です。その子である池田成彬は三井合名常務理事となって、三井財閥を率い、「財閥転向」と称された機構改革を行いました。そして、自らが設けた退職制により三井合名を辞任し、その後に日銀総裁兼大蔵大臣や商工大臣、枢密院顧問などを歴任しました。このような人が米沢から出ていることは、評価すべきだろうと思います。
(写真上=浪士組として上京した近藤勇、土方歳三らが最初に入った所(京都))(写真提供 竹田昭弘氏)

◇米沢藩の戊辰戦争を現代的視点でどう捉えるか

司会 これまでの中で、米沢藩の戊辰戦争の経過や、そこに登場する人物などについて話し合ってきましたが、この戊辰戦争から明治維新にかけての時代を、「米沢から」という視点でどのように理解し、評価できますか。またそこから何を教訓として得ることができると考えますか。

小嶋氏 当時、欧米の白人は世界中に海洋進出し、アジアもその植民地になっていました。最後に残ったのは、日本でした。いわば、「日本をどのように料理しょうか」という時期にあったわけです。この事実を米沢藩の人達はどの程度の認識していたかということです。米沢藩では、医者の修行のために長崎に派遣していますから、医学生は長崎の出島周辺を訪れたり、海外事情を知ることはあったかもしれません。しかし、彼らは政治家ではありませんから、その海外事情をもとに米沢藩政が大きな影響を受けるということはなかったものと思われます。
 一方、鹿児島や長州は戊辰戦争を前に、英国と戦争をしています。相手の強さがわかっているわけです。
26-16 私は鹿児島に行って、「薩摩スチューデント」というのを映像で見ました。薩摩は幕府に内緒で、幕末に視察員4名と留学生15名を英国に送りだしました。帰国後、彼らは明治新政府の中で働き、日本の礎を作っていくわけです。長州も伊藤博文、井上薫ら計5人を英国に派遣しています。長州が馬関戦争で英国と戦争を始めたことを知った伊藤博文、井上薫は、大至急帰国の途につきます。
薩長がそれができたのは、欧米との密貿易を通して海外を知っていたことと、そこから得られたお金という財政的な裏付けがあったからだと思います。やはり、経済力があると政治的にも強いのです。
 このような中で、米沢藩はまだ世界情勢に関して、薩長のような危機感には至っていない状況でした。視野の面では、薩長にはるかに及ばなかったというのが正直なところではないかと思います。今、これからの米沢がここから学ぶとすれば、若者を海外留学させるとかしながら、世界にもっと目を向け、情報を得ることではないかと思います。戊辰戦争150年は、その意味で歴史を見直し、自分たちの今を振り返る良いチャンスとなります。
(写真上=徳川慶喜が大政奉還し、将軍職を返上した二条城(京都))(写真提供 竹田昭弘氏)

26-17種村氏 江戸末期の幕藩政治の経済は、米ではなく貨幣経済が浸透しており、また国を開いて欧米諸国と交易を行うよう圧力が増していました。すでに鎖国政策は破綻を招き、幕藩体制の維持は難しい状況になっていました。
長州、薩摩は海外との交易を進めていましたが、東北諸藩は依然として幕藩政治のもとにあったわけです。この意識格差はとても大きかったのではないかと思います。米沢藩にも、宮島誠一郎や雲井龍雄を始め、優秀な人材はいたと思いますが、彼らにしても幕藩体制という枠組みが思考の前提だったのではないかと思えるのです。
 それに地理的な面から考えると、長州や薩摩の西国は江戸から遠く離れ、幕府の目が東国に比べれば届きにくいですから、海外貿易をどんどん行いお金も持っていました。それが倒幕資金につながっていきます。米沢藩は15万石で、上杉鷹山による財政再建を果たしたばかりでしたから、薩長とは経済的にも太刀打ちできる立場にありません。持久戦では戦えないですね。
 明治維新後、家禄を失った米沢藩士族たちは、織物業を始めたり、米沢を離れて政府や学問の道、海軍などに出仕したりと、それぞれに身を立てて行きました。明治維新という大きな変化の波を、必ずしもあざやかとか、見事というわけにはいかないかもしれませんが、乗り越えてきたという意味では評価されるのではないかと思います。
 ただ、明治22年の市制施行で人口が10万人を超えなかったのは、全国で唯一米沢だけであり、米沢が武家のまちであって商業のまちでなかったことから、民間資本が蓄積されなかったことが影響しているのではないかと思っています。
(写真上=鳥羽伏見の戦い勃発の地)(写真提供 竹田昭弘氏)

安部氏 雲井龍雄は、明治維新を薩摩の権謀術数によるものだと言っていますが、それは一面で真理があると思います。明治維新で、徳川幕府から明治政府へ政権が移る際に、どのようにして政権をとったかと、そこからどのような政治が行われるようになったかは、非常に密接な関係があると思います。それは現代社会の政治を見ても、同じことが言えます。
 健全な社会を築くには、健全な批判精神が大事です。間違ったことがあれば、たとえ自分一人でも批判すべきです。その批判の輪が大きくなっていけば、体制が覆ることもあるからです。「長いものには巻かれろ」では体制は変わらないし、社会の進歩もおぼつかないわけです。
 奥羽越列藩同盟の諸藩は、確かに戊辰戦争においては官軍に負けましたが、負けたことで薩長政府をきちんと見ているわけです。ここが今の東北に住む私たちにとって大事ではないかと思います。東北には伝統的に、「侵略する」という思想がなかったのではないかと思います。この平和を愛する特性は今後とも大事にしていかなければならない思います。

26-18竹田氏 米沢藩が当時、西洋事情に疎かったのかといえば、長崎に医学生を送って蘭学(オランダの学問)を学ばせていましたから、ある程度の情報は入っていたことでしょう。ただ米沢藩を始め東北の諸藩は、西洋の学問を政治的に利用するということがなかったのだと思います。
その点、薩摩や長州はそれを思い切り政治利用していたのです。しかもその変革を担ったのは、下級士族が多かったのです。下級士族への藩内での差別や区別に対して、その爆発的エネルギーは明治維新の原動力にもなりました。
 一方、米沢藩では長崎の学びが勉学のための勉学になって、そこから一歩も体制を変革する力にならなかったというのは残念に思います。それだけ、東北諸藩は身分制に対する締め付けが厳しかったのかも知れません。
明治維新後、新政府は会津の人たちを教育面の領域で多く登用して、大きな成果を出しています。
(写真上=幕府方本陣となった函館五稜郭)(写真提供 竹田昭弘氏)

◇様々なイベントが計画される平成30年各団体の取り組み

司会 今日、ご出席の皆様は米沢市における歴史団体の代表や顧問を務めておられますが、戊辰戦争から150年の節目の年として、どのようなイベントや活動を予定されていますか。

小嶋氏「鷹山公と郷土の先人を顕彰する会」では、例年、8月に「鷹山公シンポジウム」を開催しています。「戊辰戦争150年」ということで、米沢藩の越後での戦いを振り返り、総督色部長門の足跡をたどりながら、米沢にとって戊辰戦争とは何だったのかについて再認識するシンポジウムを計画しています。シンポジウムでは、新潟の先生方をお招きして、戊辰戦争の際の米沢藩の働きについて、お話頂きます。
また、高鍋藩士や米沢藩士の墓がある新潟の護国神社や戊辰戦争の戦跡のバスツアーをおこない、色部長門慰霊碑での墓前祭を考えているところです。

種村氏 「米沢温故会」は、米沢藩の各藩主や先哲の遺徳を顕彰する活動を行っています。これまでは上杉に関わる話を掘り起こしてきました。
「戊辰戦争150年」として特別なイベントは考えていませんが、今回は戊辰戦争、明治維新前後をテーマに選定して、お話を聞く機会を作っていきたいと思います。あとは、米沢歴史団体連合会との共催で一緒にさせていただければありがたいと思います。

安部氏 平成30年は私たち有志が雲井龍雄祭を始めて第33回となります。当初から話があったのですが、戊辰戦争150年を機に、雲井龍雄の銅像建立に着手したいと思います。
26-6 雲井龍雄が亡くなったのは、明治3年(1871)ですから、2021年がちょうど没後満150年に当たります。
 米沢市制100周年の年(1989年)に、新潟県上越市の春日山城跡から、米沢市までの300キロを歩きました。新潟市まで来て、雨の降るなか、疲れてうつむきながら歩いていたら、ちょうど足もとに「戊辰公園」の標柱があって、見上げたら色部長門の慰霊碑が建っていたのです。上を向いて歩いていれば、気がつかなかったかもしれません。そこで、色部長門慰霊碑の存在を始めて知ったのです。米沢市民の方には、知らない人が多いかもしれません。是非、訪ねて行って頂きたいと思います。
 実は色部長門は、この場所で米沢藩の親戚である高鍋藩に、銃撃をされ戦死しました。慰霊際には、宮崎県高鍋町の小沢浩一町長(当時)にお声がけして、ご出席していただきました。
 現在、私は「おしょうしなガイド」で活動をさせていただいておりますが、様々な機会を通して戊辰戦争のエピソードを語り続けていきたいと思います。
(写真上=2時間に及ぶ座談会、ご苦労様でした)

竹田氏 私は米沢市関地区の会津街道歴史交流会顧問をさせて頂いております。何とか、会津街道を「維新の道」にしたいと考えています。
幕末には、名のある人がその会津街道を通って、米沢と会津を行き来しています。例えば、高野長英、伊能忠敬、土方歳三、吉田松陰、松本良順、輪王寺宮、頼三樹三郎、松平定敬などです。すごいと思います。
この街道は、米沢の歴史を一層彩り豊かなものとすることができると思います。

司会 本日は出席された方々の熱いお話を伺い、戊辰戦争150周年の年を迎える有意義な座談会となりました。ありがとうございました。

(2018年3月14日21:25配信)