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寄稿 『安国寺恵瓊と靹幕府』 文・斎藤秀夫


saitohideonew寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)、『男たちの夢—歴史との語り合い—』(同)、『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)、『桔梗の花さく城』(鳥影社)、『日本城紀行』(同)、『続日本城紀行』(同)、『城と歴史を探る旅』(同)、『続城と歴史を探る旅』(同)、『城門を潜って』(同)


 
 元亀四年七月十八日(天正改元は同年七月二十八日)、足利十五代将軍義昭は、織田信長によって京都を追放されるが、中国地方の覇者毛利輝元(元就の嫡孫)から調停役を委(ゆだ)ねられた安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は、上洛して信長の家臣羽柴秀吉と逢って、義昭の京都復帰を依頼した。
 その帰り道、岡山に宿泊した彼は、都の情勢を詳しく本国の吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)・小早川隆景(こばやかわたかかげ=同三男・二人は他家に養子に入り、本家毛利を支える両川と呼ばれている)の家臣山形越前守と井上春忠の両将に宛てて、報告書を記しているが、その末尾に、注目すべき文面がある(日付は同年十二月十二日)
 「信長の代五年三年は持たるべく候(そうろう)、明年あたりは公家などに成らるべく候かと見及び申候、左候(さそうろう)て後(のち)高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申候、藤吉郎さりとてはの者にて候」(吉川家文書)この文面のすごいところは、織田信長のその後の躍進と末路、さらに秀吉の台頭を見事に的中させたところにある。
「藤吉郎さりとてはの者にて候」
 この文章がいったい何をさしているのかは不明だが、広辞苑を調べてみると、
「は(覇)とは武力または謀術を以て天下を従えること」
 とあって、おそらく恵瓊の表現したかった意味も、これに近かったと想定される。いずれにしろ、この文章が書かれたのが、"本能寺の変"が起きる十年前のことを思えば、恵瓊の慧眼(けいがん)にはただ驚くしかない。

ankokuji-1 この安国寺恵瓊は、天文八年(一五三九)、安芸国(あきのくに=今の広島県)の守護武田信重(のぶしげ)の子であるとされている。(安芸武田氏は甲斐武田氏と同根で、新羅三郎義光=八幡太郎義家の末弟の子孫だという)
 幼名を竹若丸といった彼は、天文十年(一五四一)、父の居城である銀山城(かなやまじょう=広島県広島市)が毛利元就に攻め滅ぼされた際、家臣の助けを得て城を脱出し、大田川を渡って東福寺末寺の安芸安国寺(広島市の郊外牛田の不動院)に匿(かくま)われると同時に、住職竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子となった。生まれつき人並優れた頭脳の持ち主であったのであろう、永禄十二年(一五六九)にはその寺の住持となった。さらに備後鞆(びんごとも=今の広島県福山市)の安国寺の住持をも兼ねるようになった。(写真右=広島県福山市鞆の浦を眺望する高台から)
 安国寺というのは、室町幕府を創設した足利尊氏が、夢窓疎石(むそうそせき)の勧めにより、南北朝の戦死者の追善と国家安泰を願い、暦応元年(一三三八)から日本六十余州の国々に造営させた臨済宗の寺であった。そして、師の恵心が毛利家の外交僧を務めていたので、能力を買われてその地位を継ぐことになる。

ankokuji-2 安国寺恵瓊に大きな転機が訪れるのは、冒頭に記したように、足利将軍義昭が信長によって、京都を追われ、その義昭が再び京都へ戻れるよう、秀吉に斡旋した時からであった。けれど、その条件として、信長がそれなら人質を差し出せと要求したため、義昭は拒絶した。これを知った恵瓊は、
「ひととおり御異見(意見)申し上げ候えども」
 と『吉川家文書』にもあるように、何度も説得を試みるのだが、義昭には武門としての誇りがあったのであろう、最後まで耳を貸さなかったのである。こうして義昭は二十人ほどの供を従え、小船に乗って堺(今の大阪府堺市)から紀伊の由良(ゆら=今の和歌山県日高郡由良町)の興国寺に逃れ、以降二年三ヶ月の間、この寺で亡命生活を続けることになる。義昭を追放した信長も、そのあたりの状況を把握していたようで、天正四年(一五七六)十二月二十八日付けの、奥州の伊達輝宗(あの独眼竜政宗の父)に宛てた書状の中で、
「(京都を退いたのち)紀州熊野あたり流落(りゅうらく=さすらい歩く)の由に候」
 そう書き記しているのである。
(写真上=小泉純一郎首相(当時)も訪れた鞆の浦にある中川美術館)

ankokuji-3 こうした末に、義昭が備後の靹の浦に移って来たのである。そして、それを迎えたのが恵瓊であった。この鞆の浦は福山市の南端の突き出た半島に位置していて、近くに草戸千軒(くさどせんげん=中世、芦田川河口に栄えた町、延宝元年〈一六七三〉洪水で水没)があることからも解るように、古くから港が開かれている場所であった。その上、大伴旅人(おおとものたびと=奈良時代の歌人)が、
「わがもこ(わが妻)が見し鞆の浦のむろの木(ヒノキ科の常緑針葉樹、現在はねずと呼ぶ)は 常世(とこよ=永久に変らない)にあれど見し人ぞなき」
 そう詠んだほどの景勝地であったから、義昭はいたく気に入ったらしく、小松寺を仮の宿舎としたのである。その間に毛利家の寄進による御座所造営が進められ、それが完成すると、義昭はその新居へと移った。けれどなぜ、義昭はこの地に落着くことにしたのであろうか。確かに、風光明媚だという点も一つの理由だが、それ以上に、安国寺恵瓊のふっともらした言葉が、大きく物をいったのではあるまいか。彼は義昭に、こうささやいたといわれている。
(写真上=鞆の浦にある安国寺)


ankokuji-4「今を去る二百四十年建武の昔、お上の御先祖尊氏公が都を追われ九州へ下る途中、きょうと同じ二月十五日、鞆の浦に立ち寄られ、この小松寺に宿を取ったのでございます。さらに、九州で再起を図った尊氏公は、大軍を催して五月六日、再び鞆の浦へ戻られ、この小松寺に陣したのでございます。そして、ここで軍議を開かれた尊氏公は、東進を開始し、楠木正成らを湊川(みなとがわ=兵庫県神戸市の中央部を流れる川)に破って都へ入られ、めでたく幕府を開かれたのでございます」
 と(このあたりの記述は、川西利衛(としえ)氏著『鞆幕府』福山商工会議所発刊・からの引用である)
(写真上=安国寺境内にある茶筌(ちゃせん)塚)

—そうか、この鞆の浦こそわが足利家開運の地であったのか…

ankokuji-3-1 そう義昭は感じたに違いない。
 こうして、出来たばかりの御座所に腰を据えると、諸大名に対して、しきりと御内書を発給するようになった。御内書というのは将軍が記す書状のことだから、信長によって京都を追われたとはいえ、まだ義昭は、征夷大将軍の官職までは失っていなかったということになる。その上彼の回りには、奉行衆・奉公衆など百人を超える側近たちが付き従っていたから、あたかも鞆の浦に小さな幕府が存在するような観を呈していたのである…。無論その間ずっと当地に在住し、影で支えた恵瓊の骨折りを決して忘れてはいけないであろう。
(写真上=本堂跡)

ankokuji-5 彼は屋根は傾き、雨漏りはするといった具合に、荒れ放題となっていた安国寺を勧進によって再建し、落成式には京から能役者を招き、集った近隣の豪族たちに義昭の存在を、しきりとアピールしたのである。これによって、すっかり自信を取り戻した義昭は、次第次第に憎き信長に対する、包囲網を形成して行くことになる。中でも頼りにしたのが越後の上杉と、甲斐の武田、それに石山(今の大阪)に本拠を置く本願寺であった。
 これに対し信長は、そのころ苦しい状況下にあった。なぜなら、家臣の荒木村重がその本願寺と手を結んで、叛旗をひるがえしたからである。そのことは天正六年(一五七八)十月十七日付の顕如(けんにょ=本願寺第十一代法主)の誓紙の中に、
「寺記(規)法度に候へども、公儀(義昭)ならびに芸州(毛利輝元)へ申し対せらるご忠節の儀に候間、存分に任せらる様、随分才覚せしむべし」
 とあって、顕如は村重が本願寺に属すことこそ、義昭と輝元に対する忠節であると位置づけていることからも読み解ける。信長は前年(一五七七)にも松永久秀にも背かれているから、まさに絶体絶命の危機を迎えていたのである。
(安国寺境内にある庭と浩宮様来訪記念樹)

ankokuji-6 しかし…であった。信長にとっては好運、義昭にとっては不運というべき事態が起きた。その年、"越後の竜"と称された上杉謙信がその居城である春日山城(新潟県上越市)で、突然この世から姿を消してしまったからである。信長が最も恐れたのが、武田信玄とこの謙信であった。特に謙信には前年(一五七七)の九月二十三日、石川県石川郡を流れる手取川での合戦で、痛い目に会っている。織田軍は千余人が討ち取られ、川に流された者、その数を知らず、そういわれたほどの大惨敗を喫したのだ。それだけにこの"越後の竜"の死は、四面楚歌の状態にあった信長にとって、一筋の光を見た思いであったに違いない。(写真上=鞆の浦の海岸)
 "甲斐の虎"信玄が死んだ時も、そうであった。元亀三年(一五七二)十二月二十二日、浜松城(静岡県浜松市)の近くにある三方ヶ原台地で徳川家康を叩きのめした信玄は、怒とうのごとく西へ向かって進軍をつづけ、信長との直接対決は避けられないと思われた。けれど、年が改まった二月十五日、野田城(愛知県新城=しんしろ市)を攻略して以降、武田軍の足の動きが鈍くなった。そして放ってある間者(スパイ)によって、
「信玄、伊那郡駒場(こまんば)で死亡したもよう」
との情報を入手したのである。信玄が没した元亀四年四月十二日の段階では、信長は信玄と正面から戦って絶対に勝てるという自信はまだなかったから、ほっとしたのは事実であろう。そうして今度は、もう一人の謙信が死んだのである。

—オレには天運がある!

ankokuji-7それを感じた信長は、一転して攻勢に出ることにした。(写真左=歴史を感じさせる港周辺)
 まず、天正七年(一五七九)九月二日、己に背いた荒木村重の居城有岡城(大阪府伊丹市)を攻略すると、その後丹波(たんば=大部分は今の京都府、一部は兵庫県に属する)丹後(今の京都府)を平定、天正八年(一五八〇)閏三月五日には、朝廷の仲立により、長年血みどろの戦いを展開して来た石山本願寺との和睦を成立させたのである。事実上の勝利宣言といって良い。
 こうして信長は中国地方の覇者毛利氏との、対決姿勢を本格化させるのである。けれど、天正十年(一五八二)の六月二日になって、安国寺恵瓊の予言が現実となる大事件が起きた。いうまでもない、"本能寺の変"がそれであった。
 羽柴秀吉はこの時、毛利方の最前線備中高松城(岡山県岡山市)を水攻めにしていたのだが、その一方で毛利との和睦交渉を、水面下で行なっていたのである。その交渉役は、羽柴方が黒田官兵衛、毛利方が安国寺恵瓊という切れ者同士であった。第一回目の講和交渉は五月(ということは"本能寺の変"が起きるほぼ一ヶ月前ということになる)に行なわれ、『毛利家文書五九号』によると、
ankokuji-8 「毛利方から五ヶ国、つまり、当時取合い中であった備中・美作(みまさか=共に今の岡山県)・伯耆(ほうき=今の鳥取県)三国に加えて、毛利にとっては重要な備後・出雲(今の島根県)両国さえも、手放そうと申し出た」
 そうある。一方の官兵衛は、五ヶ国の譲渡プラス備中高松城の城主清水宗治(むねはる)の切腹を要求したが、恵瓊はこれを拒み、一回目の交渉は物別れとなった。(写真右=保命酒の蔵元)

 その矢先、"本能寺の変"が起きたのである。秀吉側はすでにその情報を得ていたが、それを秘匿したまま二回目の交渉に臨み、備後・出雲は従来通り、毛利の領国にするという妥協案を提示したのである。
 その時恵瓊は、おや、何かあったなと直感したに違いない。ただし、と官兵衛はいい、やはり、宗治どののお命だけは…とつづけた。恵瓊はうなずき、毛利方には何の相談もせずに清水宗治に会いに行った。こうして宗治は、六月四日、巳刻(みのこく=今の午前十時)、
「浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔(こけ)に残して」
 その辞世の歌とともに切腹して果て、こうして秀吉の"中国大返し"が敢行されるようになるのだが、去って行く秀吉の姿を、果して恵瓊はどんな思いで見送ったのであろうか。

—自分がかつて、さりとてはの者にて候、そう表現した男に、ここで恩を売っておけば、あるいは義昭さまを京都へ復帰させることが出来るのではあるまいか…。

ankokuji-9 そんな思いがよぎっていたのかも知れない。しかし、翌年(天正十一年=一五八三)四月二十四日、宿敵柴田勝家の居城北の庄城(福井県福井市)を攻め、勝家を自刃に追いやった時点から、秀吉には天下簒奪(さんだつ)の野心が芽ばえ"貧報乏公方=おちぶれた将軍"と世間で蔑(さげす)まれた義昭の存在など、すでに眼中にはなかったのである。(写真左=江戸末期の文久3年、三条実美らが七卿落ちで宿泊した保命酒の太田家)

 それでも、恵瓊が"中国大返し"の際に自分に見せてくれた恩義は覚えていたらしく、やがて彼に伊予(今の愛媛県)に二万三千石、安芸にも一万一千石の領地を与えてやるのである。その後、恵瓊は僧侶ながら六万石を領する大名となり、豊臣家の直臣として活動することになるのだが、この恵瓊の転進によって、事実上"鞆幕府"は消滅したといって良い。つまり"鞆幕府"は安国寺恵瓊によって興り、恵瓊によって滅んだと解釈することが出来よう。

 後年彼は、"関ヶ原の戦い"では石田三成に与し、三成が敗れたことによって、慶長五年(一六〇〇)十月一日、京都六条河原で斬首される運命にあった。あれほど鮮やかに、十年後の信長と秀吉の姿をいい当てたというのに、自分の未来までは予言出来なかったのであろうか。歴史の皮肉としかいいようがない。
「清風、明月を払い、明月、清風を払う」
 これが戦国時代の怪僧、安国寺恵瓊の最後の言葉であったと伝わっている…。

(本文中の写真撮影 米沢日報デジタル)

2018年4月16日14:05配信)