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寄稿 「周恩来との握手」  文・写真 舩山達郎

寄稿者略歴

sh0舩山達郎(ふなやまたつろう)
 昭和4年生まれ。置賜農学校卒業。元JA山形おきたま代表理事組合長。元歌誌えにしだ運営委員会代表。川西町在住。


 
〜日本との友好を希求した中国を訪ねて〜

一、はじめに 

sh1 人生には僥倖(ぎょうこう)と邂逅と奇縁がある。今年の三月である。米沢日報の成澤礼夫社長から電話が来た。「あなたの人生の中でも、とっておきの珍しいものが見つかった」と言うのである。謎かけか。何であろうか。思いをめぐらしたが浮かんで来なかった。(写真右=米沢日報で見つかったフィルム)
 今では杳(とお)い話になる。小生にとってはすでに忘却の彼方に去った写真のフィルムが見つかったと言う。どうしてそれが米沢日報の屑箱同然の段ボールに残されていたのか、発見をして知らせてくださった社長に感謝をした。
 今から52年前、昭和40年(一九六五)である。私は36歳だった。私は畏敬してやまない人生の親分、寒河江善秋先生のはからいで中国が主催をした「中日青年大交流」に参加をした。戦後国内がこれほど発展していることを日本青年の目のあたり見せしめようとする中国の意図であった。
 招待をうけたのは日本国内の青年団体、左翼の民青、社青同から部落解放同盟など。中に日本青年団協議会もあって、私は日青協の一員として13名のひとりだった。
 中国全土をめぐる。行く先々で歓迎をされ「友好万歳」を叫ぶ渦の中を私たちも叫び乍ら進んだ。この時、私はカメラを持っていた。先輩にすすめられたのがオリンパスペンである。押せば写るので、所をかまわずシャッターを切った。

二、国境を越える

sh2 入国の前夜は香港に一泊をした。恥ずかしいことであるが、ホテルに泊まって入浴のマナーを知らず、同室のK氏に迷惑をかけたことである。K氏はこのあと大学の講師となり、私の農協女性部に講演に来られた。
 香港は中国であってもイギリスの統治下にある複雑な国柄であった。香港島とも言うが船に乗った記憶がない。国境は深川だった。長い長い木造のトンネルが黒々と続いていて私たちは歩いた。(写真左=羽田空港にて出発を前に)
 迎えに来られていたのは、通訳の王(ワン)氏と李(リ)氏と共産主義青年団の幹部(名前が思い出せない)と三人だった。この時からめいめいの旅券は通訳の王氏がまとめて出国まで預かった。
 私の団体の中には思想を持っていて右も左も露骨に主張する者はいなかったが、或いは党籍を持っていてもあらわさず。ついに訪中の期間、一ヶ月、ほぼ三十日は過ぎた。
 これは後日譚であるが、私の場合は出発前、警察の駐在所から思想調査らしき訪問があったし、帰国後も今度は署の警備課の警部補が来られて、私が買って来た中国全土の地図をおみやげに10部を買って来たから、そのうちの何部かは日本政府の機関に届けられた筈である。
 広州の街でおどろいたのは人間が多かったことである。何かにたとえるべくもなかった。河に水上生活を見た。舟のなかに豚がいた。一匹だったが飼われていたのであろう。
 広州と杭州は同音であるが杭州はよく「クイの杭州と呼ばれていた。岸に柳がなびく名勝、西湖のほとりに建つ杭州飯店に泊った時、同じ団の友人がホテルの女性服務員にチップのつもりで、記念にと日本のコインを進ぜようとしたら厳重な注意をうけた。

三、窓の下の人民の群

sh3 上海は日本にとって戦争の街である。第一次、第二次の上海事変があり、市街戦の激突が繰り返された。海軍の上海陸戦隊があった。戦前には租界があった。租界とは外国人が市民の居留地の警察と行政を管理する組織のことである。(写真右=水上生活者(広州))

sh15 今から50年前にイギリスがここにいた。その面影をとどめて和平飯店がある。玄関は重厚な回転式のドアだった。(写真左=レセプション(上海))

 私たちが泊ったのはこのホテルである。部屋に居ると通訳が一人の男を伴って来た。男は私の身長と肩巾を計測し布地の見本を見せてどの色がよろしいかと好みの色を決めさせた。何ごとかとわからなかった。
sh8 翌朝になって私たちに外套の様なコートが配られた。いたれりつくせりとはこのことか。待遇が身に沁みた。コートの外側の布地はサージで内側はふかふかとしたモールだった。私たちはこれまで日本から着て来たオーバーコートをまとめて送り、この日からこのコートで旅行をし、サハラ砂漠が近くにあるという延安まで行くのである。(写真右=裏口駅で見送りの人垣にもみくちゃにされて)
 
sh4 寸法をとってもらっている時刻である。窓を開けるとホテルの前の街道の真向かいの舗道に黒い人影がびっしりと屯ろしているのを見て驚いた。何ごとか。この群衆は手を振るでなく、呼ぶでもなく沈黙のままだった。夕べに去り朝になるとまた寄せて来た。日本の青年が泊っているという窓を見上げている風で動きもしなかった。それほど私たちは珍しい存在だったのである。人影が未だ寄せて来ない朝のうち近くを流れる川岸に出てみた。ここには動く人影が幾つかあった。太極拳をする人たちである。川霧が立ちこめていた。私にとって上海は幻の街だった。

四、南京の少年宮

sh5 南京は静かな町だった。家の前の道路に家族が食事をしているのを初めて見た。南京では少年宮を訪ねた。少年少女たちが鳴物入りで飛び跳ねる踊りが渦巻いていた。私は「遊びをせむとや生れけむ」の平安時代の梁塵秘抄をいみじくも想起した。人も辺りの会場も明るい色彩に満ちていた。(写真右=女子労働者(上海))

 しかしこのイメージはがらりと変わった。京劇を観る。演目は古典と思いきや、「椰子林に銃火燃ゆ」。舞台には兵士の姿が出た。ベトナム戦争だった。街角には美帝国主義反対と越南支持の文言のビラが貼られていた。美帝国とはアメリカ。越南とはベトナムのことである。ここにはこの国の国論を感じた。
sh11 それからである。或る記念館に案内された。そこには南京大虐殺の写真と遺品が陳列されたいた。それを通訳の李さんは解説をして目に涙を浮かべていた。この南京大虐殺は真実か。虐実か。戦後のわが国内にあっても両論がある。
 会場をひとまわりして感想を尋ねられて別の団体の青年は感きわる様にトークをした。「この戦争に私の肉親も参加をしておりました。こんなことがあったので申しわけなくお詫びをします」
(写真上=中日青年友好大交流の会場(場所不明))

五、歳旦の人民大会堂

sh14 この年、私たちは北京で越年をした。主催は共青団であったろうか。大晦日、歳晩のパーティーに招ばれて帰り道、天安門広場をよぎり宿りの北京飯店に歩いて来た。街灯がぼんやりと点り寒い夜だった。明日は歳旦(一月元旦)である。
(写真左=人民大会堂で周恩来首相と写る筆者(後列右3人目))


 明けて人民大会堂へ行った。大会堂では周恩来首相に演説調の談話を聞いた。広くない部屋だった。部屋には首相のまわりに座る人たちと南国風の肌の黒い青年男女も一緒だった。
sh17 談話は覇気に満ちていた。中国の国情を語り、これから世界の制覇を言うに惜しまなかった。談話はほぼ一時間はかからなかった。大会堂の中に撮影室がある。首相と私たちの団長を最前に皆並んで記念写真が残っている。

 部屋の出口に首相が立たれていた。握手は炯々(けいけい)とした眼光に怖るるまじ、見上げて眼を交した。
 通訳をした少女と小林多喜二の小説、蟹工船を読んだかと聞いてみたこの最初が年の翌々年である。
  紅衛兵の文化大革命が天安門で起こる。この時はその気配もなかった。(写真右=一人ひとりと握手する周恩来首相(人民大会堂))

六、西園寺さん

sh12 ここは北京市の一角である。瀟洒な洋風の建物があった。中国にもこんなところがあるのである。私たちは歳旦の午後、西園寺さんの招待を受けた。西園寺公一氏は日中友好協会の日本側の会長である。因みに中国側にも友好協会がある。会長は寥承志だった。
 寥は日本の早稲田大学に学んだ人だった。体格も大きかったが心も大様だった。眼はやさしく一見、象の様な眼差しだった。中国では毛沢東から数えて25番目の要人と言われていた。西園寺さんの住居を訪ねて氏がいかに中国で優遇されているかがわかった。(写真左=天安門前の筆者)

sh13 この住居はかつてのイギリス大使館の公舎だった。私たちは西園寺さんを囲んで応接間で歓談をした。かたじけなかったのは、お正月に餅のお雑煮が出たことである。或るところには在るものである。故国を離れて来た吾々にとって異国に出逢った思いもしなかった充足を味会うのであった。
 氏は昭和の元老、西園寺公望の孫にあたる。雪江夫人は銀座に雪江堂という中国から交易の品をあつかう店があることをあとでわかった。
(写真上=西園寺公一氏(眼鏡の男性))

七、大雁塔と碑林

sh9 西安は唐の玄宗の時代の都で、長安と呼ばれていた。ここまで来る途中、ここに寒山寺ありき。石の標が平原に埋められていた。大雁塔は壮大な赤埴の土で築かれた塔である。徒で上階までのぼられたのは若かったからである。見放くるとはこのことか。はるかに霞む空の中に小雁塔が見えた。(写真右=陜西省人民委員会(延安))

 この都から西欧にいたるシルクロードが発する。ロードはトルコまでもイスタンブールで私は景徳鎮の窯で焼かれたという八角の瓶の名品を見たことがある。洋の東西の交易があったのである。
sh6 西安の見どころは碑林博物館である。いつの時代か。中国の全土から碑(いしぶみ)が集って陳列されていた。壮観と言うよりおびただしかった。史家か書家なら目の保養。学究者には垂涎の資料であろうが惜しいかな。凡人の私たちの目には貴重さがわからなかった。それでも売られていた寒山寺の詩や顔真卿の碑文の書の拓本を買う者がいた。私は朱墨の壽の文字の大幅をもとめた。表具をして祝宴の席に掛けている。
 私たちが泊った西安大廈では私たちが帰るころ、廊下に敷かれた赤い絨毯を巻いて仕舞うところだった。この日、私のために敷かれていたのである。(写真左=用水路の人海戦術)

八、延安は革命の聖地

sh10 プロペラ機で延安に飛ぶ。夕暮れ。空港には星章が浮かぶようにネオンが点っていた。着陸したのは滑走路が草原だった。少女たちが迎えてくれた。握手をすると差し出した手の甲が皹われていた。痛々しかった。宿泊する。
 建物は兵舎のような木造。部屋には寝台と浴槽と便器。一人の寝室には広い空間だった。もう一つ部屋は事務室であった。表札に陜西省人民委員会と書かれている。机と椅子の上に毛沢東の写真がかけていた。この机で毛沢東は選集と語録を著述した。(写真右=毛沢東のベッド(延安))

 近くの岡が棗園と呼ばれている。岡は広い台地である。そちこちに土づくりの家がある。家には毛沢東・周恩来・劉少奇などの住処跡の名札が立っている。党の幹部たちがそれぞれに住んでいたのである。ここの一つに岡野進住処もあった。岡野進はご存知、日本の野坂参三のことである。野坂はここから帰団し、日本共産党の党首となった。棗園の下は人民の裏街だった。
 日本軍国主義反対の真新しいビラが街角に貼られていた。日本では軍国主義は終っていたのに、そう言えば田中角栄首相が日中国交正常化を果たすのは、昭和47年9月であるから、このあと7年後になる。

九、人民公社の女の社長

sh16 人民公社は、日本では村と農協の機能を持つ地方組織のことである。私は一度、農村に入って中国の農業を見聞する機会を得たいと思っていた。
 三河の公社を訪ねる。中国農業の背景には大躍進と唱えられた。食糧の生産拡大の施策があった。上空から山を見下ろすと山の段丘が見える。傾りがことごとく耕地に拓かれている。
 訪ねた公社は山中ではなかったが女の社長は気負うように、昨年と一昨年、年次をさかのぼって生産量が年毎に拡大していることを実績をかかげて誇らげだった。(写真右=人民公社の女性社長)

sh7 農家を尋ねる。大家族に迎えられる。古老が革命の以前の貧しさを言い、今はこうして客人をもてなすことが出来るようになったとゆとりを強調した。ビンに詰められた南瓜の種子を食み乍ら、肉のかたまりのような煮物には手が出なかった。(写真左=村の農家を訪問(三河))
 古老は種子播きの特技を持っていた。この畑の広さにこの種子量を播く技があり。畑の中には古くなったファーガソンのトラックがさらされていた。私も使ったことのある水稲の株間とりの除草機を見たのは北京の農業館である。

十、清華大学の学生たち

sh18 万里の長城に行く時だった。共青団の配慮か。清華大学の学生たちと同乗した。この大学は日本の東大に匹敵する。席をとなりして筆談が出来た。紙切れに日本の漢字を書くとさすがにエリートである。あの頃、中国では漢文字を省略した略字のような文字が用いられていたのに理解が出来た。先方もまた日本の漢字だった。どんな問答をしたのか今では記憶にない。(写真右=清華大学学生と万里の長城で写す習近平主席と同じ世代))

 彼らは年代を数えると今から50年前であるから、現代では卒業をして活躍している筈である。習近平と同じ世代である。あの時の学生は、或いは中国政府に要人となっているに違いない。今の時代になるのなら文通をしておけばよかった。
 文通については小学校の少女に少年宮で逢ったことがある。私の名刺に名前を書いてくれた可明珍とおぼえている。住所も書いてくれた。手紙を書いてあげますと言うと、少女はおびえるように拒絶した。あのエリートの学生にもかなわったにちがいない。

※この寄稿は、米沢日報デジタル新聞版「米沢日報」(平成29年4月28日号)より転載しました。

(2018年4月13日20:45配信)