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寄稿 「猪苗代湖周辺を巡る旅」 斎藤秀夫

寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
saito18 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)、『男たちの夢—歴史との語り合い—』(同)、『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)、『桔梗の花さく城』(鳥影社)、『日本城紀行』(同)、『続日本城紀行』(同)、『城と歴史を探る旅』(同)、『続城と歴史を探る旅』
(同)、『城門を潜って』(同)


 
inawashiro1 二〇一八年の七月二十一日、私と大谷氏(この方はあの大谷吉継の末裔に当っている)それに静岡県藤枝市在住の多々良氏は、同じ列車に乗って、一路米沢へと向かった。翌日(二十二日)の午後二時から、米沢御掘端史蹟保存会主催による『直江兼続四百回忌記念講演会』が伝国の杜置賜文化ホールで行なわれるが、そこで大谷氏と私とが、話をするためにである(掲載した一番目の写真参照)

 もちろん、この催し物の主役は大谷氏であり、私はその脇役として、また多々良氏は聴衆の一人として参加することにしたのである。そして、その講演会が行なわれる前日に、このイベントを企画した保存会の関原会長と植木副会長、さらに東置賜郡川西町在住の渡邊氏とがJR福島駅西口で三人と合流して、猪苗代湖周辺を巡る運びとなったのである…。
inawashiro2 午前十時三十分。定刻通り集合場所に顔をそろえた面々は、一通りの挨拶を交わしたのち(大谷氏は私以外の人たちとは初対面である)さっそく八人乗りのワゴン車に乗って、駅前をスタートさせた。二〇一八年の夏は、連日猛暑が続いており、暑さ対策が心配であったが、幸いの事に強烈な陽が射し込むことはなく、熱中症だけは避けられそうであった。その上車内はよくクーラーが効いているので、快適のうちに最初の訪問地に着いた。それが猪苗代湖である。(二番目に掲載した写真参照)

 この湖は、日本最大の琵琶湖には及びはしないが、その水深は平均で五一・五メートル、周囲約五〇キロメートル、面積一〇三平方キロメートルはあって、日本で八番目に大きい。写真のように波はおだやか、湖畔では夏休みに入ったばかりの子供たちの声が、楽しげに響いていた。
「少し早いけど、この景色を眺めながら昼食にしましょう」
 そういって植木氏は、ワゴン車の荷台から弁当を取り出し、お茶が入ったボトルとともに、一人一人に配って廻った。
「あッ、恐縮です」
inawashiro3 大谷氏がそういって深々と頭を下げたので、つられて私も、それに習った。雄大な湖を眼の前にしての食事である。どの顔にも、満ち足りた表情が浮かんでいる。こうして、腹に兵糧攻めを終了させた勇士たち(?)は、今度は猪苗代城(亀ヶ城ともいう)へと足を向けた。
 私と多々良氏とは二年前、渡邊氏の案内で一度来たことがあるが、大谷氏は初めてのようで、車から降りるなり、何度もカメラを構え直した。私も城入口で見つけた解説板に向けて、ピントを合わせることにした。それが三番目に掲載した写真である。

『新編会津風土記』という文献によると、 「この城は佐原大炊助経連(おおいのすけつねつら)が居所なりしにや、経連は遠江守盛連(とおとうみのかみもりつら)の長男にて光盛(みつもり)の異母兄なり(盛連の代にこの家は二つに枝分かれをし、経連が猪苗代家を興し、光盛が芦名家の三代目となった)某子孫代々此所(このところ)に住し」
 とある。さらにそのルーツは、三番目に掲載した写真を注視すれば解るように、相inawashiro4模国(さがみのくに=今の神奈川県)の住人で、源頼朝の功臣である三浦義明(よしあき)にたどり着く。その子義連(よしつら)は文治(ぶんじ)五年(一一八九)頼朝が起こした"奥州征伐"で軍功を挙げ、会津、大沼、河沼、耶麻(やま)の四郡を賜わったのである。城が造営されたのは、建久(けんきゅう)二年(一一九一)のことだといわれている。間もなくして左側に向かって歩いて行くと、石垣が視界に入ったので、もう一度カメラを握りしめた。その時シャッターを押したのが四番目に掲載した写真である。多々良氏は、
「土橋を見ると、なぜかワクワクする」
 そういい切るが、私は石垣が好きである。中でもこのような野面積(のづらづみ)がたまらない。そんな、私の心を捉えて放さない石垣を持つ猪苗代城はその後、会津藩の傘下に組み入れられ、元和(げんな)元年(一六一五)に定められた"一国一城令"でも壊されることはなく、会津若松城の東側の防御拠点として機能して行くのである。
 しかしながら、慶応(けいおう)四年(一八六八)八月二十一日、総勢三千の兵を擁する西軍(新政府軍)は、猪苗代湖の東北約十二キロメートルに位置する天嶮の要衝母成峠(ぼなりとうげ)を越えて、一挙に会津国境を突破する構えを見せた。そうはさせじと、東軍(会津軍)はこれを迎え撃つべく出撃、おりからの濃務の中での激戦となった。
 だが、東軍には八百名の兵しかおらず、やがて、猪苗代方面への敗走を余儀なくされた。勢いにのる西軍の追走はすさまじく、これを知った時の猪苗代城代高橋権太夫は自らの城と、会津藩祖保科正之を祀る土津(はにつ)神社に火を放って、会津若松城へ撤退したとされている…。
「では、次へ行きますか」
 関原氏がそう声をかけ、
「場所は裏磐梯(うらばんだい)です」
 と植木氏がつづけた。こうして一行は再び車中の人となり、五色沼を目ざすことにした。進むにつれて両脇に山が多くなり、しばらく行った時、運転手の植木氏の横に坐っている関原氏が、前方を指さしながら、
「あれが、磐梯山です」
と説明を加えた。
「標高は一八〇〇メートルほどあります」
「あれが宝の山?」
「そうです」
「でも、どうしてそう呼ぶんでしょうかね」
 再度の私の問いかけに、即座に答えたのは渡邊氏だった。
「やっぱりこのあたりで、米が獲れるからじゃないですかね、江戸時代、米は貸幣と同じ価値を持っていましたからね」
「なるほど、ところで大谷吉継は主君の秀吉から賜っていた禄高はどのくらいでしたっけ?」
「越前敦賀(えちぜんつるが=今の福井県敦賀市)で五万石です」
すぐに大谷氏の返事が返って来た。−さすがだな…と私は感じた。すると、
「年令的には石田三成とは同じくらいですか?」
 今度は多々良氏が尋ねる番だった。
「吉継の方が一つ上ですね、三成と直江兼続は同い年ですけど…」
「だから、この三人は仲が良かった?」
「それもあるでしょうけど、やはり三人とも信義を重んじる武将であった、そのあたりに響き合うものがあったんじゃないでしょうか」
「つまり、上杉の義ですね」
 私のその一言で、車内がさらににぎやかになった。
「さあ、五色沼に到着しましたよ」
 車を停止させるなり、植木氏がそういった。その声に残りの五人は一勢にドアを開いて外に出た。五分ほど歩いただろうか、やがて鮮やかな光景が眼の前に迫って来た(掲載した五番目の写真参照)濃い緑の水面が美しい。すると、私の隣に並んだ関原氏が、右手の指を突き出してこういった。
「右の方にそびえているのが、先っき述べた磐梯山です」
inawashiro5 確かに山の稜線がかすかに望める。うんうんと私がうなずいていると、今度は渡邊氏が近づいて来て声をかけた。
「この五色沼は、あの磐梯山の噴火によって生じたものです」
 相変わらず彼は、いろいろなことに詳しい。近くの解説板を見つめながら、解りやすい言葉で語りつづけた。なるほど、その解説板の文面にも、
「これらの沼は明治二年(一八八八)の噴火の際、岩なだれによってせき止められた。あたりに点在する沼は大小三十ほどあり、生育植物の多い少ない、あるいは沼に含まれる鉱物の性質や量によって、赤、コバルト、緑、藍などの色を呈している。そのため、これらの沼を総称して五色沼と呼ぶ」
 そうあった。
「近くにある檜原湖(ひばらこ)も同じ噴火で生まれたものです。そのため、そのあたりに点在していた民家は、すべて湖底に沈んでしまいました」
 渡邊氏の話しに熱心に聞き入る大谷氏、その横顔はいかにも感慨深そうであった。当然かも知れない。彼は今年の四月から、茨城県常陸大宮市の保健所所長に就任しているのである…。
 しばし、五色沼最大の大きさを誇る毘沙門沼(びしゃもんぬま)に見入った六人は、次の予定地小谷山城を目ざした。県道を走ることおよそ二十分ほど、先っき渡邊氏が少し触れた檜原湖のすぐ近くに、目ざす城跡はあった。しかし…であった。大手道を登ろうとして、全員の足が、ぴたりとその地点で釘付けとなった。なぜならそこには"熊に注意!"その立て札があったからである。
「実は最近…」
 と私が、少々たじろぎながらそういった。
「あるテレビ局の番組で、人が熊に襲われる映像を見たんですよ」
「私もですよ、斎藤さん」
 苦笑しながら、渡邊氏がつづけた。
「あのシーンを目撃したらどうも」
「では、どうします?」
inawashiro6 みんなの顔を交互に見ながら、植木氏がいった。すると、大谷氏が泰然とした表情で、
「ここは、すみやかに兵を退くのが最善かと」
 静かな口調でそういった。彼の先祖である大谷吉継は主君秀吉をして、
「奴(吉継)に百万の兵を与えて、采配を採らしてみたい」
 そういわしめたほどの武将である。そのDNAは私の眼の前にいる大谷氏に、間違いなく受け継がれていると、その時思った。彼の一言で、全員の肚は決まったといってよく、勇気ある(?)撤退を行うことになった。
−さわらぬ神に崇りなし、勝算なきは戦わず!
inawashiro8 それも作戦の一つである。けれど、せめて城入口まで攻め入った証として、カメラのシャッターを二度ほど押すことにした。それが六番目と七番目に掲載した写真である。これは旅先から戻って確認したことだが、小谷山城はあの独眼竜政宗が、天正(てんしょう)十三年(一五八五)に築城したことが解り、それが少しばかり心残りとはなったが、時すでに遅しであった…。

 以上の如くして、猪苗代湖周辺の散策を満喫した一行は、いよいよ米沢を目ざすことになるのだが、関原氏と植木氏とは残り四人のために、粋なはからいを示してくれたのである。米沢市大字関に、白布(しらぶ)温泉というのがあるが、そこへ我々を案内してくれたのである。その湯治場の近くには、直江兼続が鉄砲を製造させたという記念碑が建っており、近づいて行って、刻まれた文字を眼で追うと、
「上杉景勝の執政として米沢城下の整備を指揮した景勝は軍備にも力を注ぎ、慶長(けいちょう)九年(一六〇四)に、江州国友村(現在の滋賀県長浜町)から吉川惣兵衛、泉州堺(現在の大阪府堺市)から和泉屋松右衛門を招き、当村白布高湯(たかゆ)において千挺の鉄砲を製造させた」
 そう読めた。関原氏と植木氏とが案内してくれたのは、開湯以来七百年を数える"西屋"という湯滝の宿であった。茅葺入母屋造(かやぶきいりもやづくり)の重厚な建物が残っている、風情のある構えの浴室で、男たちは裸になり、湯船に浸った。そのとたん、多々良氏が嬉しそうにこういった。
「いやあー、まさか、こんなごちそうになろうとは、思いもしなかったですよ」
「まさに、極楽、極楽」
 つられて私も、はしゃいだ声を出した。むろん、この日はこの湯治場に泊るわけではないが、疲れた体をいやすには、持ってこいの場所であった。他の人より早く外に出た私は(自慢ではないが、私はカラスの行水に近い)仲間が姿を現わすまでの間、近くの手ごろな地点に腰を降ろして、あたりの様子を見回した。大自然に包まれた空間、都会ではめったに聴くことがなくなったひぐらしの声が、どこか物悲しげに感じられる。
 −これが、東北の懐(ふところ)の深さだろうな…
 それを実体験させてくれる一瞬だった。
yohaku8 その後、米沢市内に入り、曹洞宗林泉寺を散策、六時からの楽しい懇親会となった。 (8番目の写真)
 あいにく、渡邊氏は都合で出席出来なかったが、かわりに、保存会が毎年発行している『懐風』の編集長遠藤氏、さらには『米沢日報デジタル』の発信元であり、置賜日報社社長の成澤氏も加わっての、盛大な酒宴となった。主催者が用意してくれたのは、米沢牛によるしゃぶしゃぶだったので、すかさず私が、
「シャブはやばいけど、しゃぶしゃぶなら大丈夫!」
 というおやじギャグを一発放ったのが功を奏し、席がにぎやかになり、およそ二時間ばかり"歴史談義"に花が咲く結果となった。
 こうして、懇親会の参加者たちは翌日、『記念講演会』の会場へと、足を運ぶことになるのだが、その講演会の内容については、成澤氏の話では、
「パソコンで"米沢日報デジタル"を検索すると、観ることが出来ますよ」
 とのことだったので、興味のある方は、一度アタックして下されば幸いである…

 (なお、文中に出て来る各人の話しは、私以外はフィクションの部分も混じっているが、話を盛り上げる意味を含めて、その手法を取った。さしさわりがある言葉の使い方はしていないつもりだが、もし気になった方がおられたら、深くおわびしたいと考えている)

(2018年9月5日15:00配信)