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寄稿「伊佐城から伊達家の源流を探る」斎藤秀夫

寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
saito18 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)、『男たちの夢—歴史との語り合い—』(同)、『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)、『桔梗の花さく城』(鳥影社)、『日本城紀行』(同)、『続日本城紀行』(同)、『城と歴史を探る旅』(同)、『続城と歴史を探る旅』
(同)、『城門を潜って』(同)


 
 茨城県下館市に伊佐城というのがあり、そこが、伊達家のルーツであることを知ったのは、ごくごく最近のことであった…。私はヒマを見つけては図書館に出向き、城や歴史に関する書物を調べたりするが、その時偶然にも、伊佐城の存在を知ったのである。その上この城が、あの独眼竜と称された伊達政宗の原点であることが解り、一段と興味を覚えたのである。
 今から四年ほど前になるであろうか、私は『米沢日報』(米沢日報デジタルの前身)に、福島県伊達郡にある桑折(こおり)西山城についての作品を載せてもらったことがある。そしてその紀行文の中で、桑折西山城こそ伊達十七代、政宗のそ祖父にあたる十四代植宗(たねむね)が築いたものだとそう記した。
 しかしながら、十四代ともなれば、悠久の時空を経て流れる大河にたとえれば、ちょうど中流域に当るといってよい。となれば、川となる最初の一滴目のしずくを探してみたくなるであろう。そこで今回、伊達家の源流までさかのぼってみることにしたのである…。

 宝亀(ほうき)十一年(七八〇)エミシの出身で陸奥国伊治郡(現在の宮城県栗原市)の大領(郡の長官)である伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ=伊治はこれはるとも読む)は軍を率いて東北の最高行政官である按察使(あぜち)紀広純(きのひろずみ)を伊治城において殺害、つづいて国府である多賀城(宮城県多賀城市)を襲って、穀物や武器などを奪い、焼き討ちするという事件を起こした。
 エミシ出身である呰麻呂に、そのエミシを討つようにとの命令に対する反乱であった。事態を重くみた中央政府は、右大臣藤原魚名(うおな、藤原不比等〈ふひと〉の次男で藤原北家を興した房前〈ふささき〉の五男)をこの平定に向かわせ、その時、常陸国伊讃郡(現在の茨城県下館市)に、上館、中館、下館の三館を構えたのが伊佐城のもとになったといわれている。天永(てんえい)二年(一一一一)魚名の九代あとである藤原実宗(さねむね)が常陸介に任じられ、伊佐荘中村に住み、伊佐氏を名乗ると同時に、中館を拠点として活動することになる。

 時は流れ、文治(ぶんじ)五年(一一八九)となった。その年の七月十九日、源頼朝は軍を三手に分けて奥州藤原氏征伐を断行するが、実宗の四代あとの朝宗(ともむね)は四人の息子とともに頼朝軍に加わり、信夫郡を有し、奥州藤原氏の荘園をも管理する飯坂大鳥(いいざかおおとり=福島県飯坂町)城主佐藤元治(もとはる)を石那坂(いしなざか)で討って手柄を立て、その功によって頼朝より伊達領を賜り、『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』が、
「先に伊佐あるいは中村を称するといへどもこれより伊達にあらたむ」
 と記すように、朝宗は姓を一新した。そして、この人物が伊達家の初代となるのである。そののち朝宗は、
「長子為宗(ためむね)に伊佐氏を名乗らせて伊佐中村の本主に据え、次子宗村(むねむら)らを率いて伊達郡に移る」
 と『伊佐伊達氏系図』がそう書く状況を作りあげるのである。為宗の任せられた伊佐城は、真岡(もおか)鉄道の折本(おりもと)駅近くを流れる勤行(ごんぎょう)川右岸の台地の上に位置していて、現在はそこは、中館観音寺の敷地になっている。さらに南北朝動乱期の興国(こうこく)四年(一三四三)、
「南朝方についた七代伊達行宗(ゆきむね、行朝とも書く)は一族の旧地を守ろうとして戦うも、北朝方の攻撃を受けて伊佐城は陥落した」
 と、先の文献は綴っている(中館観音寺の本堂裏には、この行宗の十七回忌供養の塔と廟〈びょう〉とがある)
 七代行宗は『吉良貞家書状』に、
「貞和(じょうわ)四年(一三四八)五月九日、伊達宮内大輔(くないだゆう)行朝者(は)死去」
 とあるように、五十八歳で世を去り、そのあとを継いだのが八代宗遠(むねとお)であった。彼は東北の北朝方の勢力を一掃すると、天授(てんじゅ)六年(一三八〇)の『伊達家譜』に、
「長井掃部頭(かもんのかみ)道広(みちひろ、この長井氏は建久〈けんきゅう〉三年=一一九二、鎌倉幕府誕生とともに置賜地方を支配し、源頼朝の信頼厚い大江広元の次男時広を祖とする)を撃って、その所領出羽国置賜郡長井庄(現在の山形県長井市)を取り」
 そう記される業績をあげ、その上で、古くから陸奥、出羽両国の交通の要地であり、湯の原から二井宿峠を経て置賜盆地に至る入口に位置する高畠(東置賜郡高畠町)に城を構えた。そしてそこを本拠として、大崎、信夫、刈田、柴田、伊具の豪族たちを屈伏させ、着々と伊達の地盤を拡大して行くのである。
 しかしであった…、北朝方が巻き返しを図ったため、家中が北朝と南朝とに分裂して抗争するようになり、伊達家の勢力は一時衰退して行く。そんな自家の低迷期に、さっそうと登場して来たのが、"伊達家中興の祖"と賛えられた九代大膳大夫(だいぜんだゆう)政宗であった。
 宗遠の嫡男である彼は(永和〈えいわ〉三年=一三七七頃、家督を譲られたと想定される)至徳(しとく)二年(一三八五)長井氏の将である新田遠江守(とおとうみのかみ)を破って長井地方を掌握すると、高畠城に改修を加えて、居城とした。なぜならこの地は、軍事、政治の両面に適していたからである。だが、南北朝が統一されるその前年の明徳(めいとく)二年(一三九一)室町幕府は陸奥、出羽両国の管轄を幕府の出先機関である鎌倉府に移すことにした。これを受けて応永(おうえい)六年(一三九九)鎌倉公方(鎌倉府の長官)足利満兼は政宗に伊達家の領土を一部割譲せよと迫った。むろん、政宗はこの命令を拒み、兵五百騎を率いて鎌倉に向けて進軍を開始した。けれど白河まで攻め入ったところでその行手をはばまれ、やむなく出羽へ逃げ帰るしか方法はなかった。だが、政宗はどうしてもあきらめることが出来ず、応永九年(一四〇二)五月になって、再び叛旗をひるがえし、鎌倉府が派遣した上杉禅秀(ぜんしゅう=氏憲〈うじのり〉)率いる七千騎と対決すべく『余目氏旧記』が、
「城の要害きびしく、切所を塞ぎ、塁を堅くしてこもりしかは、容易にせめ寄せ難く」
isajou-1 そう記した赤館(桑折西山城の前身、掲載した一番目の写真が、その赤館があったとされる本丸跡だ)に籠城、激戦の末に鎌倉軍に大打撃を与えたのである。政宗が勝利を得たその要因としては、そのころ、幕府と鎌倉府とは対立関係にあり、その状況を把握した政宗が、数年前に上洛して足利三代将軍義満に拝謁し、よしみを通じていたことをあげねばなるまい。いずれにしても、この"伊達政宗の乱"によって、さらにその支配地域を増加させた。そのことは先にも触れた『伊達家譜』の「政宗」の項に、
「亘理(わたり)黒川麾下(きか)に属し、宇多、名取、宮城、深谷、松山等皆服従す」
 そうあることからも読みとれるのだ。
 その後、この一族は十一代持宗(もちむね)の時代の応永二十年(一四一三)に梁川城(やながわじょう=伊達郡梁川町)へと移動する。この城は西は阿武隈川、北は塩野川、南は広瀬川の三河川と、東は丘陵によって囲まれた、水利交通の便がよい所に立地していた。また跡を継いだ十二代成宗(しげむね)もこの城に在住していたことは確実で、文明(ぶんめい)十五年(一四八三)に上洛して一ヶ月余り在京、八代将軍義政に拝謁、
「太刀二十数振、馬九十五頭、砂金三百八十両、銭六万貫を献上」
 と『伊達成宗上洛日記』は記しているが、これは陸奥国守護職就任への斡旋運動の一つであった。その甲斐あって、伊達家が悲願とする陸奥国守護職の地位を得るのは大永(だいえい)二年(一五二二)十四代植宗(たねむね)の治世の時である。当然伊達家には、東北第一の格式が与えられるから、植宗は梁川城の大改修を思いついたに違いない。けれど、世はまさに戦国時代へと突入していた。そこで、より壮大な城の必要性を感じた植宗は、新たな城造営の構想を練った。

isajou-2 陸奥国守護職に任じられてから十年後の天文(てんぶん)元年(一五三二)植宗は古代より東山道が通り、物資を運ぶのに便利な阿武隈川の近く、伊達郡衙(ぐんえい=郡役所)が置かれている米どころ、桑折の地(その名は古代の郡役所を意味する郡家〈こおりや〉から来ているという)に西山城を築くことにしたのである(二番目に掲載した写真は、その城を遠望したものである)そしてそれ以降しばらくの間、この地が伊達家の本拠地であったことは、植宗が天文五年(一五三六)に制定した塵芥集(じんかいしゅう=一七一条からなる、領国を統治するための法律)の一条に、
「道のほとりにて見つけ候(そうろう)拾い物のこと、西山の橋本に札を立てて拾得者が告知し、持ち主が現われた場合は、その十分の一を礼として受け取ること」
 そう明記されていることからも確認出来る。このように善政を敷いた植宗であったが、その最晩年になった天文十一年(一五四二)六月二十日、彼は嫡男晴宗(はるむね)に突如捕えられ、自らの手で堅固にした桑折西山城の一室に幽閉されてしまうのである。"天文の乱"と呼ばれる伊達家伝統のお家騒動の勃発であった(この家では十二代成宗と十三代尚宗=なおむね、その尚宗と植宗の間でも父子の抗争が起っている)

isajou-3 こうして、伊達家の実権を奪い取った十五代晴宗(はるむね)は、桑折西山城を破棄して(それが父植宗との和睦の条件であった)天文十七年(一五四八)の初冬(正確な月日は明らかになってはいない)いよいよ米沢城(三番目に掲載した写真参照)へと、その活動拠点を移すのである。そして、それからおよそ二十年後の永禄(えいろく)十年(一五六七)八月三日、この米沢城内の一角で、一人の男の子が産声をisajou-4あげた。十六代輝宗(てるむね)の嫡男であるその男児には梵天丸(ぼんてんまる)という名前が付けられたが、この男こそ成人後、独眼竜と称される十七代政宗なのである(四番目に掲載した写真参照)彼に"伊達家中興の祖"と賛えられた九代政宗と同じ名が付けられたのは、父輝宗の熱い願いがこめられていたからである…。その輝宗の期待にたがわず、やがて十七代となった政宗は、二人の天下人、豊臣秀吉、徳川家康をもてこずらす"東北の暴れん坊"となって、活躍することになる…。たしかにこの独眼竜のみせた政治手腕は、九代政宗をほうふつさせるものがあるといっても決して過言ではあるまい。否、歌の世界においても、
「中々につづら折なる道絶えて 雪に隣の近き山里」
 九代政宗がそう詠んだのに対し、
「よし野山たきのながれに花ちれば いせき(井堰=水を他に引くため、川水をせき止めた所)にかかる浪(波)ぞたちそふ」
 と、十七代政宗も秀歌を作っているのである。まさに文武両道に優れた二人といえるが、なにげなく図書館で見つけた伊佐城の存在が、伊達家のルーツを調べる結果となった。これだから、歴史探訪はやめられなくなるのである。実り多い秋となった。

(2018年10月26日11:00配信)