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寄稿「鶴ケ岡城と酒井家の関わり」 斎藤秀夫

寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
saito18 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)、『男たちの夢—歴史との語り合い—』(同)、『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)、『桔梗の花さく城』(鳥影社)、『日本城紀行』(同)、『続日本城紀行』(同)、『城と歴史を探る旅』(同)、『続城と歴史を探る旅』
(同)、『城門を潜って』(同)


 
 前回私は、鶴ケ岡城が大宝寺城と呼ばれていたころの、城の変遷について記述してみた。そこで今回は、それまで鶴ケ岡城を使用していた最上家が、改易となったその後のこの城の動向を、私なりに探ってみることにした。

t&s1 元和(げんな)八年(一六二二)八月、酒井忠勝(ただかつ)はそれまでの信州松代(今の長野県長野市)十万石から、十三万八千石となって鶴ケ岡城に入り、庄内藩の初代藩主となった。幕府が三河(今の愛知県東部)以来の名門、酒井家を庄内に移封させたのは、慶長(けいちょう)五年(一六〇〇)九月十五日に行なわれた関ヶ原の戦いののち、常陸(今の茨城県)五十五万石から秋田二十一万石に減封された佐竹義宣(よしのぶ)、会津百二十万石から米沢三十万石と、大幅に禄高を削られた上杉景勝、さらに仙台に城を構える曲者伊達政宗、これら外様大名の押えとして譜代大名である酒井家を置いたのである。(写真右上、左=荘内藩校致道館)
t&s2 忠勝はこの幕命を受けた際、始めは三万八千石の加増を喜びながらも、一方では、どうせ出羽国に領地を賜わるのであれば、付属地のような庄内ではなく、最上家の本拠地であった山形を拝領したいと願っていたといわれている。けれど、老中より、
「今度の儀専(もっぱ)ら外藩警守の御内意にて、貴殿家柄格別の思召をもって仰せ下されし儀なれば、かの両城(鶴ケ岡城と亀ケ崎城)御守護ありて永く天下の藩屏(はんぺい)たるべし」
 そういわれて納得したと『大泉紀年』にはある。そうはいっても、忠勝はすんなりと鶴ケ岡城を、自分の新しい居城にしようと考えたわけではなかった。交易の面を考えるならば、港町として賑わいをみせる、酒田にある亀ケ崎城の方が便利だが、反面刺激が強く、藩士(特に若い藩士たち)をそこへ住まわせることは、軟弱になってしまう恐れがある。一方、鶴ケ岡城は赤川中流域の丘陵地帯にあって、領国統治には適しており、周辺に暮す人々には、まだ素朴さが色濃く残っている利点がある…。忠勝は迷ったが、最後は、鶴ケ岡城を、己の居城と定めたのである。その翌年から城の改造工事に着手し、二の丸南東と本丸の北西に御角櫓を設け、天守の代用とした。さらに、本丸の中央に藩主が日常生活を営む御殿を造営、その規模は明和(めいわ)七年(一七七〇)に記された『巡見使(じゅんけんし=幕府が諸国に派遣、地方の政治を監察させた役人)下向につき伺書』によれば、
「御殿には藩主の居室、黒木書院、白木書院、広間、奥向の部屋、表台所、長局、家老詰所、右筆詰所などの建物九八九坪と井戸六があり、承応(しょうおう)三年(一六五四)の完成」(三番目の写真=鶴ヶ岡城があった場所は公園に)
t&s3 とある。さらに、本丸と二の丸の出入口となる中の門附近と本丸南面の大部分を石垣とし、その石垣の上に多聞櫓を載せ、鉄砲狭間を矢狭間の倍の数にして、敵の襲撃に備えた。本丸西面はほとんど土塁で、土橋を二の丸、三の丸の北西に集め、そこから多くの軍勢をくり出せる構造にした。仮想敵国を、秋田の佐竹藩とみていた証である。
 ところで、この忠勝の祖父に当るのが、酒井忠次なのである。彼は徳川家康に仕えて活躍し、"徳川四天王の筆頭"と称されるようになり、天正(てんしょう)十六年(一五八八)十月、眼病を理由に、家督を嫡男家次に譲り渡したのだが、実はこの家次に関してはある一つの逸話が残されている。天正十八年(一五九〇)八月、忠次の主君家康は時の最高権力者豊臣秀吉から、関東への移転を命じられるが、その際家康は、酒井家を継いだ家次を下総臼井(しもうさうすい=今の千葉県佐倉市)三万石に封じた。けれど、父である忠次はこれに不満で、すぐに、家康に異議を申し入れた。これに対して家康は、
「三郎今にあらばかく天下の事に心を労すまじきに、汝(なんじ)も子のいとほしき事はしりたるや」
 そう答えたと『徳川実紀』にはある。これはどういう意味かというと、家康には三郎信康という、将来を期待された嫡男がいたが、反面気性が激しく、正室である徳姫(家康の同盟者織田信長の娘)にも辛く当る日々が多かったという。これに耐えかねた徳姫は、十二ヶ条からなる夫の日頃の振舞を書き連ね、父信長に泣きついたのである。いつの世でも父親は娘に弱い。事の真偽を確かめるべく家康に対し、重臣の一人を派遣するよう求め、その役目を仰せ付かったのが酒井忠次であった。さっそく、信長の居城安土城(滋賀県近江八幡市)に出向いた忠次に、信長は徳姫から来た書状を指さしながら、
「娘からこんな訴えがなされているが、これはまことなのか否なのか、そちの意見を聞きたい」
t&s4 そう迫ったのである。すると、忠次は主君の若殿の弁解をするどころか、
「十二ヶ条のうち、十ヶ条までまことでございます」(写真左=鶴ヶ岡城跡に建つ荘内神社)
 あっさりとそう認めてしまったのである。その瞬間、信康の運命は決まったといってよい。こうして、天正七年(一五七九)九月十五日、家康の嫡男信康は二俣城(静岡県天竜市)で自刃して果てたのである。二十一歳の若さだった。つまり、先に紹介した文面は、その時の家康の辛い思い出を、皮肉をこめて忠次に吐露したわけだが、しかし、『岡崎市史』(中世二)には、
「信康の切腹の件は、家康のほうから信長に申し出て承認されたようである」
とあるので、どうやら忠次には大きな責任はなく、家康の言葉は、単なる愚痴だったといえるかも知れない。

 いずれにしろ、この家次の嫡男として文禄(ぶんろく)三年(一五九四)にこの世に生を受けたのが、忠勝であった。彼は新たな領国へ赴く前に、家臣を秘かに庄内に使わし、その土地の地勢、産物、領民たちの気質などを十分に調べた上で、松代から引越したと伝わっている。それだけに、忠勝は幕府からの信用も厚く、寛永(かんえい)六年(一六二九)江戸城西丸吹上門(ふきあげもん)の普請にたずさわり、その後、勘定頭となり、やがては、幕府の政務を統括する老中に就任するに至る。また、彼の性格であるが、一部には、いたずらをしでかした子どもに対し、
「まるで、成覚院(じょうかくいん=忠勝)さまみたいなガキだ」
 そういって叱ったとされるほど、たぶんに戦国武将の気風を残す、荒々しい人物だったようである。それだけに、入府した翌年に実施された検地には、きびしいものがあり、領内遊佐(ゆざ)や荒瀬郷の領民たちが秋田藩へ逃散したり、村山郡白岩(現山形県寒河江〈さがえ〉市)で一揆が起きたりしている。その忠勝が死去するのは正保(しょうほう)四年(一六四七)十月のことで、その遺領を継いだのが、忠当(ただまさ)であった。(五番目の写真=酒井家第十八代当主の酒井忠久氏)

t&s5 当初この襲封については、家臣の間に動揺がみられたが、忠当が幕閣に重きをなしている松平信綱の娘婿であったので、争いは生じなかったという。その後庄内藩は嫡男忠義(ただよし)が万治(まんじ)三年(一六六〇)五月に三代目の藩主となるが、まだ十七歳と若かったから、信綱が孫の後見的立場で、藩の指導に当ったのである。そんな祖父の助言をもとに、新田開発に努め、明暦(めいれき)五年までに、一万六千石の増収となるのだが、四代忠真(ただざね)の時代になった宝永(ほうえい)四年(一七〇七)天候不順と台風によって、庄内地方は凶作に見舞われてしまった。加えて同年、富士山の大噴火によって東海道が破壊され、藤枝(静岡県藤枝市)附近の修復を、幕府から命ぜられ、藩財政は疲弊するばかりであった。その心労が重なったのであろう、享保(きょうほう)十六年(一七三一)八月に忠真は没し、以降五代忠寄(ただより)、六代忠温(ただあつ)とつづくが、彼は家督を継いだ翌年(明和〈めいわ〉四年=一七六七)にこの世を去り、嫡男忠徳(ただのり)が七代目の藩主となった。だが、天明(てんめい)三年(一七八三)、同六年(一七八六)と凶作がつづき、同八年(一七八八)には再び幕府から、東海道の川普請をせよとの通達があった。そのため、藩の借金は十万両にも達し、事態を重くみた忠徳は思いきった藩政改革にのり出し、藩祖忠勝以来つづいている酒井家の庄内支配の存続に尽力したのである。
 その甲斐あって、藩財は少しずつ回復に向かい、やがて、江戸時代の地理学者古川古松軒(こしょうけん)をして、その著者『東遊雑記』の中で、「酒井候政事(まつりごと)正しく、清川よりは在々に至るまで、民家のもやうきれひなり。豊饒(ほうじょう=土地が肥えて作物がよくみのる)の百姓も数多(あまた)見え(中略)よき地の第一とおのおの評判せしなり」
 そう記述する状況となったのである。以来庄内藩では、天保(てんぽう)四年(一八三三)の大凶作を除き、自領産米の飯米が不足することはなかったと文献にはある。(写真下=致道博物館を案内する酒井忠久氏、平成20年10月16日)

t&s6 しかしであった…。七代忠徳の跡を継いだ忠器(ただかた)の治政である天保十一年(一八四〇)、名門酒井家は一大転機を迎えることになる。それが、幕府からの越後長岡藩(今の新潟県長岡市)への、転封命令であった。この転封は、川越(埼玉県川越市)藩主松平斉典(なりつね)を庄内藩へ、長岡藩主牧野忠雅(ただまさ)を川越藩へ移すというもので(三方領地替と呼ばれている)酒井家にとっては、石高がこれまでの約半分(長岡藩は表高七万四千石)程度となる大変厳しい処置となった。むろん、忠器以下藩の執政たちはこれを受け入れることは出来ず、さまざまな手を使い、転封撤回を幕府の有力者たちに願い出たのである。さらには、他の家臣、本間家を始めとする豪商、町人、百姓に至るまで、転封撤回案を支持するようになった。
「凶作のため百姓が疲弊し、藩から救米や豪商よりの借入米金がなければ生計が立たないのに、国替えによりこうした人々が長岡に移ってしまえば…、百姓は餓死するほかない」
 というのが、彼らが立ち上がった理由であった。加えて、新たな領主となる松平家の財政状況が芳しくないとの風聞も流れていたから、百姓たちの不安が撤回運動を加速させた。この結果、ついに幕府は、天保十二年(一八四一)七月、
「三方領地替案は、すべて白紙に戻す」
 との触れを出さざるを得なくなってしまったのだ。天保の飢饉の際にみせた酒井家の善政が、高く評価されたと伝えられている。
 こうして危機を回避させた酒井家は、八代忠器以降九代忠発(ただあき)、十代忠寛(ただとも)十一代忠篤(ただすみ)と来て、明治維新を迎えることになる。そんな歴史がこの鶴ケ岡城には埋もれていたのである。いい勉強が出来た…。

参考資料
・藩史事典 秋田書店発刊
・日本城郭大系 山形、宮城、福島編 新人物往来社発刊
・探訪日本の城 奥羽道 小学館発刊
・山形県の地名 平凡社発刊
・庄内藩 斎藤正一著 吉川弘文館発刊
・江戸幕府大事典 大石学著 吉川弘文館発刊
・広辞苑 岩波書店発刊
・県別日本地図帳 平凡社発刊

写真提供 米沢日報デジタル

(2019年5月25日9:05配信)