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寄稿 「頼朝挙兵と横山党」 斎藤秀夫

寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
saito18 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)、『男たちの夢—歴史との語り合い—』(同)、『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)、『桔梗の花さく城』(鳥影社)、『日本城紀行』(同)、『続日本城紀行』(同)、『城と歴史を探る旅』(同)、『続城と歴史を探る旅』
(同)、『城門を潜って』(同)


 
yoritomo-1 資料をいろいろ調べて行くうち、不意に点と点とが一本の線でつながっていたことに気づく場合がある。その瞬間にこそ、歴史を学ぶ醍醐味があるといってよいであろう。源頼朝と横山党の関係がそうであった。でも、この点と点とが、どのようにして一本の線となったのか、そのあたりのことを少し考察してみることにしよう…。

 静岡県伊豆の国市に蛭ケ島(ひるがしま)と呼ばれる場所がある(一番目に掲載した写真参照)むろん、海に浮かぶ孤島ではなく、数年前世界文化遺産に登録された韮山反射炉に近い地点にある。治承(じしょう)四年(一一八〇)八月十七日、北条時政(頼朝の正室政子の父)以下、伊豆(今の静岡県東部)相模(今の神奈川県)の武士たちを糾合した頼朝は、打倒平家!の兵を、この蛭ケ島で挙げた。彼が最初の襲撃目標にしたのは、伊豆国の目代(もくだい=代官)山木兼隆(やまきかねたか)の館であった。その日を選んだ理由は、ちょうどその日が、三島神社の祭礼の日であり、多くの家臣たちがその祭礼に出向いていて、館の警護が手薄だと判断したからである。さらに、蛭ケ島から山木館までは、直線距離にして半里ほど(約二キロメートル)ほどしか離れていなかったからである。その上、この兼隆が、
「平相国(平清盛)の権力を仮(か)り、威を郡郷に輝かす」
 そういわれていたから、反逆の血祭に上げるにはまさに恰好の相手だったのである。やがて襲撃は決行され、山木館に攻め入った頼朝軍は、目代の首を取ることに成功する。
「山木兼隆横死!」
 その情報を入手した平家方は、大庭景親(おおばかげちか=大庭氏はもともとは源氏方であったが、その後平家の被官となった。源平この二大勢力にはさまれた関東の豪族たちは生きのびるために、このような苦渋の選択を迫られる場合が多い)に、反乱軍をただちに鎮圧せよとの命を出した。これを受けて景親は、三千の軍勢を編成すると、頼朝軍追討へと向かい、両軍が遭遇したのが今の神奈川県小田原市の南西部にある石橋山であった。八月二十三日の夕方のことである。しかしながら…、山木館襲撃に成功したとはいえ、頼朝に味方する兵数は三百人ほどしかおらず、その十倍もの平家軍と戦うとなれば、勝敗の結果は明らかであった。たちまちのうちに頼朝軍は敗走、『吾妻鏡』が、
「暁天(ぎょうてん=夜明けの空)に至りて、武衛(ぶえい=頼朝)椙山(すぎやま)の中に逃(のが)れしめたまふ」
 そう記述する状況下に追いこまれてしまったのである。けれど、景親は追撃の手をゆるめず、山を踏みならし、木の葉や菅(すげ)の中に乱れ散って、逃げのびた頼朝たちの行方を、必死になって捜し廻ったのである。そして、この時登場して来るのが梶原平三景時(かじわらへいぞうかげとき)であった。彼は景親のいとこに当る人物で、探索隊の一員に加わっていたのだが、『吾妻鏡』では、その時彼が取った行動をこう描写している。
「景親、武衛の跡を追ひて、嶺渓(みねたに)を捜し求む。時に梶原平三景時といふ者あり。たしかに御在所(頼朝一行の隠れている場所)を知るといへども、有情(うじょう)の慮(おもんぱかり=考え、思慮)を存じ、この山には人跡なしと称して、景親が手を引きて傍(かたわら)の峯に登る」

yoritomo-2 この行為が、頼朝の命を助けたばかりではなく、大きくいって、日本の歴史を変えたといっていい。そして、頼朝と横山党との接点はこの時から始まったのである…。
 平安時代から鎌倉時代にかけて、武蔵国(今の東京都と埼玉県、それに神奈川県の一部を含む)には、武蔵七党と呼ばれる豪族集団があり、中でも、横山党が最大の勢力を誇っていた。もともとこの一族は、小野姓で、その源流は、あの小野妹子にあるといわれ(掲載した横山党系図参照)、書道の大家小野道風や、六歌仙の一人小野小町といった優れた文人を輩出する名門であった。延長(えんちょう)二年(九二四)八月十五日、小野隆泰(たかやす)は多摩川丘陵の北、多摩川南流域の一部を開墾して定住。天慶(てんぎょう)三年(九四〇)武蔵権之守(ごんのかみ=権とは仮の意)に任ぜられた隆泰の子義孝は、現在の東京都八王子市元横山町二丁目に八雲神社を建立して(二番目に掲載した写真参照)この神社を中心に祭政一致を行い、姓を小野から、名馬の産地として名高い横山の地を取って横山と改めたのである。この人物が横山党の初代である。義孝の孫で三代目を継いだ経兼(つねかね)は、前九年の役(一〇五一〜六二)の際に弟の忠兼(ただかね)と共に源頼義(頼朝の四代前=八幡太郎義家の父)に従ってyoritomo-6先陣を賜り、敵将安倍貞任(あべのさだとう)の首級を挙げ、首懸(くびかけ)の儀(首を長さ八寸の鉄釘で打ちつけて晒すこと)を担当している。
 その後横山党は四代隆兼(たかかね)五代時重(ときしげ)とつづくが、この時重の一番下の妹が、梶原景時の母であるから、景時の体内には、横山一族の血液が色濃く流れていることになる…。

 さて、その景時の機転によって命拾いをした頼朝は、立ち去って行く景時の後ろ姿に両手を合わせ、三拝し、
「我世にあらばその恩を忘れじ、たとえ亡びたとしても七代までは守らん」
 そう心の中で誓ったと『源平盛衰記』にはある。そうしたのち、頼朝一行は険しい山道を使って、真鶴(現神奈川県湯ケ原町)へと落ちのびて行くのである。そして、
「二十八日、武衛は真名鶴より船に乗り」
「二十九日、武衛、実平(さねひら=相模国足下郡土肥〈あしのしもぐんどい〉の豪族)を相具し、扁舟(小舟)に棹(さお)さして安房国平北郡猟島(あわのくにへいほくぐんれいしま=今の千葉県鋸南町)に著(つ)かしめたまふ」
 と『吾妻鏡』がそう綴る経路をたどって行く。とはいえ、頼朝に付き従う家臣はこの時すでに七人ほどしかおらず、前途多難を思わせたが、そこへ、頼朝より一足先に安房に亡命していた北条時政が合流、さらに安房に勢力を持つ千葉常胤(つねたね)を始めとして、上総(かずさ=今の千葉県中央部)下総(しもうさ=今の千葉県北部、及び茨城県の一部)の豪族たちが傘下に加わるにつれて、いつしかその兵数は、三万七千人にも及ぶようになった。こうして勢いを得た頼朝は、十月、江戸川、隅田川を渡って武蔵国に進むと、同七日、待望の鎌倉に入った。やがて大倉(鎌倉市雪ノ下三丁目)に館(その規模は発掘調査の結果、東西約二七〇メートル、南北約二一〇メートル、総面積約五万六七〇〇平方メートルあったといわれている)を構えた頼朝は、しばらくして駿河(今の静岡県中央部)を流れる富士川河口で、平維盛(これもり=清盛の嫡孫)を総大将とする平家軍と干戈(かんか)を交えて、これを打ち破った。この結果、関東における頼朝の軍事的優位は確定し、以降、かつて自分の窮地を救ってくれた景時を、重く用いるようになる。景時もその期待に答えるべく、元暦(げんりゃく)元年(一一八四)には、頼朝の弟義経の軍に加わって木曽義仲を討ち、さらに、平家追討にも功をあげ、主君頼朝から播磨(はりま=今の兵庫県南部)美作(みまさか=今の岡山県北部)の総追捕使(そうついぶし=のちの守護)に任じられた。同時に横山時広(時重の嫡男で六代目を継ぐ)も但馬(たじま=今の兵庫県北部)の総追捕使となり、彼は文治(ぶんじ)元年(一一八五)二月十九日に香川県高松市にある屋島で行なわれた戦いの際には、戦勝祈願のための観音経転読(転読とは、経典を見て読むこと)の奉行を担当している。

 同年三月二十四日、山口県下関市にある壇ノ浦でついに平家を滅亡させた頼朝は、鎌倉に日本で最初となる武家による政治体制を確立するのだが、同時に、内部での抗争が激化しつつあったのである。
 平家を討ち破った最大の功労者は、何といっても頼朝の弟義経だが、その義経は、頼朝が"日本第一の大天狗"と評した、後白河法皇のしかけた権謀にはまり、左衛門少尉検非違使(さえもんのしょうじょうけびいし=検非違使というのは、今の裁判官と警察官とを兼ねた役職)という官職を受けてしまったのである。これが頼朝を激怒させた。頼朝は家臣たちに対し、
「勲功賞においては、其後(そののち)頼朝計らひ申上ぐべく候(そうろう)」
 つまり、朝廷から官職の誘いがあった場合は、必ずこのわしの許可を得るように、そうきつく釘をさしていたのだ。新しい秩序を生み出すためには、統制こそなにより大事、そう考えていたからだが、それを義経が平然と踏みにじってしまったのだ。頼朝が激怒するのも無理からぬ話であった。さらに、数々の平家追討戦でみせた、義経の素行にも問題があった。確かに、義経は軍事の天才には違いない。だが天才なるがゆえに、傲慢さも同時に持ち合わせていた。一つの例が逆艪(さかろ)論争であろう。 先の屋島の戦いが行なわれる前日の軍議での席上、頼朝から軍目付(いくさめつけ)として鎌倉から派遣されていた景時が、
「軍船の進退の駆け引きが容易になるように、それぞれの船に後進用の逆艪を取り付けるべきである」
 そう提案したのに対し、義経は、
「そんなことは、臆病者のすることだ」
 とけんもほろろに突っ張ねたのである。当時の武将たちにとて、人前で卑怯者とか臆病者とかいわれることは、最大の侮辱といっていい。そのため、軍議に加わっていた他の人たちは、
「みな薄氷を踏むが如(ごと)く」
 思いで、義経を眺めていたと『吾妻鏡』にはある。さらに同書をつづけて読んでみると、
「廷尉(ていい=義経)は非常に勝手気ままで、我意を通し、武衛の言い付けさえ守ろうとはしない」
 大旨そのようなことが書かれているのである。従って、頼朝としてもこのまま義経の振舞いを黙認することが出来ず、やむなく、弟の処断を決意せざるを得なくなった。こうして、文治(ぶんじ)五年(一一八九)閏四月三十日、奥州平泉(今の岩手県平泉町)藤原氏三代秀衡(ひでひら)が建てたとされる高舘(たかだち)に籠る義経を、泰衡(やすひら=秀衡の子)に兵数百騎で襲わせて自害に追いやった頼朝は、今度はその泰衡を征伐すべく、軍を起こしたのである。
「朝敵義経(彼にはすでに、追討宣旨〈せんじ=天皇の命令〉が下っていた)を匿まったゆえ」
yoritomo-3 それを大義名分としたのである。義経の有力な保護者秀衡はすでにこの世にはおらず、その跡を継いだ泰衡は、弟の忠衡(ただひら)頼衡(よりひら)らと互いに反目しあっていたから、その亀裂を衝いての奥州征伐であった。同年七月十九日、頼朝は大軍を率いて鎌倉を発った。この時、横山党の時広、時兼(ときかね)父子も、この軍に加わっている。そして、関東と奥州を結ぶ幹線道路である奥大道(おくのおおみち=のちの奥州街道)を北上すると、八月七日に陸奥国伊達郡国見駅(現在の福島県伊達市国見町)のあたりまで進んだ。むろん、泰衡も敵の進軍を黙って見守っていたわけではない。頼朝軍の進攻に備えて、国見町北部の中央やや西寄りに位置し、標高二九〇メートルほどの阿津賀志(あつかし)山の麓に長大な防塁を築いて敵をそこで阻止する構えをみせた。この防塁は三番目に掲載した写真でも解るように、二重の構造になっていて、堀の深さ四メートル、幅一五メートル、長さ三、二キロメートルに及ぶ壮大なものであった(当然現代ではその遺構はほとんど残ってはおらず、堀も土砂の堆積によって写真のように浅くはなっているが)けれど、頼朝はひるまない。すぐさま、信頼する家臣の一人、畠山重忠に命じて二重堀の一部分を埋め立てさせると、八月十日卯刻(うのこく=午前六時)にこの防塁の突破を敢行した。巳刻(みのこく=午前十時)泰衡軍は総崩れとなり、その背後を追って頼朝軍は二十二日、平泉に乱入した。けれど、敵の総大将泰衡はその前日に、北上川の西岸に位置し、最大幅二一二メートル、最大長七二五メートルはあったといわれる館(柳之御所)を焼き払い、北を目ざして逃亡していたのである。頼朝は歯ぎしりしたが、部下に命じてその行方を探索させ、岩手県紫波郡紫波町にある陣ケ岡に宿営して、情報が入るのを待った。

yoritomo-4 九月七日、待望の泰衡の首級が、頼朝の本陣まで届けられた。泰衡の首は首実検ののち、横山時広によって懸けられることになった。時広は承り、子の時兼を以(もっ)て梶原景時より泰衡の首を請け取ったち、首懸の儀を行なったのである。これは前にも触れた康平(こうへい)五年九月十七日、源頼義が安倍貞任を岩手県盛岡市天昌寺町にある厨川柵(くりやがわのき)で討った際、時広の三代前の経兼が同じ役を命じられているが、頼朝はそれに習って時広父子に、晴れある名誉を与えたのである。同時に恩賞として、時広はこれまでの但馬国に加えて淡路国(今の淡路島)の守護に任じられ、景時には八王子市元八王子町三丁目一帯の地が下賜されたのである。そのことは、yoritomo-5
『新編武蔵国風土記稿』に、
「梶原館跡、村の中央より北によりてあり、山間にて濶(ひろ)さ二町(約二二〇メートル)四方程の地なり、昔梶原平三景時が住せし所なりと云ふ」
 そうあることからも確認出来る。それが今も八幡神社として存在している(掲載した四番目と五番目の写真参照)
 
 また、この奥州征伐軍の一員として、頼朝の最高顧問と呼んでもいい大江広元(彼は京都宮廷の伝統や因襲にも通じている)の次男時広(奇しくも、横山時広と同じ名前だが)も従軍していて、泰衡の家臣良元を出羽国御館山(みたてやま=山形県西置賜郡飯豊町)の館で討ち果すという働きをみせた。この手柄によって時広は、置賜郡長井庄(現在の山形県長井市)の地頭職に任じられて長井氏を名乗り、暦仁(りゃくにん)元年(一二三八)入部とともに米沢城を築いたと伝わっている(ただし、確証はない)以降長井氏は八代、約百五十年間、米沢を統治することになる。
 ちなみに、同じ山形県寒河江(さがえ)市にある寒河江城も、広元の長男親広(ちかひろ)が造営を開始したと、新人物往来社発刊『日本城郭大系・山形、宮城、福島編』にはある。このように、八雲神社、八幡神社を散策することによって、頼朝と梶原景時、横山党との関係、さらには、米沢とのつながりを知ることが出来た。まさに、点と点とが結びついたのである…。
(追記)
 米沢市観光課が発刊している観光客用のパンフレット『よねざわ』には、
「康暦(こうりゃく)二年(一三八〇)伊達宗遠(むねとう=伊達氏八代、あの独眼竜政宗は十七代)長井を占領し高畠城(東置賜郡高畠町、この高畠は、古くから陸奥、出羽交通の要地にあり、湯ノ原から置賜盆地に至る、扇の要の役割を担っていた)を居館として置賜を支配する」
 そうあるので、正確には長井氏の米沢統治は、一四二年間(一二三八〜一三八〇)ということになる。

(2019年9月27日19:15配信)