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寄稿「信長は西を家康は東を目ざす」斎藤秀夫

寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
saito18 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)、『男たちの夢—歴史との語り合い—』(同)、『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)、『桔梗の花さく城』(鳥影社)、『日本城紀行』(同)、『続日本城紀行』(同)、『城と歴史を探る旅』(同)、『続城と歴史を探る旅』
(同)、『城門を潜って』(同)


 
 私は城巡りが趣味だから、全国にある城を散策するのはもちろん、城に関する本も何冊か持っており、暇な時にその本を開いていろいろ調べて行くのが好きである。そんなある日、例によって本を眺めていてふっと気づいたのだ。織田信長も徳川家康もその生涯においていくつかの城を築いているが、この二人には一つの共通点があるということをである……。
n-1 掲載した一番目の図は信長の、二番目の図は家康の、それぞれの居城の推移を表わしたものだが、そこから見えてくるのは信長は常に西を、家康は東を目ざしていたということである…。
 まず信長だが、彼は『尾州古城志』によれば、
「天文(てんぶん)三年(一五三四)五月二十八日に勝幡(しょばた)城(愛知県稲沢市)で生まれた」
n-2 とされている。そして、九歳(当時は数え)となった天文十一年(一五四二)に、父信秀から那古野城(同名古屋市)を与えら、二十一歳の天文二十三年(一五五四)五月に、尾張の下四郡(要するに尾張の半国)の守護代織田信友(信長の家柄はその守護代の下に位置する三奉行の一人にしか過ぎない)を殺して清洲城(同清須市)を奪うと、そこを拠点として、本格的な活動を開始するのである。
  さらに、三十歳となった永禄(えいろく)六年(一五六三)二月、美濃(今の岐阜県)の斎藤氏と、これと結託する犬山城(愛知県犬山市)の織田信清(信長のいとこ)を攻略するために、清洲城から北十一キロメートルの地点にある小牧山に城を構えた。次いてその四年後には岐阜城(岐阜県岐阜市)を本拠とするのだが、正確には、小牧山城は岐阜城の東に位置している。けれどそれは、
「美濃を制する者は天下を制す」
 とまでいわれた大国美濃を手に入れるための橋頭堡(きょうとうほ=戦略上の足場)として活用するねらいがあったと捉えれば、納得出来るであろう。なぜなら、小牧n-3山のすぐ近くには、全長二二七キロメートルに及ぶ木曽川を渡ることが容易な浅瀬があったからである…。こうして、その浅瀬を使って美濃に進攻した信長は、永禄十年(一五六七)九月、道三−義龍(よしたつ)−龍興(たつおき)と三代続いた斎藤氏を滅ぼして、稲葉山城下の井の口を岐阜と改めて、新たな拠点としたのである。
 そして、四十三歳となった天正(てんしょう)四年(一五七六)正月、琵琶湖湖岸に安土城(滋賀県近江八幡市)を造営した(三番目に掲載し写真参照)そこは岐阜城に比べて、はるかに京に近く、琵琶湖の水運を使えば一日で上洛可能な場所であった。その上で信長は、この琵琶湖から得られる利潤の独占をも狙ったのである。
n-4 というのも、掲載した四番目の図から、その意図が感じられるからである。当時の貿易のメインルートは、日本海であった(そのことは、江戸時代の北前船の活躍を思い描けばよく解る)つまり、敦賀(つるが=今の福井県)で陸揚げされた物資は、琵琶湖を利用して坂本城のすぐ近くにある大津まで送り、そこでもう一度陸揚げして京や大坂へと運びこむ。そこで信長は、図のように安土城を中心として、羽柴秀吉に長浜城(事実この城には三ヶ所港が設けられていたという)を、甥に当る信澄(のぶずみ=信長によって殺害された弟信勝の子)に大溝城を、明智光秀に坂本城を築かせて、琵琶湖ネットワークを形成したのである。
 だが、ある日、ふと信長は気が付いたに違いない。
 −しょせん自分は井の中の蛙に過ぎない…
 と。なぜならば、四番目の図を注視すれば納得するであろう。総面積六七〇平方キロメートルはあるこの日本一の湖は、外海とは接していないのである…。大国美濃を自分のものとし、岐阜城を居城とした時から、信長は"天下布武"の印章を使い始めるが、これは武力をもって天下統一を成し遂げたのち、平清盛が大輪田泊(おおわだのとまり=今の神戸港)に大改修を加え、宋(今の中国)と交易したように、自分も海外との貿易を盛んにして、日本を豊かにしようという願望を、表現したものだと考えられる。けれど、琵琶湖に固執する限り、その理想は実現しない、そう気付いたのである。そこで信長が新たに目を付けたのが、摂津国(せっつのくに=今の大阪府)といってよい。なぜそういい切れるかというと、その証拠となるのが、前後十一年間にも及ぶ、石山本願寺との血みどろな抗争であろう。本願寺十世宗主(指導者)証如(しょうにょ)が石山に浄土真宗の本山を構えたのは天文二年(一五三三)七月二十五日にことだが、なにしろこの地は、
「日本の地は申すに及ばず、唐土(もろこし=今の中国)高麗(こま=今の朝鮮)南蛮(今のヨーロッパ)の舟、海上に出入り、五畿七道ここに集まり、売買利潤、富貴の湊なり」
 と『信長公記』がそう綴り、
「本願寺宗主に与うる金銭甚だ多く、日本の富の大部はこの坊主の所有なり」
 とポルトガルの宣教師G・ヴィレラが永禄四年(一五六一)八月十七日付の本国へ宛てた書簡の中でそう記すほどの場所であったから、信長としても、食指を動かすのは当然であったと想定される。けれど、彼はその地に安土城を上回る大城郭を築く前に、"本能寺の変"で倒れてしまい、その夢は挫折してしまったが、師匠の果せなかったその夢を、一番弟子ともいえる秀吉が実現させた、それが大坂城であった…、そう考えれば得心するのではなかろうか。

n-5 一方の家康は、天文十一年(一五四二)十二月二十六日岡崎城(愛知県岡崎市)で産声をあげた。信長より八歳年下となる。そして、元亀(げんき)元年(一五七〇)に浜松城(静岡県浜松市)に移り、天正十三年(一五八五)になって、駿府城(静岡県静岡市=五番目に掲載した写真参照)へ居を移すことになる。この駿府はかつて彼が竹千代と呼ばれていた時代、実家の松平家が弱小であったために、駿河、遠江(共に今の静岡県)三河(今の愛知県東部)この三ケ国を支配する今川義元の人質として、六歳から十九歳の間、暮らさざるを得なかった土地であった。さぞ、感慨深いものがあったに違いない。やがて天正十八年(一五九〇)小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉から関東への国替えを命じられ、江戸城を新たな本拠とするのである。このように、常に信長は西を、家康は東を目ざしていたということが、一番目と二番目に掲載した図から読み解けるわけだが、それではなぜ信長と家康は、西へ東へと目を向けたのであろうか、それが素朴な疑問として浮かびあがってくる。
 天文十八年(一五四九)十一月、信長が家督を継ぐ直前に出された禁制には、注目すべき一文がある。
「藤原信長 花押」
 また、弟信勝が熱田神宮に寄進した菅原道真の画像の巻止めにも、
「藤原織田勘十郎」
 の署名が見られる。つまり当時の織田氏は藤原姓を名乗っていたことになる。ところが天正元年(一五七三)九月、兎庵(となん)と称する老僧が岐阜城下を訪れた際、その紀行文『美濃路紀行』の中で、
「信長公の本系をたづねれば、小松のおとど(清盛の嫡男重盛の意)第二の後胤なれば」
 そう書いているのである。同時に、奈良興福寺の僧多聞院もその日記の中で、
「信長は平家」
 そう記しているので、藤原から平氏へと、改姓したことは確かであろう。そしてその理由として考えられることは、平清盛に対する強い憧れがあったのかも知れない。なぜなら清盛は交易を中心とする重商主義の政策を推進しており、信長はこの路線を継承したいとの思いが強く感じられるからである。
 もう一人の家康は、自分は、
「新田義重(あの八幡太郎、源義家の孫)の後裔」
 要するに源氏の出だと強調している。しかしながら、松平家の初代親氏は、三河国の山間部にある松平郷の土豪にしか過ぎないので、系図を詐称した可能性は否定出来ない。それはそれとして、この家康は源頼朝を尊敬しており、その政策の柱としたのが頼朝と同じ農産物の育成に力を注ぐ、重農主義であった。さらにいえば、平氏は西日本に勢力を張る一族であり、源氏は坂東(関東)を地盤とするグループであった…、以上の事柄を踏まえて、だから信長は、安土の先に摂津国を見据えていたと、そう推論したのである。事実信長は、安土城を造営する数年前から、千利休を始めとする堺(大阪府堺市)の豪商たちと親密な関係になって行く。これは鉄砲を発射させるためには硝石(硝酸カリウム=火薬の原料)がどうしても必要であったからである。しかしこの硝石は、日本では採れないため、どうしても外国からの輸入に頼らざるを得ないのだ。そこで信長は、当時の国際貿易港である堺を牛耳る豪商たちとねんごろになって、この硝石の調達の便宜をはかってもらおうと、茶の湯を通して近づいたのである。
 けれど信長は、次第にこの堺の豪商たちと距離を置くようになり、やがては、千利休との茶会の約束を反故にしてまで、博多の豪商島井宗室、神谷宗湛(そうたん)に急接近することになる。そのことは、信長の右筆(ゆうひつ=秘書官)である松井友閑(ゆうかん)が、堺商人に宛てた書状(島井文書)に、
「上様(信長)御上洛なされ、御茶の湯のお道具持たれ、京都においてお茶の湯なされ、博多の宗叱(宗室)に見せさせるべき由」
 とあることからも確認出来る。このため、突然自分との茶会をキャンセルされた利休は、
「力を失い候(そうろう)茶の湯面目を失い候、返す返す御残多き次第、(残念でならない)御残多き次第」
 と、息子の少庵(しょうあん)への手紙の中で、そうなげいているのである。
 でもなぜ、信長は急に態度を変えたのであろうか。私はそこに、信長の新たな戦略があったとみている。確かに、海に面していない琵琶湖に比べ、大阪の地は、海外と通じているという利点がある。そのため、神戸や堺などの港が発展したわけだが、明敏な信長は同時に、その欠点にも気付いたに違いない。日本地図を眺めればより理解出来るのだが、大阪から日本海へ出るには、瀬戸内海を通過しなければならない。けれど、当時の瀬戸内海には正確な海図がまだ作製されてはおらず、その上、瀬戸内海に点在する島々には、海賊たちが蟠踞(ばんきょ=勢力を振うこと)していて、その安全性に問題があった。そこへ行くと博多、もしくは唐津(佐賀県唐津市)なら、すぐに日本海への進出が可能なのだ。現に、唐津はその名が示すように、そこは当時の先進国唐(今の中国)との貿易によって栄えた港(津は港と同意語)であり、玄界灘の海底からは、最高級の輸入品といわれる耀変天目(ようへんてんもく)茶碗の破片が、数多く出土しているのである。そんな場所をやがて信長は、活動の拠点にしたかった…。これは単なる私の憶測ではない。彼は己の両腕とも頼む秀吉に筑前守(今の福岡県北西部)光秀に日向守(今の宮崎県)を名乗らせているのが、その布石と捉えることが出来るからである。そうしておいて信長は、博多の豪商たちとの接触を深めたのである。
 文禄(ぶんろく)元年(一五九二)関白秀吉は朝鮮出兵を計画するが、その際家臣たちに対し、
「朝鮮へ渡るのに最も便利な港はどこだ」
 そう訪ねたという。すると、唐津に近い東松浦半島の先端に、名護屋という土地があることを知った。そこは千艘もの船が安全に出入りが出来、航海も容易であった。そこで秀吉は、その地に城を構え、朝鮮出兵への司令本部とした。私はこれこそ、大坂城につづいて、秀吉が信長の描いた夢を、もう一度実現させてみせた、そう考えるのである。なぜなら、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが天正十年(一五八二)十一月五日付の本国へ宛てた書簡の中に、
「信長は、毛利を平定し、日本の六十六ケ国を支配したのち、一大艦隊を編成し、唐を武力で征服する、そう述べていた」
 との文章があるからである…。
 ちなみに、家康は元和(げんな)二年(一六一六)四月十七日、波乱にみちた七十五歳の生涯を閉じるが、四月に入ってまもなく、死期の近いことを悟った家康は、側近たちを枕頭に呼び、
「下野(しもつけ=今の栃木県)日光山に小堂を建てて勧請すべし」
 との遺言を残した。日光に祀られることによって、自ら関八州の鎮守とならんとしたと伝わっている。やはり彼は、東国のことが気になっていた証といってよい…。

(2019年12月2日14:05配信)