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寄稿『山形県を何度も襲った虎列刺(コレラ)の流行』



寄稿者略歴 watanabeto
 渡邊敏和(わたなべ としかず)
  昭和31年、山形県東置賜郡川西町上小松生まれ。山形県立長井工業
  高校卒業。平成17、18年、川西町獅子頭展実行委員長。 置賜民俗
  学会理事。

                             文・写真 渡邊敏和
 
 現在、猛威を奮っている新型コロナウィルスの結末の参考に、以前、大流行した明治時代の虎列刺(コレラ)を終息させる為にどのような措置を取ったのか見てみたい。
 前回、「置賜の虎列刺(コレラ)感染について」と題して、米沢日報デジタルに文章を掲載させていただいた。(2020年4月30日17:00配信)
 これで「日本で初めて虎列刺(コレラ)が入ってきたのは、文政五年(1822)のことで」と記した。しかし、「虎列刺(コレラ)は室町時代末期にすでに九州に入港した貿易船によってわが国にもたらされ、その後も何度か大流行があったという。」(「山形県史」第四巻)。文政五年の流行では、米沢藩で流行したという記録はなく、東北までは蔓延しなかったのかもしれない。
cholera-1(写真右、下=米沢市窪田町東江股 春日神社境内にある乕(虎)列刺大明神)

 コレラが大流行した安政五年(1858)は、五月に長崎から上陸し、九州で流行すると、六月には東海道筋に、七月から八月には江戸(現在の東京)で流行し、奥州(東北)から蝦夷地(現北海道)の函館まで全国で感染が広がった。江戸だけでも十万余(「置賜の虎列刺(コレラ)感染について」では凡そ三万人としていた。書籍により十数万人、あるいは二十六万余人という説も)の死者が出たという。「安政コレラ」と称され、日本の疫病史でも屈指の大惨害であった。(「日本史大事典」三)。
cholera-2 川西町下平柳に在住する渡部幸雄さんが著した「下平柳史」の歴史年表で、「安政五年(1858)九月六日に米沢でコレラが発生し、十月七・八日に赤湯でも類似コレラが流行する」と書いてある。また、長井市の安部義一氏は、著作「長井市年表」で、「十月十七日に赤湯村にコレラ流行す。」と記し、十月二十一日に米沢藩(米沢市を中心に山形県南部地域を領する上杉氏が藩主の藩)では、赤湯方面にコレラ発生に付き、予防法を令達する(「上杉家御年譜」)とある。赤湯村などで罹患が多かったが患者、死者数など米沢領内の被害状況が明らかではなく不詳である。
 翌六年七月末頃から庄内地方の酒田で、暴瀉病(コレラのこと)が大流行した。地元の書物「咄の種瓢(はなしのたねふくべ)」には、「安政六年(1859)七月下旬より、狐狼痢(ころり)病酒田或は海辺より流行しだし、国中日々この病にかかり死する人数知らず、狐狼痢、狐狼狸、虎狼痢とも書けり」とあり、流行した初めは奇病と考えられていて、コレラの呼称も用いる文字も統一されていなかった。たとえば、鉄砲、横病、三日コロリ、霍乱(かくらん)、番沙、痧(さ)病、湿霍乱、禁口痢、厥(けつ)病、、暴瀉病、虎狼痢(ころり)などである。酒田のほか、日本海沿岸の米子(鳥取県)、敦賀(つるが・福井県)、新潟、秋田、弘前(ひろさき・青森県)でも前年の流行から一年遅れてコレラが流行している。
(写真下=米沢市窪田町小瀬田塚神社境内にある虎列刺神社)

cholera-3 酒田市内の寺院「持地院・妙法寺」の月別死者数を見てみると、安政六年八月の一ヶ月だけ約五倍、翌年万延元年の三月から五月と、二回のコレラ流行がみられた。幕府は、コレラに対する治療法を通達しており、酒田の米屋町組大庄屋の野附家の「御用留」には、①身体を冷やさない。②腹に木綿を巻き大酒、大食をつつしむ③こなれ難いものを食べない④芳香湯を用いる⑤吐瀉(はきくだし)甚しいときは、焼酎一~二合に龍脳(龍脳樹〈南洋原産のフタバガキ科の常緑高木〉からとるショウノウに似た無色透明の結晶香料。cholera-4セルロイドの原料。防虫剤)、または樟脳一~二匁を入れて、温めて木綿にひたし、腹や手足にすり込む。などである。患者に水を飲ませなかったため脱水症状を起して死んだという話もある。
 文久二年(1862)夏に流行した麻疹(はしか)の後に、コレラが全国的に流行した。コレラで死ぬと、惣身が赤くなったという。(「日本医学史」富士川游)。米沢領の罹患者、死者数は判らないが、「上郷郷土史 」の年表で、文久二年に「疱瘡・麻疹・コレラ流行し、死者多数」と記すのみである。「窪田郷土史」の年表で、文久四年(1864・改元で元治元年)にコレラ流行する(置賜のどこで発生したのか不明)と書いてある。
 明治以降の流行は、明治十年(1877)、同十二年、同十五年、同十九年(1886)、同二十三年、同二十四年、同二十八年(1895)と度々、全国的な広がりを見せる流行があった。明治時代の四十四年間でコレラによる死亡者は三十七万余人に上ったという。
 明治十年(1877)十月、「長井市史」年表・索引編には「コレラ全国的に流行(コロリと呼んで恐れられた)」と記してある。極めて感染力が強いコレラは、罹患すると多くの患者が二、三日のうちに死亡することから、コロリと呼んだ。全国で罹患者1万3816人、うち死者は8027人で致死率58パーセントである。(内務省衛生局編「(明治期)衛生局年報 第五・七巻」(東洋書林 1992)より竹原万雄氏が作成。以下、全国同様)。
cholera-7 明治十二年の流行では、当時の「山形新聞」の紙面で、十月二十一日現在、全国でコレラの患者数が、15万6204人、そのうち、死者が8万9702人であると掲載される。
(写真左、下2枚=コレラ地蔵尊と無縁之塔、酒田市)


cholera-8 致死率は57・4パーセントに上る。(「山形県警察史」上巻)。全国で年末までは罹患者が16万2637人、うち死者は10万5784人で、致死率は65パーセントという惨害だった。初夏に清国(中国)から九州に伝わり、全国で流行するコレラを山形県内で予防する為、官立病院の「山形県公立病院」( 同七年(1874)一月に開院した現在の山形市立病院済生館)の館医が、六月二十八日に「虎列刺(コレラ)病予防及び消毒法心得」を作成して配布し(「済生館史」)、これにもとづき、酒田港を中心に本県港湾に入港する船舶や乗客を港外に抑留して、潜伏期間を経過するまで上陸することを禁止する措置を取ったりした。
cholera-9 しかし、八月に飛島(酒田市)でコレラが発生し、庄内地方の飽海地域に感染が広がった。飽海郡内だけで罹患者420人、死亡者は273人に達したといわれる。この時、県で初めて酒田市郊外の大浜に避病院を建てて患者を収容(隔離)し、秋田県の申し出により、秋田、山形県境の交通を一切遮断する措置も取られた。
 初代山形県令(明治九年に鶴岡・山形・置賜三県が合併し統一山形県が成立)の三島通庸は布達を出して、青果物や鮮魚類の売買を禁止するなど厳重な取締りを実施した。同県令は翌年にも「虎列刺(コレラ)病予防組合編成方法ニ付達」という布達を出している。また、医事行政を担当する県庶務課第五部では、済生館の医師と協力して「虎列刺(コレラ)病予防ノ為一般心得置クヘキ条件」という文書を同年九月二十四日に公示した。文書は県民が誰でも理解できるように、漢字にカナを付して、予防や治療について説明している。しかし、県民のなかには、コレラやコレラ患者のために建てた避病院についての正しい認識を持たない者もいた。置賜地方の高湯温泉(現在の白布温泉)で、この年の初夏の頃にコレラが発生し、下流の小野川、赤芝に伝播し、米沢市街に広がると、神仏への信仰によってコレラを追い払おうとしたり、発砲して追い払おうとする者も現れたり、新庄町(現在、新庄市)では、夕刻に太鼓を打ち鳴らして町内を廻り、コレラを追い払おうとしたという。(「山形県警察史」上巻など)。

cholera-5  「米沢大年表」によれば、米沢市の死者は、秋までに数百人に及んだ。その遺骸は、住民が普段は足を踏み入れない八幡原や成島のハゲに埋葬された。多くの死者を出した市内赤芝や窪田には、同年に「虎列刺菩薩」や「虎列刺大明神」と彫った石碑を建て、コレラに感染して不慮の死を迎えた患者の無念と祟りを怖れて神仏とし、コレラを神様に奉りあげて感染から逃れられるように祈願した。
(写真上・下=米沢市窪田町藤泉 雷神王神社境内にある乕(虎)列刺大明神)

 米沢の大町活版所が、同年に陸軍軍医総監の松本順が著した「cholera-6虎列刺(コレラ」予防俗間手当法」をリーフレットにして頒布した。当時、コレラ菌は発見されておらず、医師も住民も適切な予防法も治療法も知らなかったので、予防法と言っても、「腐った食物を食べるな。生水は飲むな。衣類や家の内外を清潔にせよ。」というような常識的なものであり、手当てにしても「下痢をしたら身体を冷さぬこと。みだりに阿片(アヘン)入りの薬を飲まぬこと」等であって、大した効果も見られなかった。
 旧版「米沢市史」によれば、「コロリ追い」といって藁人形を作り、町外れで人形に鉄砲を撃ちかけたり、コレラで死亡した場合には、死亡通知も出さず、近親者だけで形ばかりの葬式を出した。コレラと分れば棺を作る職人から断られ、味噌桶などに死体を納め、棒に吊るして郊外の八幡原や成島のハゲに運んだ。葬列が通る町では、その通行を槍を手にして阻止し、その為に葬式をしても葬列は組めなかったという。市民はコレラを怖れること甚だしく、特効薬もなく、石炭酸(クレゾールの一種)を浸した布を鼻に当てて道を歩くという有様であった。
 同年十月に、箕和田村(現白鷹町)の者がコレラに罹患し、村中に迷惑をかけたとして詫び状が出されており、西置賜地方にもコレラの患者並びに類似コレラが発生している。同年に県内で猛威を振るったコレラも十一月ころに終息した。
 県内での患者総数一六七九人、うち死亡者が1118人に上り、死亡率は66・5パーセントの高さである。(「山形県統計書」1880年)。翌十三年(1880)には、先に示した文書以外にも「虎列刺(コレラ)病予防組合編成方法ニ付達」という県令の布達があった。また、白鷹町の鮎貝村文書によれば、明治十三年二月二十八日付で、「コレラによって死亡したときは、その死体並びに吐潟物は焼却すること、そのため、焼却場を各組一ヶ所または一ヶ所設置するように」と郡役所より各戸長宛に通達が出されている。 
 明治十五年(1882)にも、飽海郡内などで流行し、494人が感染し、その内、319人が死亡した。致死率は、64・6パーセントの高率である。全国では罹患者5万1631人、うち死者は65・4パーセントの3万3784人である。置賜地域では、同年九月八日に横田尻(現白鷹町)に類似コレラが発生したため、馬場村、石那田村(両村とも現在は白鷹町荒砥)に避病院が開設された。同十八年には、前出の「下平柳史」で「明治十八年に米沢各地でコレラが発生し、死者が約四十名(別書には死亡者は三、四〇名とも)に及び、翌十九年四月、現在の川西町吉島でコレラが発生し、糠野目へ伝播して数百名が感染した大流行があった。」という。
 同十九年(1886)には県内全域に感染が広がり、感染者が2213人で、そのうち、70パーセントの1550人が死亡したという。酒田では、七月二十三日に発生し、同年十一月七日に終息した。592人が感染して66・7パーセントの395人が死亡した。全国では罹患者が15万5923人となり、うち死者は69・5パーセントの10万8409人に上った。このことから罹患者の約七割が死亡したことになる。萩生村(現在の飯豊町萩生)外四ヶ村組にもコレラ患者が発生し、蔓延の危険があるということで、十月二日から一週間、予防のために一斉休校が実施された。また、東西置賜郡共同のものとしてコレラ患者を隔離する病棟が、今泉(現長井市)に建設された。大組頭を予防委員として予防や消毒に当たってもらい、その日当として、流行する地域には一円以内、無毒地(感染していない地域)には三十銭づつを支給する事とした。コレラが発生すると、県から売買が禁止される食品が指定されていた。「蛸(タコ)、鯨(クジラ)、キンコ、ナマリ、鰹(カツオ)、貝類、蒟蒻(コンニャク)、心太(トコロテン)、油揚物類、果物類(栗、熟した葡萄、梨を除く)、茸(キノコ)類(虫くいでない松茸、シメジ、椎茸を除く )」などで販売が一時禁止された。
 翌二十年には、萩生村組戸長役場から、各家の伝染病予防のために行う清掃の仕方について、次のような要請が出されている。
「伝染病予防掃除方法」
第一条 道路ハ定ムル所ノ区域ニヨリ掃除ヲ為スヘシ 
第二条 凡テ村内ニ在ル共同ノ飲水、又ハ用水下水溝渠池水等ハ共同掃除ヲナスヘシ
第三条 前二条ハ毎年四月ヨリ十日マテ毎月一回一村共同又ハ慣例ノ区域ニ依リ掃除
    スヘシ
第四条 雪除ケ及雪囲ハ雪融ケ後速ニ之ヲ除キ、空気ノ疎通ヲ計リ邸宅内外ヲ清潔ニ
    スヘシ
第五条 戸口ニ在ル所ノ両便所ハ飲水用水路ヲ距ル三間以外ノ地ニ移シ、毎月三回以
    上掃除スヘシ
第六条 厩ハ居宅ヲ離レテ設クヘシ、若シ之ヲ移シ難キトキハ臭木気ノ飛散セサル為
    メ区域ヲ掃除ニ怠ラサルヘシ但、四月ヨリ十月マテハ隔日掃除スヘシ
第七条 肥塚ハ居宅、及飲水用水路ヲ距ル三間以外ノ地ニ設ケ、地形ハ粘土ヲ以組織
    スルモノトス但、周囲ハ粘土ノ小土堤ヲ以区尽シ液汁流洩ヲ防クヘシ
第八条 寝室ハ毎日窓戸ヲ開キ、空気ヲ融通シ清潔掃除スヘシ
第九条 寝具ハ毎月一回之ヲ戸外ニ出シ、其湿気ヲ乾スヘシ
第十条 衛生取締人ハ毎月一回以上数除ヲ検査シテ其景況ヲ郡役所ニ報告スヘシ
 これらのように、飲料水、便所、寝具などの清潔を保つために掃除を徹底して行うように指示している。
 同二十一年(1888)には、「虎列刺予防心得」を県知事柴原和名で定め、コレラの予防法、摂生法、遮断法、消毒法などについて細かく規定している。さらにコレラが発生した時に取るべき措置は、「虎列刺流行地方実施施行事務」で定め、撲滅法、患者の取り扱い、検疫委員、避病院などについても規定で定めた。
 同二十八年(1895)の県内でのコレラの流行で873人が罹患し、549人が死亡した。実に約63パーセントも死者が出た。
 これらの状況から、県では、同年八月二十日付で、告諭するためにコレラに対する注意書を県下の各市町村に布達した。これを白鷹町の「十王村文書」で示すと次のようなものである。
 第一類 食ス間敷種類
 蛸(たこ)、烏賊(いか)、蟹、海老、いわし、鯖(さば)、ひらめ、鮪(まぐろ)、鯣(するめ)、数の子、なまこ、たにし、鯨(くじら)、いるか、なまり節(カツオを蒸して、生干しにした食品)、こんにゃく、石花菜(トコロテン)、貝類、油揚物類、西瓜、まくわうり、南瓜、未熟及び腐敗に傾きたる果物、蝕痕なき松茸、しめじ、椎茸を除く茸類、とうきび
 第二類 多食ス間敷種類
 うなぎ、そば、冷素麺、果物、にしん、干鱈、塩鮭、塩鱒、青豆、団子、餅、氷水、濁酒
 注意項目
 一、家宅内外常ニ掃除スルコト
 一、糞便ハ一週間毎ニ汲取ルコト
 一、吐潟物アルトキハ速ニ医師ノ診断ヲ受クルト同時ニ可届出コト
 一、飯料水は可成煮沸シタルモノヲ用ユルコト
 一、飲食物ハ口腹ニ慣レタルモノヲ用ユルコト
 一、飲食物ニハ常ニ蓋ヲナシ蝿ノ群集ヲ防クコト
 一、眠ルトキハ腹巻ヲ為シ腹部ノ冷ヘサル様ニナスヘキコト 
 この注意書は、対策とは言えないものだが、医療技術が完全でない時代では仕方ないことである。コレラが発生したと聞けば、その土地に近づくことを禁止する通知を出すのが、精一杯の対策だった。庶民にとって頼るものが無いから、米沢市赤芝町の羽黒神社境内に、明治十二年に「虎列刺菩薩」の石碑を建てて、コレラの猖獗(しょうけつ・病気など悪いものの勢いが盛んなこと、はびこること)を防ごうとするしかなかった。このようにコレラは非常に感染力のある恐ろしい伝染病であった。
 大正八年(1919)七月二十一日付で、鮎貝村長(現在の白鷹町内)より村内の各区長、組宛に、「コレラが三府十八県に蔓延しており、病勢益々熾烈を極めているので流行季に入る折りは特に注意せよ。」と通知が出されている。
 酒田市の北千日町砂丘上(現北千日堂前)の上水道調整池附近には、昭和五十一年(1976)に建立された「コレラ無縁供養碑」がある。かつて、この附近は明治十二、十五、十九年のコレラが流行した際に、死亡した人たちの死体を戸板や車で運んで土葬したり、火葬した場所で、大きな藁人形を立てて目印として、地元では「コレラ山」と言われている。ここには、明治十三年に建立された「コレラ山地蔵尊」が祀られており、現在、毎年一度、施餓鬼、亡者供養の法要が行われている。
 山形県のコレラの流行を調べてみると、幕末、明治初期には、県内各地で感染した多くの人々が、成す術も無く亡くなった。先人は時には80パーセントを越える高い死亡率を示すコレラの感染を防ぐ手立てとして、罹患者の隔離が最も重要であるとし、日頃の手洗いなどで清潔にし、菌が発生できない環境を作り、励行してきた。
 
引用・参考文献
 「山形県史」第四巻 近現代編上(山形県 1984)、渡部幸雄「下平柳史」(私家版 2010)、安部義一「長井市年表」(長井市図書館 1971)、「酒田市史」改訂版・上巻、下巻(酒田市 1987・1995)、「上郷郷土史」(上郷郷土史編纂委員会 1979)、「窪田郷土史」(窪田郷土史編纂委員会 1983)、「米沢市史」近代編(米沢市 1995)、登坂又蔵「米沢市史」(旧版)(米沢市役所 1944)、「長井市史」年表・索引編(長井市 1986)、「添川村史」(添川村史編纂委員会1971)、「白鷹町史」下巻(白鷹町 1977)、竹原万雄「明治時代の感染症パニック」(東北芸術工科大学「私立大学戦略的研究基盤形成支援事業」発表資料 2015)。

(2020年6月8日20:15配信、6月11日19:55最新版)