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寄稿 『甲斐の宝物・信玄が作った堤や陣中食』 斎藤秀夫

寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
saito18 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)、『男たちの夢—歴史との語り合い—』(同)、『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)、『桔梗の花さく城』(鳥影社)、『日本城紀行』(同)、『続日本城紀行』(同)、『城と歴史を探る旅』(同)、『続城と歴史を探る旅』
(同)、『城門を潜って』(同)



 私は甲斐(かい=今の山梨県)の生まれである。そもそも、この甲斐の由来は、『古事記』の中に交(か)ひとあって、東海道と、東山道(とうざんどう、京から近江、美濃、飛騨、信濃、上野〈こうずけ〉下野〈しもつけ〉陸奥〈むつ〉出羽に至る街道)とを結ぶ、内陸交通の要衝の地であったからである。そして、甲斐の国府が置かれた甲府は、釜無川(かまなしがわ)や御勅使川(みだいがわ)などの河川の運び出す土砂が堆積して出来た盆地の中央に位置しているので、しばしば洪水に見舞われている。
 残された文献によると、天長(てんちょう)二年(八二五)に、釜無川と御勅使川が氾濫を起こし、これを憂慮した時の朝廷は、勅使を下向させて一の宮(笛吹市にある浅間神社)二の宮(同じく美和神社)三の宮(甲府市にある玉諸<たまもろ>神社)この三社に命じて、盛大な水防祭を行なわせた。これが今でも四月十五日に行なわれる"おみゆきさん"の始まりだといわれている。要するに、
「河を制する者は国を制す」
 と古代中国ではいわれ、日本でも『甲斐国史』(甲斐国の地史=江戸時代の発刊)に、
kai-9「治水は国家の専務(もっぱら行うべき務め)なり」
 と記されるように、時には竜のように暴れ狂う大河を、制御出来た者だけが、優れた治世者として尊敬されてきたのである。
(写真右=米沢市の直江石堤)

今年(二〇二〇)の七月、俳聖松尾芭蕉が、
「五月雨を集めて早し最上川」
 そう詠んだ山形県を流れるこの大河が、大雨によって氾濫を起こしたが、過去にはその狂暴な竜に、敢然と立ち向かった男がいた。米沢藩祖、上杉景勝の腹心直江兼続である。
kai-1 彼は古くから谷地川原と称された川底が浅く流れが急なことから、たびたび洪水をくり返す松川(最上川上流部の呼称)を制御すべく、赤崩山(あかくずれやま)に登って地形を確かめた上で、最も危険性の高い箇所に河原の石を横に積んだ石堤(最初に掲載した写真参照、二番目の写真はその解説板)を築き、さらにその下流に蛇堤(へびづつみ)を設けたのである。
 また、これは堤防ではないが、農業用水の確保に、力を注いだ人物もいる。寛政(かんせい)七年(一七九五)景勝から数えて九代目となる鷹山は、黒井忠寄(ただより)に命じ、窪田村(現米沢市)千眼寺裏を起点として、赤湯、梨郷(りんごう)村(現南陽市)に至る約一二キロに及ぶ水路を開掘させた。北条郷と呼ばれる藩領東北部は昔から、地味は肥沃ではあったが水利に乏しく、田畑の荒れが多かったからである。
 さらに、寛政十一年(一七九九)には、奥田村(現東置賜郡川西町)の水不足を解消するため、飯豊山(いいでさん)山頂から流れ出る、豊富な荒川水系の玉川の水を、行く手を遮る硬い岩盤(重に花崗岩)に、高さ一.五メートル、幅六〇センチ、長さ一五〇メートルほどの穴を開け、最上川水系の白川に流す工事に着手したのである。完成したのは文政(ぶんせい)元年(一八一八)で、総工費四千貫余の大事業であったが、この飯豊山穴堰(あなぜき)の完成によって、白川の増水量は約一〇〇ヘクタール分に及んだと文献にはある。このように優れた為政者は、常に領民のために尽力したのである…。

kai-2 同じように甲斐の国では、武田信玄が治水工事に挑んでいる。天文(てんぶん)十一年(一五四二=それは信玄が父信虎を追放して甲斐の実権を掌握したその翌年)甲府盆地は、大洪水に見舞われた。そこで信玄は、すぐさま御勅使川の土木事業に乗り出したのである。それが今でも甲斐の宝物の一つとして残る"信玄堤"である。それがいったいどんなものであるのか、三番目に掲載した絵図を使って、少し解説してみよう。
 南アルプスを源流とする御勅使川が山間から平地へと出る扇頂部は流れが安定せず、洪水が起きやすい。そこで、有野(南アルプス市)附近に四つの石積出し(四番目に掲載した写真参照)を築いて、流れを北東に変えて水量を安定させ、そこから三.五メートルほど下流にある六科(むしな)という場所に、将棋の駒の形をした石堤を構え、その北側に新しい川を開削して、激流を分散させた(そして、旧河道を前御勅使川、新河道を後御勅使川と呼んだ)
kai-3 それでも後御勅使川の流れは強く、その勢いをさらに弱めるために、あえて、釜無川と合流させることにしたのである。まず、南北に伸びる竜岡台地河岸段丘の両岸の岩盤を、幅十八歩(約三十三メートル)にわたって掘り下げ、深い人工の谷(掘切)を作ってそこへ流れを集中させた。その上で、掘切の下流に、十六の巨石(『甲斐国史』には「大きなもので長さ一丈二尺〈約三.六メートル〉幅六尺〈約一.八メートル〉ほどとある)を三番目の絵図でも解るように並べたのである。先の『甲斐国史』にも、
「掘切開削の岩石を十六石として用いた」
 とあるが、現在は地中に埋没して見ることは出来ない。こうして、水勢を削ぎ、釜無川と合体し流れが、南へ向かうように仕向けると共に、洪水時には驚くべき破壊力を秘めた水を、高さ四〇メートルはある高岩(甲斐市竜王=五番目に掲載した写真参照)と呼ばれる巨大な断崖にぶつけたのである。ここに殺到した水は、高岩跳ねという現象を起こして、その勢力は対岸へと向けられる。すると、将棋型の石堤(将棋頭)で枝分かれされた前御勅使川と合流して、両者のエネルギーは相殺される。まさに、
「水をもって、水を制す」
kai-4 その原理を応用したのである。さらに、流れに沿って良質の粘度をよく突き固めて作った、長さ約六三六メートル、幅約一四.五メートルの本堤を造営、その先に出っぱりの形をした石積みを、三番目に掲載した絵図のように並べたのである(その姿があたかも列をなして飛ぶ雁<かり>に似ていることから雁行堤<がんこうてい>と名付けられた)この技法を霞堤(かすみてい)と呼び、仮に一番堤が決壊しても、水は二番堤でしばらく留まったのち、また河道に戻って行くであろう、それをねらった設計であった。現在はそのほとんどは確認することが出来ず、わずかに一本の石堤が残るのみであるが、貞享(じょうきょう)五年(一六八八)に竜王村から幕府に差し出した『指上申口上書』によれば、
「一の出し(一番堤)長さ二十二間(一間は約一.八メートル)幅二十間、二の出し長さ四十間、幅二十間」
 となっている。また、これら石堤の前面に、籠出し(大聖牛=おおひじりうし、川の中に据え付けて、流れの勢いを弱め、丸太を三メートルほどの立さに組んだもの)を三十三本築いたとも、同書にはあり、永禄(えいろく)三年(一五六〇)この大事業は一応の完成となった。そのことは、同年八月二日付の『武田家朱印状』で、信玄が、棟別役(むなべつやく=税金)の免除を条件に、竜王村への移住を奨励していることからも、裏付けられるであろう。
 むろん、これで万全とはいえず、その後も甲府盆地は何度か水被害に遭遇するが、天正(てんしょう)十年(一五八二)武田家滅亡後、新たな甲斐国の支配者となった徳川家康によって、信玄の築いた本堤の先(下流)に向かって、長さ約一.三キロメートル、幅約十一メートルの下川除(しもかわよけ)と呼ばれる新堤が造営され、その上に、松、柳、ケヤキなどの樹木が何本も植えられて、信玄の残した宝物は、さらに強化されたのである。
 ほうとう、これも信玄の遺産の一つであろう…。この食材は千年の歴史があるといわれ、清少納言の書いた『枕草子』にも、
「ほぞちはうたう」
 とある。ほぞちとは真桑瓜(まくわうり)を入れて煮込んだもので、信玄という武将は、心の鍛錬のために禅を学んでおり、おそらく修業の合い間に禅僧からこのほぞちはうたうをふるまわれ、
「うん、これはうまい、そうだ、これは陣中食として最適かも知れぬ」
 そう考えたに違いない。というのも、甲斐の国は三方を山で囲まれているため、あまり稲の栽培には適しておらず、宿敵上杉謙信の領国越後(今の新潟県)に比して、明らかにその生産高では見劣りがする。そのため、米の替りに、小麦、粟、ひえ、そばなどの雑穀に頼らざるを得なかったのである。
「しかし、この食材をうまく利用すれば…」
 ふと、信玄はそう考えたのである。
 確かに米は日本人にとって、最高の食糧といっていい。けれどその反面、この作物は冷害に弱い(当時はである。現在では品種改良が進み、その欠点も克服されているが)これに反して雑穀類は、冷害に強く、しかも米よりも軽量なので、持ち運びに便利である。その上、雑穀類は食物繊維が多いから、米よりもその消化に時間がかかる。つまり、腹もちがよいということになる。
 そこで信玄は小麦を中心とした雑穀をうどん状にして、陣中食として用いれば有効ではないかと、考えたのである。事実、信玄の館(つつじが崎館=現在の武田神社)からは、すり鉢や石臼(いしうす)が出土しており、ほかの家臣の屋敷跡からも粉食用の器具が発見されていることから、いかに甲斐国では、このほうとう作りが盛んであったかが解る。そこで、その調理法であるが、中国の古書『斉民要術(さいみんようじゅつ)』に、
kai-5「小麦粉を細かに絹ふるいして調整した肉汁の冷えたのでこねる。両手でよくもんで母指くらいの太さにし、二寸(約六センチ)ずつ切って、水盆に浸す。これを極めて薄くもみ押し広めてから、急火で沸かした湯の中で煮る」
 とあるので、信玄はこの記述をヒントにして、六番目に掲載した写真のように、鍋の中にネギ、ニンジン、ゴボウ、ニラ、シイタケ、それに、カロテノイド類やその他のビタミン類の豊富なカボチャ、鶏肉(もしくは野営中に捕獲したイノシシの肉)そして生めんを加えて煮込んでミソで味付けする、という甲州流のほうとうを生み出したのである。また、信玄は、信玄鮨も考案したといわれている。これは煮た貝にシイタケ、キュウリ、ワラビ、ゼンマイ、ゴマ、クルミ、ノリを鮨飯に混ぜ、笹の葉を敷いた桶に入れて押したものであるが、信玄鮨にほうとう、この二つの陣中食があったからこそ、彼の率いる武田軍団は、ライバル上杉謙信率いる上杉軍団と並んで、戦国最強と呼ばれるようになったのかも知れない。ただし、六番目に掲載した写真のほうとうは、一九六〇年以降、県外の人に山梨県の郷土料理を説明する手段として信玄の名を利用した可能性の方が高く、実際はもっと別のものであったようだ。信玄鮨も然りであろう)
kai-6 もう一つ、甲斐の宝物を紹介しよう。これは、信玄が築いた訳ではないが、どうやら、その父である信虎が関係しており、それが大月市にある猿橋である。七番目に掲載した写真はそれを映したものだが、この橋は山口県岩国市にある錦帯橋(きんたいきょう)長野県にある木曽の桟橋(かけはし)と共に"日本三奇橋"の一つに数えられている。この猿橋がいつ造営されたかについては、明確には解っていないのだが、『旧事大成経』に、
「推古天皇のころ(六一二年)百済(くだら)から渡来した造園博士志羅呼(しらこ)が、桂川渓谷に生息する何匹もの野猿が藤蔓(ふじづる)をうまく使い、つながりあって対岸へ渡って行く姿から思いついた」
 そう書かれている。しかし、『諸国道中金之草鞋』の中で、
「長さ十六間(約三一メートル)、柱なく、もち出しにてもたせし橋なり」
 との表現がある上に、
「水際(谷底)まで三十三尋(ひろ=約五〇メートル)ありといふ。橋の上より下をのぞきみれば、水勢つよく、緑の色をたたへて、ものすごきありさまなり」
 そうも書かれるこの橋を、いったいどうやって架けたのであろうか。その疑問を明らかにする鍵は、橋の両端が七番目に掲載した写真で納得出来るように、刎木(はねぎ)と呼ばれる梁によって支えられている点にあった。そのあたりを、八番目に掲載した絵を参考にして、少し分析してみることにする。
kai-7 ごらんのように、この刎木は左右それぞれ四段の構造になっており、刎木の長さは最下段で一二メートル弱、最上段で一六メートル強ほどあり、その刎木の七割から四割程度が、崖に向かって垂直に打ち込まれている。こうした上で、最上段の刎木の上に、橋の棟木(むなぎ)を乗せたのである。さらに、刎木の腐食を極力防ぐために、七番目に掲載した写真でも解るような小さな板の庇(ひさし)を設けて、橋をより強固なものにすると同時に、木造建築物としての美しさを際立てさせたのである。
 この桂川とその支流である葛野川の合流地点にある猿橋近辺は、江戸時代は江戸日本橋から数えて十六番目となる甲州街道の宿場町であった(距離にすると、日本橋から三十三里十町余=約九三キロメートル)そのため、猿橋は軍事的にも重要な役割を担っていて、室町時代に書かれた『鎌倉大草紙』には、
「応永(おうえい)三十三年(一四二六)武田信長(信虎より四代前の信重の弟)が、足利持氏(もちうじ=鎌倉公方<くぼう>)と猿橋で戦った」
 とあり、さらに『妙法寺記』にも、
「大永(だいえい)四年(一五二四)武田信虎は一万八千の兵を率いて北条氏綱(小田原北条氏の祖、早雲の子)と上杉憲房(のりふさ=関東管領)との戦いに介入するため猿橋に布陣。享禄(きょうろく)三年(一五三〇)には、信虎が北条氏攻撃を目的として、家臣の小山田信有(のぶあり=信虎の妹を正室に迎えている)に猿橋布陣するよう命じた」
 そう記されている。そして、その合戦で猿橋が焼失してしまったのであろう、
「天文(てんぶん)九年(一五四〇)小山田越中守信有が、架橋工事を行なった」 と同書には綴られている。このように、信玄の父信虎が、猿橋建設に関与していたことは明らかといってよい…。
kai-8 以上、信玄堤、ほうとう、猿橋の三つは、今でも甲斐国の財産と呼んでいいが、もう一つ、絶対に忘れてはならない宝物がある。それは何か、むろん富士の山である。この日本一の高さを誇る秀峰は、私が住んでいる部屋からも、天気の良い日には、九番目に掲載した写真のように、肉眼でも眺められる。残念ながらビルに邪魔されて裾野の部分までは見えないが、それでも、この姿を遠望すると、ふっと心が癒されるのは確かである。いやいや、それは何も、私だけの感覚ではあるまい。葛飾北斎、横山大観といった名立たる画家たち、
「わが庵(いお=この場合江戸城)は松原つづき海近く 富士の高根を軒端(のきば)にぞ見る」
 そう詠んだ太田道灌、この富士を眺めて不死身(富士見)を願ったともいわれている徳川家康といった英雄たちを魅了してやまない山なのである。やはり、富士山こそ、甲斐国最大の宝物、否、日本の宝物と呼んでいい存在であろう…。

参考資料
・直江兼続が作ったまち米沢を歩く 遠藤英著発刊
・上杉鷹山の人間と生涯 安彦孝次郎著 サイエンティスト社発刊
・山形県の地名 平凡社発刊
・信玄堤 甲斐市商工観光課発刊
・信玄堤の再評価 山梨郷土研究会発刊
・山梨市史 山梨市教育委員会発刊
・国史大辞典 吉川弘文館発刊
・日本史大事典 平凡社発刊
・山梨県の地名 平凡社発刊
・山梨県の歴史散歩 山川出版社発刊
・日本地名大事典(山梨県) 角川書店発刊
・郷土資料事典(山梨県) 人文社発刊
・日本の食文化(甲信越) 農文協発刊
・四七都道府県伝統食材 丸善出版発刊
・歴史研究第六八〇号 歴研発刊

写真提供
・四番目と五番目の写真 甲斐市商工観光課
・六番目の写真 甲州市観光協会

(2020年11月15日08:50配信)