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寄稿「源義経の奥州逃避行を探る」斎藤秀夫

寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
saito18 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)、『男たちの夢—歴史との語り合い—』(同)、『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)、『桔梗の花さく城』(鳥影社)、『日本城紀行』(同)、『続日本城紀行』(同)、『城と歴史を探る旅』(同)、『続城と歴史を探る旅』
(同)、『城門を潜って』(同)


 
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(写真上=義経一行が至ったとされる鼠ケ関の浜、山形県鶴岡市鼠ヶ関)


 鎌倉幕府の事跡を日記風に編述した『吾妻鏡』の文治(ぶんじ)三年(一一八七)二月十日の条には、
 「前伊予守(さきのいよのかみ)義顕(よしあき=義経の意)日ごろ所々に隠れ住み、度々(たびたび)追捕使(ついぶし=平安時代、凶徒を逮捕するために設けられた役職)の害を遁(のが)れ(中略)奥州に赴(おもむ)く」
 とある。つまり、兄頼朝の怒りを買った義経と、弁慶を始めとする十人前後の家臣たちは、山伏姿で北陸道を通って、奥州の平泉までの逃避行を開始したわけだが、果たして彼らはどのようなルートを使って、目的地まで逃げて行ったのであろうか?、そのあたりのことを、私なりに推測してみよう…。けれどその前に、なぜ義経は、兄の怒りに触れてしまったのであろうか?、そのあたりのことを解明しなければ、話の進めようがない。
nezugaseki-3 源頼朝と義経とが、源氏の棟梁義朝の子であることは間違いない。頼朝が三男、義経が九男である。ただし、母が異なる。頼朝の母は義朝の正室、熱田大宮司藤原季範(すえのり)の娘だが、義経の母は九条院雑仕(ぞうし=下級の女官)常盤(ときわ)なのである。
(写真右=鼠ヶ関の浜に建立されている源義経記念碑)

 要するに頼朝から見れば、義経の母は身分が低く、その子である義経など、弟とはいえ家臣同様の存在、その程度の認識でしかなかったといってよい。事実、それを証明するような出来事が、養和(ようわ)元年(一一八一)七月二十日に行なわれた、鶴ケ岡八幡宮の上棟式の際に起きているのである。この建物の造営は、鎌倉にやがて幕府を開こうとする頼朝にとって、政治的にも、自分が源氏の正統な後継者であることを示すためにも、きわめて重要な意味を持つ事業であった。そこで頼朝は、武蔵国の浅草から何人かの大工を招いて、今日の上棟式の中でその大工たちに馬を下賜することを考えたのである。式典当日、頼朝は義経を招き寄せ、
「おまえも馬の引手の一人になれ」
2 そう命じたのである。これに対し、
「所役卑下の由(しょやくひげのよし)を存じ、事を左右に寄せて難渋せらるる」
 何をいわれるのです兄上、その役はもっと下の者がやるべきではありませんか、私はいやでございます、そう固く拒否したと『吾妻鏡』にはある。
(写真左=俳人松尾芭蕉が訪れた地、鼠ヶ関)

 ま、義経にしてみれば、母こそ違うとはいえ、私もあなたと同じように義朝の子ですぞ、ほかの御家人たちと同列に扱うな、そう主張したかったのであろうが、頼朝は激しく義経を叱りつけ、
「九郎、すこぶる恐怖し」
 と『吾妻鏡』がそうつづける態度に出たのである。ここに、たとえ兄弟とはいえ、武士である以上はこの自分の統制に従うべきであり、それが新たな政治体制を築く上で、最も重要なことだ、そう考える頼朝と、幼いころから母と別れ別れとなり、やがて、奥州の藤原秀衡(ひでひら)の庇護を受け、優遇はされたものの、肉親の愛に飢えたまま育った義経との生い立ちの違い、気質の違いがはっきりと見て取れるのである。同時に、これがこの兄弟の悲劇の始まりであった…。というのも、それから三年後の元暦(げんりゃく)元年(一一八四)八月十七日、義経はまたしても兄頼朝を激怒させることをやらかしてしまうのである。その年の二月九日、一の谷の合戦で平家を敗走させた義経は、意気揚々として京都へ戻った。そんな義経の凱旋姿を一目見ようと、沿道には人が埋めつくし、義経は一躍時代の寵児となった。だがすぐに、恐るべき魔手が伸びて来たのである。頼朝が"日本一の大天狗"と称した後白河法皇が、義経を左衛門少尉検非違使(さえもんしょうじょうけびいし=検非違使というのは、京中の非法を検察する、今の裁判官と警察官を兼ねた役職)に任じたのである。これに頼朝が怒ったのである。平家を西国まで追いつめ、いよいよとどめを刺すべく段階に入ったこの時期、頼朝はその後白河法皇に対し、
「このたびの戦いの恩賞については、この頼朝がまとめて申請します」
 ときつく申し入れておいたのである。それをまるで無視するように、後白河法皇は義経に官位を与えたのである。
 −甘いエサに、すぐに飛びつく義経も義経だ!
nezugaseki-4 頼朝は恐らくそう感じたに違いない。
(写真左=弁天島にある厳島神社境内に立つ源義経碑)

さらに、弟義経の存在そのものが、頼朝にとって脅威となりつつあったのである。間違いなく平家を倒すまでは、義経が持つ軍事の才能はどうしても必要であった。そんな弟がいたからこそ、一の谷から屋島へと平家を追いつめ、元暦二年(一一八五)三月二十四日、壇の浦の海戦で宿敵を滅亡させることが出来た、といっても決して過言ではあるまい。だが、問題はその先にある…。その義経の卓越した軍事の才と、策略好きの後白河法皇が手を結んで(というより、義経がうまく法皇に踊らされて)この自分に歯向かうようになれば、築きつつある支配体制は、その根底から崩れ落ちてしまうかも知れない。
nezugasseki-9 −となれば、危険性のある芽は、早目に摘んでしまうに限る。
 これが、頼朝が義経を京都から追った理由であると私は捉えているのである。そこで義経の逃走劇となるわけだが、その足どりを、掲載した図を使って、たどってみることにしよう…。


nezugaseki-5 京都を発った義経一行は、まず、かつてそこに都のあった大津(滋賀県大津市)を目ざした。そののち、琵琶湖の水運を利用して、船で海津(同マキノ町)に進み、さらに愛発(あらち=福井県敦賀市)を経て、篠原(石川県加賀市)に至った。この地は斎藤別当実盛(べっとうさねもり)が、手塚太郎光盛と組討ちをして討たれた場所であり、義経一行はしばらくその場に足をとどめ、哀れを催したという。
(写真右=近世鼠ヶ関址:江戸時代に使われた関)

 やがて、篠原から安宅(あたか=同小松市)を過ぎ、越中と加賀との国境にあるくりから峠を登った。この峠は四年前(一一八三)の五月、義経のいとこに当る木曽義仲が、奇略を用いて平家軍に大惨敗を与えた古戦場であり、義経の胸中複雑な思いが交錯していたに違いない。そこを越えた一行は、越後の国府(今の新潟県上越市)まで進み、ここでもう一度、船便を活用することにした。『義経記(ぎけいき)』では、そのあたりの様子をこう描写している。
「港の浦(直江津港)に船一艘、主もなく船具足入りて見えければ、これに乗りて押し出す(中略)白山の岡より風向き下(おろ)し、能登の国珠洲(すず=今の石川県珠洲市)の岬へ吹かれ行く(中略)折節(おりふし=たまたま)石動(ゆするぎ)より西へ風直して(風向きが変って)吹く程に、風に任せて行きければ、越後の寺泊(てらどまり=新潟県寺泊町)といふ所へ舟は着きにけり」
nezugaseki-6 こうして、なんとか無事に陸に上がることが出来た義経一行は、さらに北陸道を北上して出羽国へ入った。
(写真左=近世鼠ヶ関址に立つ石碑)

  だが、行手に待ち受けていたのは、念珠関(ねんじゅのせき=山形県鶴岡市)と呼ばれる関所であった。鼠ヶ関(ねずがせき)ともいわれるこの関の前身は、エゾ計略のために作られた都岐沙羅柵(つきさらのき)であったとされ、山が海岸に迫り平地が狭く、岩山を背にして葺(かや)の番所が西面に建つこの関所は、勿来(なこそ)の関、白河の関と並ぶ(掲載した図参照)交通の要衡であった。そこへさしかかったのである。案の定、
「念珠の関守(せきもり=関所の番人)厳しくて通るべき様(さま)もなければ」
 と『義経記』にはある。つまり、咎められたのだ。そこで、同書をもとに、現場を再現してみるのも一興かも知れない…。
「あいや、待たれい」
 と関守の長(おさ)が険しい表情をしながら近づいて来た。
「そのほうども、山伏の姿をしておるが、まこと、山伏に相違ないか」
「これは、異なことを申される」
 先達(せんだつ=指導者、案内者)の装束を身にまとった弁慶が、一瞬表情を変えた主君義経を押しのけるようにして前に進み出ると、つづいて、りんとした声で、
「我々は東大寺の勧進する山伏にて候、これより、熊野より羽黒へ参る山伏なり。笈(おい=僧や修験者などが仏具、衣服、食器などを入れて背に負う箱)に三十三体の観音を入れ奉り、京より下し申す者なり。来月には御宝殿を遷(移)し申し参らせ候はんなり、ご一同、不浄の身にて近付き申して、権現のご本体をけがし給ふな、それでもお疑いあらば、権現の罰が当らぬよう、中を改められい」
 そう開き直ったのである。その迫力に圧倒され、関守たちは一歩後へ退き、
「あい解った。疑いは晴れ申した。さ、どうぞお通りあれ」
 と関守の長は、道を開けたのである。ところが、大きな弁慶の体の背後に隠れるようにして義経が関所を抜けようとした時、再び関守の長が呼び止めたのである。
「待たれい、おぬしの脇におる御仁、どこか鎌倉殿(頼朝)の捜しておられる判官殿におもざしがよく似ておるがの」
 ぎくっ!とする弁慶、しかし、とっさに義経に二挺(ちょう)の笈を負わせると、
「ええい、口惜しや、そちが判官殿に似ておるゆえ、我々はこうして難儀いたす。さあ、さっさと歩け、きさまのために我々は…」
 そう大声でどなると、義経の背中を、杖で叩き始めたのである。そんな弁慶のすさまじい形相に、関守の長もたまらず、
nezugaseki-7「あら不便(ふびん)の小山伏や(義経は小柄だったといわれている)御助け候へ」
 そうつぶやき、関所の木戸を開いて、一行を通してやったのである。
(写真右=鼠ヶ関の街中で区切られる山形県と新潟県の県境、この数十メートル奥左手に古代鼠ヶ関址がある。地元に住む女性をモデルに記念写真)

 これがのち、歌舞伎の"勧進帳"となり、その舞台も、この念珠関から前に少し触れた安宅へと変更されて演じられるようになった。むろん、この『義経記』に描かれている世界が、果して本当にあった話なのか否かは定かではないし、歴史的意義に基づいて、検証してみたいとも私は思わない。というのも、俳聖松尾芭蕉ですら『奥の細道』の旅をつづける中で(『曽根随行日記』にも、「元禄〈げんろく〉二年〈一六八九〉六月二十七日、小雨の中、馬を借り、鼠ヶ関を越えて越後に入る」そう綴っている)二、三日前から体調を崩しているにもかかわらず、
「ぜひ、念珠関を訪れてみたい」
nezugaseki-8 そう主張して、弟子の曽根を困らせていることからも読み解けるように、日本人の持つ感性が、さまざまな義経伝説を生み出した大きな理由だと私は考えるからだ。
(写真左=古代鼠ヶ関址に立つ石碑)

 いずれにしろ、こうして義経一行は念珠関から亀割山(山形県新庄市)へと向かい、陸奥国にある栗原寺(宮城県栗駒町)を通って平泉(岩手県平泉町)にようやくたどりついたのである。
 しかし…であった。義経一行がほっとしたのもつかのまのことで、頼りとした"北方の王者"と称された藤原秀衡は間もなく床に伏すようになり、己の死を悟った秀衡は、枕頭に息子の泰衡(やすひら)を呼び寄せ、
「伊予守義顕を大将軍として国務を令すべきの由、男泰衡以下に遺言せしむと云々(うんぬん)」
 と『吾妻鏡』が記すように、そういい残して秀衡は、あの世へと旅立つことになった。父の死後、四代目を継いだ泰衡は、文治四年(一一八八)二月十一日に、
「義経とそれに同意する輩(ともがら=仲間、一味)を追討せよ」
 との宣旨(せんじ=天皇の命令)が出されるも、これに応ぜず、ひたすら秀衡の遺言を重んじて、義経をかばい続けたのである。業を煮やした頼朝は、さらに朝廷に働きかけて二度目の宣旨を出させた上で、
「凶徒(きょうと=義経の意)にしたがひてなお逆節をはからば、官軍を差しつかはして、よろしく征伐せしむべし」(吾妻鏡より)
 と軍事的圧力をかけたのである。泰衡はついにこの脅しに屈し、文治五年(一一八九)閏四月二十九日に、自ら、数百騎の手兵を率いて高館(たかだち)にいる義経一行を襲い、首を挙げたのである。こうして、義経の奥州逃避行は終りを告げたのである。
 後年、平泉を訪れた芭蕉は、その高館に登り、雄大な北上川の流れを眺めながら、紀行文『奥の細道』の中で、こう書き記している。
「さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。"国破れて山河あり、城春にして草青みたり"と、笠打敷(かさうちし)きて、時のうつるまで泪(なみだ)を落し侍(はべ)りぬ。

 夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」

(2020年3月25日15:45配信)