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川西町、故神尾茂子さんの詩『希望の唄』にメロディー

   




米沢日報デジタル新聞版(平成31年1月1日特集から、但し一部修正、加筆)

タイトル「没後65年、叔母が残した詩を自身の歌唱曲に(名和恒子さん)」
     〜本社成澤礼夫社長の縁で詩と曲が融合し、新たな息吹に〜

 現川西町上小松に生まれ、昭和27年に享年29歳で亡くなった故神尾茂子さんが残したエッセーや詩集について、米沢日報平成30年元旦号で取り上げた。
 その後、その原稿を50年余り手元に保管していた姪の名和恒子さん(米沢市万世町在住、75歳)は、平成30年3月にエッセー「新しい時代に生きる女性の自由と恋愛」(神尾茂子著、名和恒子編 米沢日報デジタル編集)の冊子を出版した。このほど、その詩集の中の1編で『希望の唄』に、ピアノ伴奏付きのメロディーを重ねて歌唱曲が完成した。

■新しい時代の女性の生き方を説いた茂子さん

kibou-1 茂子さんは、現川西町上小松で履物店を営む神尾安太郎・きよ夫婦(故人)の五女として、大正13年に生まれた。昭和15年3月、米沢高等女学校を卒業し、その後、満洲国奉天市(現中国瀋陽市)で看護師をしていた姉久子さん(故人)を頼り、奉天市にわたり数年間勤務する。
(写真左=神尾茂子さん、奉天勤務時代)

  しかし、昭和16年12月、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まり、戦争はいよいよ激しくなり、満洲にも連合軍の爆撃機から爆弾が落とされるようになった。茂子さんはおそらく昭和18年〜19年に中国から上小松の実家に引き揚げたと思われる。
kibou-2 満洲時代に既に結婚していた久子さんは、戦後、夫の実家(徳島県)に引き揚げたものの、家庭の事情から夫と離婚し、上小松の実家に子供を連れて身を寄せた。
(写真右=奉天勤務の際の写真、2列目右から5番目が神尾茂子さん)

 しかし、当時の結婚は家父長の意向が強く、自らの意思で結婚した久子さんは父親と衝突する。久子さんは子供を連れて山口県に移り住んだものの間も無く病死する。そんな姉の辛い立場を理解し、戦後の民主主義の中で新しい時代に生きる女性はかくあるべきだと茂子さんが書いたものが「新しい時代に生きる女性の自由と恋愛」(題名は名和恒子さんが命名)のエッセーである。

■死と向き合い、死を昇華した茂子さん

kibou-3 わら半紙を重ねた手作りのノートに、茂子さんはエッセーや、詩、折々の四季を詠んだ短歌を書き込んだ。それらをみると戦争によって悲惨な青春時代を送った時代が終わり、戦後の民主主義の新しい時代に生きる女性の自由を感じることができる。
 しかし、「おもいで」と題した闘病日記では肺結核という病に罹ったことの驚きや絶望、そして最後には諦めなどが綴られている。
(写真左=「おもいで」に綴られた『希望の唄』)

 エッセーの中で、茂子さんは適齢期に達した女性が男性から求愛された時にどうすることが一番聡明なことか、また女性の願望、妻の有り様、そして戦後、女性は恋愛の自由が許されたとして、親や家の為の結婚に断固反対している。その文章は戦後間もなくの昭和22年3月に書かれたとは思えないほど、現代的なセンスに溢れ、格調が高く、茂子さんの深い教養と広い視野を感じさせるものとなっている。
 茂子さんは、昭和27年に享年29歳の若さで亡くなった。その年に書かれた日記や詩、そして短歌は己の死と真正面から向き合い、そして死の恐怖を克服し、見事に昇華した茂子さんの思いが綴られている。

■上京の機会に、茂子さんの遺品を貰い受ける

kibou-4 昭和39年春、名和恒子さん(旧姓神尾)は九里女子高校を卒業して東京の専門学校へ進学することになり、両親に頼んで仏壇に置いてあった茂子さんの遺品である手作りのノートを貰って行くことにした。というのも、恒子さんがその文章を読むたびに、女性の恋愛や妻としてのあり方、そして自由、生きる意味ということにしっかりとした考え方を持っていた茂子さんの生涯に興味と関心を持ったからだ。
(写真右=「新しい時代に生きる女性の自由と恋愛」の冊子の表紙)

 敗戦間もない頃に、あれだけのことを考えていた茂子さんとは一体どのような女性だったのだろうと、恒子さんはあれこれ思いを馳せた。それ以来、手作りのノートはどこに行っても恒子さんと一緒だった。
kibou-6 「新しい時代に生きる女性の自由と恋愛」の冊子は、巻頭に原田俊二川西町長よりお祝いの挨拶を頂戴したことから、恒子さんは平成30年3月9日、川西町役場に原田町長を訪ねて完成した冊子を贈呈した。
(写真左=原田俊二川西町長に冊子を贈呈する名和恒子さん)

 原田町長は「茂子さんと自分の母親は同じ大正13年生まれで、不思議な縁を感じます。同時代を生きた母と比べようもありません。戦後、封建的な慣習が残るこの町で、女性の自立や自由を促す考え方は大変進歩的で、今日でも新鮮です」と述べた。
 冊子は川西町フレンドリープラザにも収められた。

■30年以上眠っていた曲が詩と融合し、新たな息吹に

kibou-5 平成29年暮れ、成澤礼夫本社社長は米沢市にある緑光会(絵画団体)で最高賞の「緑光会賞」を受賞した山根かほるさん(米沢市在住)を取材した。
(写真左=自宅のピアノを前に山根かほるさん)

 その時に、山根かほるさんが三友堂看護専門学校校歌を作曲した方だと初めて知った。実は同校で行われる入学式、戴帽式、卒業式の度に歌われる校歌の旋律があまりに美しく毎回感動していたのだ。
 かほるさんは、昭和57年、三友堂看護専門学校校歌の作曲を依頼された時に、二曲作曲したそうだ。学校長や職員に聴いて貰って、最終的に現在歌われているものが採用された。もう一曲は、使用されずにそのままかほるさんの手元に残っていた。
 そんな中、成澤本社社長は、恒子さんから編集を依頼され、茂子さんの素晴らしいエッセーや詩に出会うことになる。
 平成30年6月、かほるさんからピアノ伴奏譜を頂いた。米沢楽器店でピアノを指導している川合尚子さんは成澤本社社長が米沢市民オーケストラ(現、米沢フィルハーモニー)に在籍していた26年前に、ベートーベンのピアノ協奏曲第4番のソリストとして出演し、旧知の間柄。ピアノ伴奏部分の録音を依頼したところ、二つ返事で引き受けてくれた。録音された曲を実際に聞いてみると、校歌として作曲されたものだけ有ってメロディーの動きはゆっくりしていて、しかも若さ溢れる明るいイメージを醸し出している。

■通常と逆のパターンで歌唱曲を制作

 作曲家は歌詞をもとにそのイメージから作曲を行っていくが、今回はメロディーがすでに出来上がっている。そのメロディーに、後で詩を重ねていく通常とは逆のパターンとなる。
 実は成澤本社社長には、同じ経験があった。平成19年に作詞した、「米沢牛の恩人」と呼ばれる英国人チャールズ・ヘンリー・ダラスを讃える『ダラス讃歌』を作った時だ。この時もメロディーとピアノ伴奏譜が先にあって、後で成澤本社社長が作詞を行った。
kibou-7 幸いなことに、今回の場合は茂子さんが多くの詩を残していた。その中の一つに『希望の唄』というのがあった。桜の散る頃に若い二人が歩いている。それは恋人同士。生存が厳しい時代でも、二人ならば、僕の闘志は燃え上がる。そんな若々しい、希望に溢れた詩である。成澤本社社長が初めてこのメロディーを聴いた時に、『希望の唄』の詩が一番似合うと直感した。
(写真右=米沢日報デジタルでカラオケビデオを製作)

 4番まである原作の 『希望の唄』の詩を補筆しつつ、七五調で歌詞として歌いやすい単語に変えた上で3番までの歌詞にまとめた。
 高齢者施設などで、カラオケのボランティア活動を行っている恒子さんは、完成した『希望の唄』は、「詩もメロディーもとてもシンプルで分かりやすく、歌いやすい」と話している。今後、叔母の思いの込められたこの歌を自分のレパートリーとしてずっと歌い続けていきたいと述べている。

原作『希望の唄』 作詩 神尾茂子
         
 桜の花の散る頃は
 僕と貴女は歩いてた
 純な愛しき笑顔
 僕は幸福燃えあがる

 緑の若葉はその希望
 優しき貴女と二人なら
 生存激しき競争に
 僕の闘志は燃えあがる

 咲き匂ふ花園で
 僕と貴女は微笑んだ
 明るく楽しいその前途
 僕の闘志は燃えあがる

 雨も嵐も何のその
 男だ若人逞しく
 清い貴女といつ迄も
 清い貴女といつ迄も

『希望の唄』作詩 神尾茂子 校訂 成澤礼夫 作曲 山根かほる

1 桜咲く頃  僕たちは
  松川堤を  歩いてた
  愛しき笑顔 僕に向け
  僕の心は  燃えあがる
  希望の唄を 歌おう
  清い貴女と いつ迄も
  いつ迄も

2 緑の若葉  希望を与え
  花咲き匂う 丘の上
  二人を包む あたたかさ 
  僕と貴女は 微笑んだ   
  希望の唄を 歌おう
  清い貴女と 高らかに
  高らかに

3 雨も嵐も  何のその
  男だ若人  逞しく
  厳しき時代 生きていく
  僕の闘志は 燃えあがる
  希望の唄を 歌おう
  清い貴女と いつ迄も
  高らかに

(2020年4月9日11:15配信、4月11日15:20最新版)