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寄稿 『奥の細道での芭蕉と曽良と出羽国』 斎藤秀夫

寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
saito18 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)、『男たちの夢—歴史との語り合い—』(同)、『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)、『桔梗の花さく城』(鳥影社)、『日本城紀行』(同)、『続日本城紀行』(同)、『城と歴史を探る旅』(同)、『続城と歴史を探る旅』
(同)、『城門を潜って』(同)


 
basho-1
(写真上=山形県大石田町付近を流れる最上川) 

俳聖松尾芭蕉の著した『奥の細道』の一文に、
「なるごの湯より尿前(しとまへ)の関にかかりて、出羽の国に越えんとす」
 とある。また同行者である河合曽良の『曽良旅日記』にも、
「五月十六日 堺田(さかいだ)に滞留。大雨」
 そう書かれている。つまり、芭蕉とその弟子である曽良の二人が、平泉〜一関〜岩出山を経て、陸奥国(むつのくに)との境にある尿前の関(寛文〈かんぶん〉十年〈一六七〇〉に、正式に番所として設置された)を越えて、出羽国へ足を踏み入れたのは、『旅日記』に五月十六日、堺田に滞留とあるので、その前日の元禄(げんろく)二年(一六八九)五月十五日(新暦に直すと七月一日)ということになる。さらに、『旅日記』には、六月二十七日に、越後国に入った記述があるので、二人は四十日以上、出羽国に滞在していた計算になる。そこで、『奥の細道』と『旅日記』をもとにして作製した地図(芭蕉と曽良が歩いた経路図①参照)に沿って、この師弟の足どりを追いかけてみることにした…。

basho-2 出羽国に足を踏み入れた二人が、まず泊ったのは、和泉庄屋(関東では名主〈なぬし〉東北、北陸では肝煎〈きもいり〉と呼ぶ場所もある)新右衛門の兄の家であった。この堺田村は貞享(じょうきょう)元年(一六八四)に、検地を行ない、その後に生まれた新しい村だから、旅籠屋(はたごや=現在のホテルや旅館)が果して存在していたか否かは定かではなく、やむなく二人は、庄屋の家に泊めてもらったようである。
(写真右=山寺立石寺にある松尾芭蕉像)

 というのも、村がまだ宿場町として幕府から認定されていない場合は、庄屋は旅人を助けるという役目を担っていたからである。その上、東北にある藩の多くは、旅人に入判、出判(パスポート)の所持を義務付けていて、旅人はどこの関所から入国してどこへ行き、その用は何なのかを記した書類を町奉行に申請しなければならず、それを清書して役所に提出するのも、庄屋の大切な役目でもあったのである。

     芭蕉と曽良が歩いた経路図①

basho-3 たとえば、鶴岡の大庄屋川上四郎右衛門が役所に提出した書状には、
「女壱人男壱人、羽州新庄より尾張の名古屋へ罷越し候間(まかりこしそうろうあいだ)道中御関所相違なく御通し下さるべく候、其の為仍如件(そのためよってくだんのごとし)寛文(かんぶん)七年(一六六七)三月十七日」
 そう認(したた)めてある。こうして、許可を得た者だけが旅をすることが可能になったのである。
 いずれにしろ、五月十五日、新右衛門宅の一室で、しっかりと休息を取った芭蕉と曽良は、翌日早朝に出発する予定であったのだが、どしゃぶり(旧暦五月十六日はすでに梅雨の季節である)になってしまい、もう一日、当地に留まざるを得なかったのである。ぬかるんだ山道を歩くのは危険だと判断した結果だと思われる。やがて、
「十七日 快晴。堺田を立」
 と『旅日記』が示す状況となり、やっと二人は、尾花沢へと向かうことが出来た。けれど、一日分の遅れを取り戻そうと、幹線道路である羽州街道を使わずに、脇道にそれ、一刎(いちばね)から山刀伐(なたぎり)峠を越すことにした。そのため、
「高山森々(こうざんしんしん)として一鳥(いっちょう)声きかず、木の下闇(このしたやみ)茂(しげ)りあひて、夜る行くがごとし」
 と芭蕉が『奥の細道』で書くほどの道のりであった。午後には激しい夕立にも見舞われたが、どうにか無事、次の目的地に行くことが出来た。

vbasho-4 尾花沢でわらじを脱いだのは、清風の屋敷であった。本名を島田屋八右衛門というこの人物(清風は俳号)は、地元で一、二を争うほどの豪商であった。彼は金融業を営み、村山地方で産する紅花を大量に買い付けて染料や紅粉を作り、それを、京都や江戸で売りさばき、利を得ていたから、壮大な屋敷を構え、俳句を通じて芭蕉とも親交があったのである。(清風は江戸小石川にも別宅を有し、たびたび芭蕉の指導を受けていたともいう)
(写真上=紅花を商品化する作業を描いた絵)
【山形県指定有形文化財「紅花屏風」青山永耕筆 六曲一双 山寺芭蕉記念館所蔵】

basho-8 『旅日記』によると、二人は尾花沢には五月十七日から二十六日までの九日間泊っているが、清風宅は三日ほどで、残りは清風屋敷から七百メートルほど離れた場所にある養泉寺に宿泊したことになっている。
(写真右=地上から見た立石寺)
 
 恐らく清風とすれば、二人をすべて自宅で接待したかったのであろうが、この時期は四番目に掲載した絵でも解るように、紅花を商品化する作業が忙しくて、十分なおもてなしが出来ないと考えたからであろう(ついでながら、山形の紅花は新暦の六月には黄紅色となり、この紅花を入れて作る〝べにきり〟と呼ばれるそばが、最上地方の郷土料理として、今も人々に好まれているという…)。
basho-12 それに、養泉寺は前年に改築され、天気が良ければ寺の一室から鳥海山、月山が眺められたから、句会を催すには適している、そう考えた上での選択であったに違いない。というのもこの清風は、芭蕉が『奥の細道』の中で、
「彼は富めるものなれども、志(こころざし)いやしからず」
 そう表現したように、さりげない気配りが出来る男だったからである。
(写真上=立石寺の山頂から見た景観)

「眉はき(眉に付けた白粉を払うための刷毛)を俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」
 これが尾花沢滞在中、芭蕉が吟じた一句である。つづいて『旅日記』には、
「五月廿七日 天気能(よし)、辰の中尅(たつのちゅうこく=午前七時ころ)尾花沢を立て、立石寺(りっしゃくじ)へ趣(おもむく)」
 とある。
(写真右=立石寺にある解説看板)

 山寺とも称されるこの古刹を二人が訪れることになったのは、
「殊(こと)に清閑(せいかん)の地なり、一見すべきよし」
 そう清風たちに薦(すす)められたからだと『奥の細道』では綴っている。それに習うようにして、私も貞観(じょうがん)二年(八六〇)に、最澄の弟子である慈覚(じかく)大師によって造営されたその立石寺へ行ったことがあるが、そそり立ついくつもの奇岩と、重みのある建物が、圧倒的な迫力を持っていたことを今も鮮明に覚えている。

basho-10 私が訪れたのは緑がさわやかな五月上旬(むろん新暦)であったから、実際体験したわけではないが、『奥の細道』で芭蕉の詠んだ、
「閑(しづか)さや岩にしみ入る蝉の声」 
 その秀句は、十分に強く心に響くものがあったといってよい。
(写真左=芭蕉の句を刻んだ石碑)

basho-11 その日、立石寺の宿坊で一泊した芭蕉と曽良は、次の日山形へ向かおうとしたのだが、急にそこでの句会が大石田で行なわれるようになったとの報せが入ったので、二人は主催者側が用意した馬に乗って、大石田の高野一栄の家へと向かった。
(写真右=立石寺の山頂に向かう石の階段)

 なにしろ、彼の屋敷は倉庫が建ち並ぶ場所にあり、家の裏から最上川が望まれる。その風景がいたく芭蕉の詩心を刺激したのであろう。翌日(二十九日)に行なわれた句会で「五月雨をあつめて早し最上川」
 その一句を残している。(もっともこの時はあつめて涼しと詠み、その後推敲されてあつめて早しに変えたと伝わっている)

basho-5 大石田を発ったのは六月一日辰の刻(午前七時ごろ)で、その日の夕暮、新庄藩六万八千二百石の城下町の富商、渋谷甚兵衛(彼の俳号は風流)の屋敷でわらじの紐を解いた。ご馳走と綿の入った蒲団にくるまった二人は疲れた体をいやし、次の日は昼過ぎからの句会に招かれただけで、久し振りにのんびりとした一日を送ることが出来た。
(写真右、下=大石田の高野一栄宅跡に立つ看板と石碑)

つづいて、
「六月三日 天気吉(よし)新庄を立。一里半(約六キロメートル)元合海(もとあいかい)より舟を継ぐ」
basho-7 と『旅日記』は記している。この元合海には乗船場があり、そこから舟に乗ったようである。『奥の細道』にも、
「最上川はみちのくより出(い)でて、山形を水上(みなかみ)とす。ごてん、はやぶさなど云ふおそろしき難所有り。板敷山(いたじきやま)の北を流れて、果は酒田の海に入る」
 とある。先ほど紹介した五月雨を〜の句は、この舟下りの中で、校正を思いついたに違いない。なぜなら、この最上川は日本三大急流の一つに数えられているからである…。
 その後、芭蕉と曽良は羽黒山を目ざし、その日は南谷別院に泊っている。
「六月四日 天気吉。昼時、本坊へそば切にて被招(まねかれ)会覚(えがく)に謁す」
 ひきつづき『旅日記』を読むと、こう書かれていた。会覚は一山の寺務を支配する別当代であり、南谷の宿泊も彼の許可なくしては不可能であった。そんな寺の実力者からそば切までご馳走になり、芭蕉は感謝の意をこめて、
「有難や雪をかをらす南谷」
 そう『奥の細道』で書き残している。『旅日記』には十日にも、同じような文面があるので、その間二人は、出羽三山である月山、湯殿山まで足を伸ばして登山を試みたようである。『奥の細道』の記述にも、
「息絶え身こごえて頂上に至れば、日没して月顕(あらは)る」
 とある。二人が鶴岡の長山五郎右衛門宅の世話になるのは、その日の申(さる)の刻(午後四時ごろ)であった。すぐさま、
「粥を望(のぞみ)終て眠休す」
 と『旅日記』にはあるので、さすがに、出羽三山への登頂は、体にこたえたのであろうし、体調もやや下り坂であったと考えられる。それでも、一休みしたのち風呂に入るとだいぶ疲れもやわらぎ、しかも、夕食に出された民田茄子(みんでんなす)の漬け物が、よほどおいしかったとみえて酒もすすみ、芭蕉は、
「めづらしや山をいで羽の初なすび」
 の一句を、気持ちよく吟じている。(ただしこれは『俳諧書留』に載っているものだ)
tsuruoka 鶴岡は酒井氏十三万八千石の城下町で、五郎右衛門(俳号は重行)は百石を賜る藩士で、その家は荒町裏町から与力町へ通じる小路の角にあった。その屋敷に二人は十二日まで滞在し、昼になって晴れとなったので、重行に別れを告げて旅立つことにしたのである。
(写真右=鶴ケ岡城址の中にある荘内神社)

「六月十三日 川船にて坂田(酒田)に趣。船中少し雨降りて止(やむ)申の刻より曇。暮に及(および)て坂田に着(つく)」
(写真下=鶴ケ岡城址)

tsuruokajoushi 『旅日記』を追って行くとそうなる。その足で二人は、豪商が軒を連ねる本町通りから小路を入った所にある、伊東玄順の家を訪れている。この玄順は内科の医師であると同時に、不玉(ふぎょく)という俳号を持つ文化人でもあったのだが、あいにくその人は不在で会うことが出来ず、やむなくその日は、町の旅籠に泊ったようである。『旅日記』には、
「十四日、寺島彦助亭へ被招。俳有。夜に入(いり)帰る。暑さ甚(はなはだ)し」 とあり、翌日、改めて豪商寺島の屋敷で、不玉を混えての句会となった。この時、芭蕉が短冊に認めたのが、
「暑き日を海にいれたり最上川」
 の一句である。またしても最上川を題材にしたのも、この酒田は全長二二九キロメートルに及ぶ最上川が日本海に注ぐ最後の地点であり、山形の人々に多大な恩恵をもたらす、まさに、母なる大河と呼んでよい存在であることと無縁ではあるまい。
 寛文(かんぶん)十二年(一六二七)河村瑞賢(ずいけん)が、この酒田から赤間関(現在の山口県下関市)に至り、関門海峡から瀬戸内海を経て、大坂、江戸をつなぐ長大な西廻航路を開く事業に着手した結果、酒田はその重要な物流拠点としての役割を担うことになる。三月〜十一月までの間、数多くの北国船(ほっこくぶね=五百石から六百石程度の船で、丸い船首、波よけの蔀〈しとみ〉などに特色がある。のちに登場するこの船より一回り大きい北前船の前身といわれている)が出入港するほどのにぎわいを見せた。播磨(はりま=今の兵庫県)から塩、大坂、堺、伊勢からは木綿、出雲からは鉄、北の津軽、秋田からは材木、松前からは塩物、干物などが問屋に卸され、最上川舟運を使って山形の各地で売りさばかれたのである。それによって利益を得た豪商たちによって、自分もこうして句会を催してもらえるわけだから、芭蕉は改めて最上川の偉大さを、句の中にこめたかったに相違ない。
「六月十五日 象潟(きさかた)へ趣。朝より小雨。吹浦(ふくら)に至る前より甚(はなはだ)雨」
 と『旅日記』は綴っている。背後に雄大な鳥海山を従えたこの象潟は、入江にいくつもの小島を浮べ、『奥の細道』の中で、
「俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如(ごと)く、象潟はうらむがことし」
 芭蕉がそう表現したほどの、景勝地であり、それを眺めて、
「象潟や雨に西施(さいし)がねぶの花」
 そう詠んでいる。西施というのは、古代中国で楊貴妃、王昭君(おうしょうくん)と並び称される三大美人の一人で、ひそみ(眉)に倣(なら)うの起こりは、この女性から来ている。西施が胸の病のために苦しげに眉をひそめた表情が、男性にとってはたまらなく魅力的であり、他の女性もこの西施のまねをしたというのだ。むろん、芭蕉がこの故事を知らないわけはなく、そこで象潟の美しさを、この古代の中国の美人になぞって表現したかったのであろう。
 けれど、『出羽国風土記』によると、
「斯(かか)る名勝も文化(ぶんか)元年(一八〇四)六月の地震に埋没して、水涸(か)れ沙(砂)現れ、空しく島々のみ残りぬ」
 つまり、かつては東西一、五キロメートル、南北五キロメートルにわたって、九十九(つくも)島や八十八潟などが、松島のように海に浮かんでいたものが、地盤が隆起して一夜にして水はなくなり、浮かんでいた沢山の島は、ただの丘になってしまったのである。
 その日、吹浦の旅籠を宿とした二人は、再び酒田へ戻り、つづいて、『旅日記』には、
「廿五日 酒田立。船橋迄被送(までおくらる)袖(そで)の浦、向也(むかひなり)未(ひつじ)の尅(午後二時ごろ)大山に着(つく)」
とある。
 袖の浦は、今の酒田市南西部に位置し、その河口で最上川は大きく幅を広げているので、芭蕉と曽良は、舟に乗って対岸に向かった。やがて、再び陸に上がった二人は、「酒田より浜中へ五里近し。浜中より大山へ三里(一里は約四キロメートル)近し」
 と次の日『旅日記』がそう書くように、しばらく砂丘のつづく浜街道を南下して浜中に至り、七窪から善宝寺の前を通るAコース、あるいは浜中から東の方に折れて、茨新田、長崎、面野山を経由して善宝寺の前を通るBコース(経路図②参照)を使って大山に至ったものと考えられる。
basho-40 『旅日記』に出てくる浜中は、現在庄内空港が開港し、海外からのチャーター便が飛ぶ、山形県の空の玄関口になっている。また〝アンデスメロン〟の産地として、近年知られるようになった。同時にこのあたりは浜風が強いため、元和二年(一六一六)ごろから植林を始めたというが、防風林として機能を果たすのは、寛保(かんぽう)二年(一七四二)ごろと推定されているので、二人が通過したころは、街道の右脇には日本海が横たわっていたに違いない。
 さらに、善宝寺は曹洞宗の古刹で、安政二年(一八五五)に五百羅漢堂が、明治二十七年(一八九四)に五重塔が建立されるほど、今では山寺と並ぶ寺院だが、芭蕉のころは、それほど大規模なものではなかったので、どうやら二人は、そのまま素通りしてしまったようである。(なお、このあたりの記述は、『米沢日報デジタル』の成澤礼夫社長〈彼は善宝寺のある場所の出身だという〉の話を参考にした)こうして芭蕉と曽良とは大山に入った。
 この大山は酒蔵が何軒かある商業地で、港町の加茂と城下町鶴岡へと向かう、交通の要衝の地に当たっていて、
「状添(じょうそえ)て丸や義左衛門方に宿(やどる)。夜雨降」
 と『旅日記』はつづけている。さらにその後の二人の足どりを追って行くと、
「廿六日 晴。大山を立。未の尅、温海(あつみ)に着。鈴木所左衛門宅に宿」
「廿七日 雨止。温海立。翁(おきな=芭蕉の意)は馬にて直(すぐ)に鼠ヶ関(ねずがせき)被趣。予(曽良の意)は湯本へ立寄、見物して行(ゆく)」
 と『旅日記』は書き記している。
basho-13 鼠ヶ関は、兄頼朝に追われた義経が奥州平泉の藤原秀衡のもとに、逃げこもうとした際に通過した場所であったから、義経が大好きな芭蕉は、
「どうしても訪れてみたい」
 と主張してやまなかったのだ。
(写真左=近世鼠ヶ関址:江戸時代に使われた関)

 曽良としても、師匠の願いは叶えてあげたい。けれど芭蕉は二日前から再び体調を崩していたので、師の体を気づかって、
「いや、おやめになった方がいいのではないでしょうか」
 とやんわりと説得するのだが、芭蕉は聞く耳を持たず、
「おまえが尻ごみするなら、わし一人でも行ってみせる」
 という有様だった。困り果てた末に曽良が思いついた妙案が、地元の馬方を雇って、馬で師匠を鼠ヶ関まで行かせ、自分はその間、温海から半里(約二キロメートル)ほどの山の方に入る湯本(現在の温海温泉)で、芭蕉が帰って来るのを待つというものであった。同時に、
 −地元の馬子に頼めば、土地勘もあり、きょうの客の様子では、もう、これ以上馬に乗って先へ進むのは困難と判断した場合は、途中で引き返して来るであろう…。
 そういう読みもあったのである。果して、芭蕉が目的地に行けたかどうかは解っていないが、戻って来た師匠の表情から、曽良もおおよその見当はついたと思われる。いずれにしろ、湯本で合流した二人は、温泉にたっぷり浸ったのち、
「その日 及暮(くれにおよび)び中村(今の新潟県村上市北中)に宿す」
 と『旅日記』にはある。
 ただ、二人がどのルートを使って湯本から中村へ至ったのかはっきりしていないので、想像するしかないのだが、どうやら、湯本から小国街道に出て、次の目的地を目ざしたものと思われる。というのも、この街道を使って、多くの人々(時には荘内藩主までも)が、湯本へ湯治に出かけたとされ、道はかなり整備されていたからである。(従って、鼠ヶ関は通らなかった可能性の方が高い)このようにして、六月二十七日、二人は越後国に入ったということになり、これで、芭蕉と曽良との、出羽国での旅路は終りを告げたのである…。

☆参考資料
・『曽良旅日記』を読む 金森敦子著 法政大学出版局発刊
・CD『奥の細道』 原文朗読=寺田農 キングレコード発刊
・『お城山だより』NO50 村上城跡保存育英会発刊
・山形県の地名 平凡社発刊
・広辞苑 岩波書店発刊

☆資料提供
『紅花屏風』 山寺芭蕉記念館

(2020年4月28日9:45配信)