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竹田 歴史講座

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寄稿 『64歳でパラグライダー飛行に挑戦』 古川清志

寄稿者略歴
furukawa 古川清志(ふるかわきよし)
 昭和11年、現在の米沢市万世町生まれ。山形県立米沢興譲館高校卒業。レストランビッキ石を創業、現在は同店会長。



「軍国少年が夢見た大空への憧れ」
   〜64歳でパラグライダー飛行に挑戦〜

●戦闘機乗りに憧れた軍国少年の私

 私は昭和11年、山形県南置賜郡万世村(現在の米沢市万世町)に生まれた。万世村国民学校に入学したのは、日本がアメリカと開戦した翌年の昭和17年4月のことである。
 山本五十六連合艦隊司令長官が作戦を練って、真珠湾の奇襲をして大戦果をあげたのもつかの間、昭和17年6月にはミッドウェー海戦で、日本海軍は虎の子の空母や優秀な戦闘機パイロットを多数失い、大損害を受けて、ここから日本の戦況は流れが変わっていく転換点となった。ちなみに、ミッドウェー海戦で現地の指揮をとったのは米沢出身の南雲忠一中将だった。
 当時、日本は軍国主義一色で、国民学校(現在の小学校)の教科書は「ススメ、ススメ、兵隊サン、ススメ」とか、「ヤガテボクラモニッポングンジン」などの言葉が溢れ、天皇や国に命をささげるのは当然のような雰囲気で、巷では軍歌がうんと流行して戦意の高揚が図られた。戦争に反対するのは非国民とレッテルを貼られた。
 私もそのような環境の中で、ご多分に漏れずに兵隊ごっこやチャンバラのような遊びに興じていた。若者たちが憧れたのは、海軍の7つボタンの制服である。広島県広島市江田島にあった海軍兵学校に行くことができるのは、身体、頭脳ともに特に秀でた、選ばれた若者だけであった。
 国民学校児童だった私は、将来、兵隊に行くことになったら戦闘機乗りになりたいと思った。それは私ばかりではなく、当時の子供たちは皆そう考えたに違いない。しかしそれから3年あまりして、昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して戦争に敗れた。
 その日を境に、軍国主義教育を施した教師らは今度は平和主義を唱えるようになった。戦時中は「鬼畜米英」と教えられた米軍の軍人が、進駐軍として米沢の第一中学校に入ってきた。学校では教科書を墨で塗るようなことも行われた。
 
●日航ジャンボ機機長田口氏著作に触発され

 それでも戦闘機乗りになりたいという私の夢は、中学校、高校、そして社会人になってからも頭を離れることはなかった。ただ、飛行機のパイロットになるには、頭脳、身体、運動能力など全てにおいて強靭でなければならない。私は体が弱く、すぐに脳貧血を起こす癖があった。頭脳はともかく、飛行機のパイロットには不向きな身体的な特徴を持っている。
 60歳も過ぎたある時、日本航空でジャンボ機の機長をされた田口美貴夫氏の著作を読んだことがあった。一般人には憧れのジャンボ機パイロットであるが、厳しい訓練を積み重ねて、学科、実技の試験に合格してようやくパイロットになることができる。本の中身には私の知らなかった多くの苦労話が書いてあった。
 パイロットになるには、工業系の大学や航空大学校を卒業してなるケースが多いようだが、一般大学を卒業してもパイロットの道は開かれている。英語は少し話せれば良いとも書いてあった。大事なことは、緊急事態が発生した時に、機転が利くかということが大きいという。
 これは全てのことに言えることだが、特に飛行機は空を飛んでいるから、地上とは異なるとっさの判断が大事になる。さもなければ墜落して乗員、乗客は命を落としてしまうことにもなるからだ。
 田口氏の本に触発されて少年時代から憧れてきた空を飛ぶと言うことを具体的に始めるきっかけを与えてもらった。田口巳喜男氏の著作が、私の少年時代の空を飛びたいという夢を一気に呼び覚ました。

●パラグライダーで初めて空を飛ぶ

f-1 64歳となった春のある日、私は南陽市北部にある十分一山に行った。飛行機のパイロットは無理でも空を飛ぶ方法があると思ったからである。
(写真左=上昇気流に乗り、空高く飛行する筆者 平成12年頃)
 南陽市の十分一山頂付近には、ハングライダーやパラグライダーのテイクオフ(離陸)場所がある。この場所は、米沢盆地が一望できる絶好のロケーションである。私の目の前で、パラグライダーを背負った若者たちが次々と大空に飛び立っていった。
 ハングライダーはアルミパイプで三角翼を作り、人がその羽の下に水平になって操縦するので、私にはその姿勢にちょっと無理があるように思えた。
 一方、パラグライダーは半円形に膨らんだパラシュート状のものの下に、紐で釣った椅子があり、その上に人が乗る形だから圧倒的に楽な姿勢で飛行ができる。
 当時、植木さんという方がパラグライダーのスクールを運営していた。私が熱心に見ていたせいか、植木さんは私に体験飛行をしてみないかと誘ってくれたのである。
私は二つ返事で申し込んだ。
 私が前に、植木さんが後ろに位置して、植木さんが私を抱っこをする形でのパラグライダー飛行である。私が操縦するわけではなく、ただ言われたように乗っているだけである。それはとても天気の良い日で上昇気流もあって、テイクオフもスムーズに行き、私は生まれて初めて鳥になった気分を味わった。私は空を舞いながら、米沢盆地の風景を楽しんだ。そして、着陸地点にソフトランディングして、約10分あまりの体験飛行(タンデム)は終了した。

●パラグライダースクールで飛行を学ぶ

f−2 体験飛行後、植木さんの勧めもあり正式にパラグライダースクールに通うことにした。その時、私は64歳になっていたが、70歳くらいの男性もいてその挑戦する気持ちに驚いた。
(写真右=白鷹山で着陸態勢に入る、平成12年頃)
 5月に入校したもののすぐに飛行ができるわけではない。毎月1回開かれるスクールでは、午前にはロープの結び方、流体力学、天気図の見方、法規、安全な飛行方法などを学んだ。午後は離陸(テイクオフ)動作の練習が繰り返し繰り返し行われた。
 パラグライダーの最も難しいところは、離陸(テイクオフ)にある。急斜面を走り降って、飛び出すわけであるが、この時に風に上手く乗ることができるかがポイントである。要は体で覚えるしかないわけである。
 この離陸(テイクオフ)動作のことを、パラグライダーの世界では「ぶっ飛び」と呼んでいる。「ぶっ飛び」の技量が十分に満たされないと、校長から飛行許可が出ない。卵から孵った鳥が羽ばたきの練習をしているようなものだ。両手を高く上げて万歳をして走るとパラグライダーの帆が膨らみ上の方に立ち上がる。このようにして離陸できる条件が整えば、フワッと空に飛び立つことができる。
 5月に入学して4ヶ月が過ぎた9月、いよいよ私の初フライトの日がやってきた。十分一山の山頂から着陸の目印となる広場には旗がなびいていた。その右側には、白竜湖が見える。誤って白竜湖に着水するとこれはまずいことになる。初フライトを前に、私の心臓は外に音が聞こえてくるくらいドキドキした。
 風は2〜3メートルが適当とされ、南風のアゲインスト(向かい風)で絶好のタイミングである。校長の植木さんとインストラクターが、風の具合を見て私に離陸可能の合図を送った。
f-3 私はまさに清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、加速をつけて思い切って斜面を勢い良く走り降りた。すると、体がフワッと感じたと思ったら、地面から足が離れ、体が上空に浮いている。離陸成功だ。私は感動して涙が出そうになった。
(写真左=着陸した筆者を迎えた、平成12年頃)
 私の前にはすでに離陸した人たちが5、6人、すでに上空で飛んでいる。そして次々と無事に着陸している。私は他の人たちと距離をとりながら、しばし空の散歩を楽しんだ。パラグライダーの操縦は、両手で操縦ラインを引くことで左右に回転することが可能となる。
 飛行機は離陸と着陸の時に一番事故が起きると言われる。パラグライダーも同様である。着陸位置まで降りてきたら、操縦ラインをぐっと引くと、パラグライダーの帆が縮んで揚力が小さくなり、降下が早くなって着陸することができる。

●白鷹山上空1850メートルを飛ぶ

f-4 十分一山で飛行を繰り返していたが、そのうちにスクールは白鷹町に移動した。白鷹町にある白鷹山にはパラグライダーのメッカとも言える場所である。
(写真右=猪口春雄さん操縦のセスナで遊覧飛行、平成12年6月4日、ふくしまスカイパーク)
 私はここで最高高度1850メートルまで上昇した。ここまで上昇すると大地は小さく見える。パラグライダーをする時は、気圧計、高度計、無線機を身につけるが、高度計はサーマルがあるとピーピーピーと教えてくれるので、その気流の中に入ると容易に上昇ができる。昔、大きな鳥が羽ばたきもしないで空を回転しながら上昇するのを見たことがあるが、まさにこの原理を鳥たちは知っているのである。無線機を通して、インストラクターが指示を与えてくれる。
 見渡す限り、360度の大パノラマである。月山、蔵王山、飯豊山、朝日岳などが見えてきた。1時間ほど上空を飛んでいたら、無線が入って「古川さん、あまり後ろに行くな。前に出せ」という指示が入った。気流のせいで、相当に山の中に入っていたから出発地点まで戻れという指示だった。着陸地点は、白鷹小学校のグラウンドで、私はそこを目指してゆっくりと下降して行った。
f-5 私のパラグライダー人生は、68歳までの4年間ほど続いたが、やはり、空を飛というのは少々危険を伴うスポーツであることは間違いない。自分の体力、技術など総合的に満たされないと続けることは難しい。だから私は68歳でパラグライダーを卒業することにした。

(写真上=猪口春雄さん操縦のセスナで、米沢市南部の水窪ダム上空を飛ぶ、平成12年6月4日)
 少年時代に憧れた飛行機のパイロットになるといういうのは、パラグライダーという少々違う世界となったが、今、私は夢が実現したと満足した気持ちでいる。 その後、米沢市に住む猪口春生さんが操縦するセスナ飛行機に乗せてもらい、ふくしまスカイパークから米沢、上山、山形、神町を経由して、最上川沿いに遊覧飛行を楽しんだことも付け加えたい。