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渡邊敏和(わたなべ としかず)
昭和31年、山形県東置賜郡川西町上小松生まれ。山形県立長井工業
高校卒業。平成17、18年、川西町獅子頭展実行委員長。 置賜民俗
学会理事。
はじめに
米沢日報令和八年元日号に「米沢藩における『茶の湯』の歴史について」を掲載したが、その際に長井市栄町の岩城屋商店(海老名家)に頼山陽と子の支峰が同家に訪れていると記述した。それに対して置賜民俗学会の先輩会員である白鷹町在住の江口さんから、これは誤りである趣旨の手紙を頂いた。執筆の際に複数の文献で親子が同家を訪れているとの記述があったため、その内容を引用したものだったが、その真偽については、これからも調査を行っていくつもりだ。一方、頼山陽の三男三樹三郎については、明らかに米沢来訪を記す複数の文献が見つかったので纏めてみた。米沢では、頼三樹三郎に関する研究論文はほとんど目にしたことがない。しかし、安政の大獄で刑死した頼三樹三郎について、米沢での足跡を調べてみることは、幕末期における米沢藩との関わりの中で少なからず意味あることと考える。
一、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)について
三樹三郎は文政八年(1825)5月26日、頼山陽と後妻梨影(里枝子・彦根市三津屋町の疋田藤右衛門の四女、4歳のとき蒲生郡西大路村〈現在の滋賀県蒲生郡日野町西大路〉の大崎嘉兵衛の養女となる。
(写真右=頼山陽が『日本外史』を著述した場所=広島市「頼山陽史跡資料館」、米沢日報デジタル撮影)
京都の蘭医小石元瑞で奉公中に山陽に見染められ、元瑞の養女となり嫁ぐ)の三男として、京都三本木(京都市上京区南町)に生まれた。頼支峰は実兄である。
通称が三樹三郎(又は三樹八郎、三木八)、名は醇(じゅん)、字は子厚、子春、号は鴨崖(おうがい)、百城、古狂生である。
(写真左=頼山陽が『日本外史』を著述した場所に建つ記念碑、米沢日報デジタル撮影)
天保三年(1832)に父山陽を喪い、同十一年、16歳のとき、大坂の後藤松蔭(父頼山陽に師事)の塾に入り、かたわら松蔭の妻町子の父篠崎小竹にも学ぶ。同十四年(1843)に大坂を訪れた羽倉簡堂に伴われて江戸に行き、昌平坂学問所(昌平黌)に入寮し、教授佐藤一齋に学ぶ。弘化三年(1846)3月に、朝廷を蔑視する幕政に反対して、上野寛永寺、不忍池の弁天堂に立つ徳川氏の石燈籠を倒したかどで寛永寺の咎めを受け、4月に退寮を命じられた。同月に東北漫遊の旅に出た。9月に三厩(みんまや)口から蝦夷地の松前に渡り、江刺で松浦武四郎と一日百詩、百印の雅興を楽しんだ。翌四年8月に蝦夷地を去って本土に渡った。同年に米沢を訪ねて遊学した。
嘉永二年(1849)正月に帰京し、家塾を守る。四方の志士と交わり、尊王の大義と幕政の非を唱えた。とくに父の旧友梁川星巖、梅田雲浜らと国事に奔走し、有志公卿を往来して意見を開陳した。同三年3月に再び米沢を訪ね、東町の石田名助(石田三成の子孫と伝わる)方に宿泊、藩校「興譲館」を視察して教授たちや学生と交流している。
(写真右=頼山陽が著した『日本外史』、米沢日報デジタル所蔵)
このときに頼三樹三郎は米沢城下を離れて小野川温泉にて饗応された。(自筆詩書)。同六年に外国艦艇の来航に皇国の安危にかかわると悲憤慷慨し、安政二年(1855)9月に母を喪ってから、家を忘れて国事に奔走している。同五年、幕府で将軍継嗣問題が発生すると一橋慶喜の擁立を画策し、4月に星巌と謀議して、水戸藩に勅書が下されることを近衛忠熙ら公卿に説いて回る。7月には星巌宅で西郷吉兵衛(隆盛)、大楽源太郎らと時事を議論した。8月に孝明天皇から水戸藩へ勅書「戊午の密勅」が下賜されると、間もなく幕府は「安政の大獄」を起した。
11月に三樹三郎はこれに連座して捕縛されて六角の獄に入った。翌六年(1859)正月に江戸に護送され、福山藩邸に預けられた。評定所の糺問の後、10月7日に国家擾乱の罪で死刑を命じられ、伝馬町の獄で斬首されて小塚原に棄てられた。三樹三郎は35歳の若さだった。墓は、京都、東京にある。
(写真左=広島市にある頼一族の墓所「頼山陽文徳殿」、米沢日報デジタル撮影)
極刑の理由は幕府が、「梁川星巌方へ参会いたし候三樹八郎、池内大学(陶所)、梅田源次郎(雲浜)、右四人反逆之四天王と自称いたし候由」(「公用方秘録 」)との情報を得ていたためという。
(写真右=回向院、写真撮影 竹田昭弘氏)
安政の大獄では、三樹三郎の他に、小浜藩士梅田雲浜、長州藩士吉田松陰、越前福井藩士橋本左内など10余名が斬罪、または獄死している。また一橋家当主一橋慶喜、福井藩主松平春嶽、土佐藩主山内容堂らが隠居・謹慎を命じられた。
二、一度目の米沢来訪
弘化四年(1847)8月3日に蝦夷地の福山から船で本土に向う。大風波のため南部九艘泊に漂着、弘前、9月に羽州へ、箭(矢)立峠、大館、雄(牡)鹿半島遊覧、酒田から最上を通って、上山藩士の金子與三郎(名は清邦・きよくに、字は鳴卿、号は得所、得処、1823~68、江戸で昌平黌の同窓)を訪ねる。三樹三郎は裏町高橋善助宅に逗留し、連夜、與三郎と時事を談じ、雞鳴暁を告げて倦まざりしという。時に詩あり(原本己に逸し石版に拠る)。
連夜不知雞唱晨/西窓剔燭話情親/
周遊奥羽三千里二/歳會無一故人/
上山城訪
金子君鳴卿 昌平/
校故友也
頼 醇 拝 草
と頼三樹三郎の詩の書があった。これはこの時の揮毫であるという。(/は列末)
米沢には金子の友人、藩士の山田長三郎(蠖堂、初め兵三郎、昌平黌で学ぶ)、同じく藩士の大瀧新蔵(新次秀光、始、忠怒、改、新五郎、3代目米沢市長の大瀧新十郎の父)がいた。その後、三樹三郎は上山から米沢を訪ねて遊学した。
米沢では昌平黌の先輩に当たる山田蠖堂を上山の金子與三郎から紹介されて、蠖堂が遠山村に設けた「杜宇山荘」で、窪田茂遂、甘糟継成、宮島誠一郎などと交流したのかも知れない。
(写真左=吉田松陰ら安政の大獄で処刑された小伝馬町牢獄跡、米沢日報デジタル撮影)
次に、三樹三郎が米沢を訪れ、藩校興譲館を訪問できたのも、山田蠖堂の父政章が興譲館の惣(総)監(在任1819~29)を務めていたことが関係していたのかもしれない。
山田蠖堂政苗(ようだかくどう・1803~61)は、山田(やまだ)兵三郎政章の子として享和三年に生まれ、初め兵三郎、後に長三郎を名乗る。文政十三年(1830)に家督を継ぐと五十騎組、180石を給された。
(写真右=小伝馬町処刑場跡、米沢日報デジタル撮影)
29歳で江戸に上り、古賀侗庵、昌平黌に学び、儒学経史を収めた。詩文に優れ、米沢に帰郷後、遠山村に「杜宇山荘」を設け、窪田茂遂ら多くの青年藩士に経史、兵学、漢詩等を指導した。藩から練兵総督に任用され、富国益民の立場で藩政改革に関与するが、豪直な性格が禍し罷免される。
安政六年(1859)上山藩校「明新館」の師範として藩主松平信宝の招請を受け、上山に3年間滞在し、講学のみならず家老金子与三郎と藩政刷新に尽力した。
(写真左=小伝馬町牢獄跡に建つ吉田松陰の石碑〈右端〉、米沢日報デジタル撮影)
米沢帰藩後、不和合の罪で永囲入の刑に処せられ、文久元年(1861)5月29日に病没(自刃とも)した。重要年表には、山田蠖堂が米沢藩の軍事機密を漏洩したとして禁固となり、当日自刃したという。行年59歳。
三樹三郎は、同年11月に、米沢を発して越後街道の大里峠の雪道を越えて越後(現在の新潟県)に入った。これを示す宛名不明の手紙が残っている。
それには、
向寒の節文房益々御安静奉欣賀候。小生義一別後奥羽二
州及松前蝦夷地一覧、此節酒田より最上筋上ノ山金子へ
相尋四五日逗留、当時米沢に罷在申候。何れ近日御貴境
へ罷出候心得に御座候。何卒宜敷御周旋成被下度奉希上
候。誠に江戸表在寮中は不浅内外御世話に相成、実に御
礼言語に難尽候。好便により一書呈上仕候。何れ近日拝
顔、二年中之談話可仕と唯今より相楽罷在候。
草々頓首再拝
十一月二日 頼三樹三郎
金子は上ノ山藩士の金子與三郎(号は得所)のこと。この手紙は米沢藩領内で書かれたものと考えられ、これから向かう越後の知人に宛てて書かれた。この手紙を書いたあと、間もなく米沢を出発し、国境の大里峠を越えて越後に入った。(以後の越後での行動は略す)
三、二度目の米沢来訪
嘉永三年(1850)3月に再び頼三樹三郎は米沢を訪れ、東町の代々検断を務めた石田名助方に宿泊、藩校「興譲館」を視察して教授たちや学生と交流した。頼三樹三郎は米沢城下を離れた小野川温泉にて饗応された。また、明治期の郷土史家上村節山の手記には、三樹三郎は東町の石田名助方に宿泊した。威風凛々頗(すこぶ)る敏質の人物で米沢藩校興譲館に出入し同校の先輩坂積翠、浅間南溝等と盛んに議論を交わし、同校の教員らが主催して彼を小野川温泉に招待して饗宴を張ったという。
同じ上村の手記によれば、坂積翠は「天保・弘化の頃、坂積翠ありて、易学に通じ、大瀬(現在、白鷹町)の善吉(吉田清成)と共に其名高し」と記してある。坂(ばん)積翠(実名は千松、諱は正直)は、天明三年(1783 )、与板組坂正隅の長男として生まれた。文化六年、16歳で友于堂の上座生、興譲館定詰勤学、同兼助読、典籍となる。天保元年(1830)家督し、翌二年に同館都講へ昇進、同三年江戸に上り古賀侗庵に学び、翌四年に帰国して興譲館の堤学に推挙され、安政四年(1857)まで務めていた。
浅間南溝(金太郎忠彰から彰へ、甚兵衛に改める)は、「上杉家御年譜」の浅間家家系譜から、五十騎組の浅間金十郎秀栄の嫡男に生まれた。文政十年(1827)10月に、父金十郎の家督を相続した。天保四年(1833)5月に興譲館の助教を命じられた。御勘定額頭取次席、御中之間詰を経て、同十五年(1844)正月に興譲館の提学を命じられた。安政五年(1858)正月に郡奉行格となった。
文久三年(1863)正月に総監を拝命した。慶応三年(1867)3月7日に致仕した。
後に頼三樹三郎は此時の事を思い起し京都から米沢に一書を送った。
その中に
奉寄懐米沢城(坂の誤り)浅間両先生
毫端走紙燭生煙。興譲舘中陪夜宴。
不覚欝紆峯上雪。鴻痕消尽己三年。
平安 頼 醇 拝
欝紆峯は宇津峠のことで、三樹三郎は此所を越して越後に向かった。
この米沢滞在中のことが、今井清見氏の手記に載せてある。それによれは、粡町に「某」という畳屋がおり、この亭主は田舎には稀な勇み肌の男であった。不図したことから交わりを結び、忽(たちま)ち意気相投じて昵懇の間柄となり、屡々(しばしば)其家に出入りしていた。
畳屋某の妻女は、ひなには珍しい美人であったが、いつの間にやら三樹三郎は其細君と道ならぬ交わりを結び、人目をしのぶ仲となった。そしてある時、亭主にその現場を見つけられた。
流石の三樹三郎も、これには二言もなく俄かに男振りを下げて「申し訳のない此の場の仕儀、此の上は只潔く切腹して御詫び仕る」と本当にその場で自殺しかねまじき躰に亭主も怒るに怒られず、少し気の毒になって「この世に何か思い残すことがないか」と尋ねると「浅間先生には一方ならぬ御世話になったから一言書遺して冥途に行き度い」と言って、サラサラと手紙を認め南溝先生のもとへ送らせた。
手紙を一見した南溝の驚き一方ならず、取るものも取りあえず、その場に駆けつけると、三樹三郎は、「只今、申訳に切腹仕る、何卒(なにとぞ)御介錯を御願い申す」と言うや否や胸打くつろげ短刀を腹に擬した。これを見た南溝忽ち其手を押さえ「死んで詫びるという足下の心底、某(それがし)確かに見届けた、この始末は某にあづけてくれ」と仲裁に入ったので、畳屋の亭主も諒承し事なく済んだ。三樹三郎は危く一命を喰い止めたという。この話しは他の古老からも実話として聞いたという。
四、米沢藩上杉家の藩士と頼家の交流
その後、米沢藩では藩の渉外役の宮島誠一郎(詠士の父、1838~1911)は、父の吉利(一瓢と号す)と共に米沢藩十二代藩主上杉斉憲が上洛した文久三年(1863)に供奉した。その際に頼又次郎(支峰)と出会っている。また、志士の雲井龍雄(1844~70)は、慶応三年(1867)1月、米沢藩の探索方として上洛し、京都では「遠山翠」の変名を用いて、頼支峰や、長州藩の時山直八、広沢真臣(のち参議)、品川弥二郎(のち内務大臣 )ら各藩の要人とも京都で交流している。
まとめ
まだまだ、頼三樹三郎、兄支峰が岩城屋海老名家を訪れた証拠となるような資料を発見することができていないが、間接的に長井(置賜)来訪の可能性が見えてきた。今後も調査を続けて完結できるように努力したい。
引用・参考文献
「日本大百科全書」23(小学館 1988)
「明治維新人名辞典」(吉川弘文館 1981)
「日本近世人名辞典」(吉川弘文館 2005)
「幕末維新大人名事典」下巻(新人物往来社 2010)
「新潮日本人名辞典」(新潮社 1991)
上山市史編集資料第21「幕末之名士金子與三郎」(上山市 1977)
木崎好尚「頼三樹伝」
「米沢市史」近世編2(米沢市 1993)
「上杉家御年譜」二十三 御家中諸士略系譜(1)
「上杉家御年譜」二十四 御家中諸士略系譜(2)(米沢温故会 1981)
松野良寅「興譲館人国記」
(米沢興譲館藩学創設三百年記念事業実行委員会 1998)
渡邊敏和「山田蠖堂政苗の撰文について」
(「置賜の民俗」第28号、置賜民俗学会 2021)
渡辺秀英「越後路の頼三樹(一)」
(「郷土新潟」第13号新潟郷土史研究会 1970)
中村忠雄「米沢と名士の来遊(下)」
(「置賜文化」第15号 置賜史談会 1957)