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竹田 歴史講座

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          わが交遊録


「江戸から菊栽培技術を持ち帰った曾祖父」
                          齊藤 喜一
   
 わが家は南陽市宮内の熊野大社門前で、江戸時代から現在まで代々、百花園という商号で表具店を営み、大社神事「獅子冠」の頭取も世襲で務めてきた。同大社は明治初年に神仏分離令が出るまで神仏混交(習合)で、上野の天台宗東叡山寛永寺に連なる社寺だった。同大社現宮司の先祖が幕末当時、寛永寺で修行をしていたが、役職柄、同大社と関わりの深い私の曾祖父齊藤善四郎は米沢藩江戸屋敷に「はしため」奉公の娘を連れ江戸に出向き、寛永寺で暫く奉公していたようだ。
 慶應4年、戊辰戦争の最中、旧幕臣3千人が集まり寛永寺を屯所として彰義隊を結成、江戸に入城した新政府軍と対峙した。5月15日、大村益次郎が指揮する政府軍の攻撃で彰義隊はあえなく壊滅した。その時に宮司の先祖は積み荷に隠れて寛永寺を脱出し無事に宮内に帰ることができたそうだ。
 善四郎は江戸で菊の栽培技術を学び、宮内に帰ってから菊の栽培を始めた。それが発展して現在の「南陽の菊まつり」となっている。昨年、その菊まつりが第101回を迎えた。まさに歴史と伝統、出品者の不断の努力と技術が見事に開花したものと言うことができる。
 嘉永3年1月、江戸上野に行った善四郎は生池院に滞在して造花を作って見せた所、僧正様に「江戸で見た事のない珍しき造花」と誉められ宮様に献上となる。褒美に花菖蒲根分け五十株を賜った。それが「長井あやめ公園」の古種ではないかと、南陽市の郷土史家だった錦三郎先生がエッセーに書いている。(さいとうきいち@百花園店主)

平成26年5月25日米沢日報掲載
平成27年1月30日14:45配信