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「絵を描く文信氏を素通りした皇太子殿下」
高木 祐輔
わが家のルーツを遡ると、大本家は米沢市鉄鍛冶町にある高木源五郎家に至ります。私が知る所によれば、同家は蒲生時代に、米沢を治めた蒲生四郎兵衛郷安(蒲生氏郷臣下)に付いてきて刀鍛冶の仕事を行い、上杉氏の代も米沢に残り、名字帯刀を許された家柄でした。
明治維新後、刀が不要な時代になると分家のわが家は草刈り鎌を作り始めました。刃物製作というDNAを持つからでしょう。私の父祐幸雄は「米沢鎌」と言われる原型を作った腕のいい職人で、鎌の品評会があるといつも金賞を頂いていました。
ある時、別の鍛冶屋にも賞をあげたいと言われて、父は一等賞を譲り、二等賞を二枚貰って帰った時がありました。すると、祖父から「二等賞を二枚貰っても一等賞にはならない」とひどく怒られたそうです。戦後、父は鍛冶屋から農機具店に商売を替え、仕事の傍ら、絵、歌、書が趣味でした。
当時、米沢市免許町(現米沢市大町)に住んでいた画家狩野文信氏(1895〜1975)とは昵懇で、文信氏はよくわが家に遊びに来ました。その時に私が聞いた事は、文信氏が米沢工業学校生徒の時に大正天皇東宮(皇太子殿下)が学校を訪問(1908年9月15日)され、校長室で絵を描いていたそうですが、皇太子殿下は校長室に入るなり自分の絵などには一切興味を示さずに後の戸からすうーと出て行かれたそうです。
そのような訳で、わが家には文信氏の何幅かの書軸が残されていますが、年に一度虫干しを兼ねて床の間に飾っています。(たかぎゆうすけ@(株)置賜農機商会代表取締役、米沢市在住)
平成26年6月1日米沢日報掲載
平成27年1月30日14:45配信