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          わが交遊録


「戦国武将寒河江氏とわが家」
                          寒河江宮夫
   
 この6月1日から7月21日まで、寒河江市にある本山慈恩寺が開山1300年を記念して、秘仏の御開帳をおこなっている。御開帳を前にした5月、知人である寒河江市史編纂委員会委員長の宇井啓氏のご案内を頂き、友人らと慈恩寺を見学させて頂いた。開山以来、戦乱に巻き込まれて堂宇が灰塵に帰してしまったことや、明治維新以降の廃仏毀釈で多くの坊が閉じ、帰農したことなどの貴重な歴史をお聞きした。
 鎌倉幕府将軍源頼朝の腹心、大江広元は功績によって寒河江荘を賜ったが、慈恩寺は広元の子、親広やその子孫から外護を受けてきた。広元から8代目の時氏の世、寒河江氏を名乗ったが、寒河江市役所近くにはその居城だった寒河江城址がある。寒河江氏は、天正12年(1584)、最上義光と戦って敗れて滅亡したが、寒河江氏の庶子(傍系一族)の寒河江肥前守、寒河江光俊、寒河江十兵衛などが家臣として義光に仕えて、義光が死去した時には肥前守と十兵衛は殉死している。
 わが家の伝承によれば、元和8年(1622年)、最上騒動によって最上氏が改易となった時に、わが先祖寒河江(肥前守の末裔と言われる)は米沢藩領の堀金村(現川西町堀金)に移り、武士から帰農したということである。義光に仕えていた時代には、南楯に居を構えて相当の財産もあったらしく、堀金堰の改良などに相当の私財を叩いたらしい。地元に貢献するという心がけは、その時以来わが家に脈々と伝わる。
 明治維新後に、山形で最上義光の250回忌法要が開催された時に、わが家の数代前の当主がその行事に招かれたということを聞いている。(さがえみやお@行政書士)

平成26年6月7日米沢日報掲載
平成27年1月30日14:45配信