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「五十嵐姓の由来に歴史ロマンを感じて」
五十嵐謙一
私の住む地域は以前、南置賜郡窪田村だったが、昭和29年12月1日、市村合併により米沢市に編入されて米沢市窪田町となった。昭和40年代に入り、窪田地域の郷土史を残しておきたいという機運が高まり、公民館が中心となって窪田郷土史編纂委員会(初代委員長 石山忠一窪田公民館長)が組織され、10数年の時間をかけて昭和58年6月、合併から30年を経て「窪田郷土史」が発行された。
慶長5年(1600)に起った上杉と最上の戦い「最上戦争」には、窪田村からも兵が参加したと聞く。窪田郷土史には、窪田の旧家に代々伝わる武具が今もってある事は最上戦争に参加した名残りであろうと推察している。私が小学校5年生(昭和29年)頃、わが家には大小の日本刀や鎗が何本かあったのを見たことがある。しかし、今は何も残っていない。その理由は一家の大黒柱である父が満州で戦死し、戦後、生活に困窮して売払って家計の足しにしたからだろう。
窪田郷土史がまだ編纂途中の頃だったが、同委員会の佐藤章主筆が「米沢市の五十嵐姓の由来は、上杉景勝や直江兼続の出身地である越後国魚沼郡上田庄(現・新潟県南魚沼市)の坂戸城下に沢山ある」と私に話したことがある。わが菩提寺の普済寺は天正年間に開創されたが、火災で寺史などが焼失してしまい詳細は不明だが、わが祖先は屯田兵の形で窪田に配されたようだ。また越後国下田村(現新潟県三条市下田)が「五十嵐の発祥地」とも言われている。
江戸時代、窪田村には越後揚北衆(新潟県北部)の出身である色部氏が配され、菩提寺が千眼寺にある。同じ窪田地域でもわが家(の姓)は上田庄、あるいは下田村の出のようだから、米沢以前は色部氏の配下ではなかったと思われる。直江兼続の大河ドラマ以来、先祖の歴史ロマンに思い馳せるこの頃である。(いがらしけんいち@米沢市遺族連合会会長)
平成26年7月27日米沢日報掲載
平成27年1月30日14:45配信